三日月の昇る夜、死神は
志熊准(烏丸チカ)
第1話 三日月の昇る夜①
――君を死なせない。
彼女に与えられた初めての言葉は、何とも〝死神〟らしくない言葉だった。
優雅に空間を舞う蝶のような浮遊感の中、僕は彼女と出会い、そして2度目の人生を与えられた。
「この世界を救うために、君に頼みたいことがあるんだ」
現在進行形で「死んでる」ってのに、セカイ系小説みたいな彼女の野暮ったい台詞に、思わず噴き出しそうになる。
『なんだよ、頼みって』
問いかける。
すると、死の淵で彼女は僕に言った。
「女の子たちと恋をしてもらいたいんだ」
恋?
「そうだよ。君には、とある女の子たちを落としてもらいたいんだ」
君の命と引き換えにね。
死神は真剣な面持ちでそう語った。
一体、これは均衡の取れた取り引きなのだろうか。
訝しむも、僕に選択する余地はなかった。
『何でもいい、生かしてくれるなら』
こちとら、まだやり残したことがあるんだ。
死神の手を取ると、彼女は砂のようにサラサラと崩れ落ちた。
その残像には「笑み」が浮かんでいたが、僕にはその理由が分からなかった――
■
「欠けているからこそ、美しいものってあるよね」
「あん?」
ストローを刺した紙パックに口をつけ、軽く凹ます。
適度に冷えた牛乳が喉元を癒やしていると、三日月が唐突に言葉を零した。
「例えば月とかってさ、欠けてたほうが綺麗じゃん」
昼休みの大学校舎には、僕と三日月しかいない。畢竟、彼女の話し相手は僕だけなのだが、なんとも返しづらい言葉だった。
「……ナルシストなのか?」
「違う、違う。美の話だよ」
「ふぅん」
教育学部の美術専攻生である三日月は、先程から課題の自画像を描いていた。
額に汗かき、真っ当にキャンバスに向かうのは結構だ。しかし、〝希少種〟が考えることは相変わらずよくわからん。
「今日ね、美術史の講義があったんだよ」
「へぇ。2コマ目?」
「そうそう。でさ、教授が言うわけ。『誰もが美と思う美とは何か』って。面白いでしょ」
面白いんだろうか。
何とも息がしづらそうな講義に思えるが。
「美、ねぇ」
「それでずっと考えてたんだけどさ。結局、美っていうのは、人それぞれなのかと思って」
「で、欠けた月の話を?」
「そうそう――と、こんなもんかな」
どう? 上手いもんでしょ。
手招きする彼女につられ、キャンバスを覗き込む。
すると、そこには写実的な彼女の顔でなく、えらく抽象的になった「果物」に似た何かが描かれていた。
「なんだこりゃ」
「えー、わっかんないかなぁ。私だよ、私」
南国のジャングルみたいな色合いの肌を一見しただけで、誰がこれを三日月だと言い張れるのだろうか。
「美術ってのはわからん」
「わかんないかなぁ。この独創性が」
ガキのように頬を膨らませる三日月。絵を理解するよりかは、彼女の感情を読み解くほうが、いくらか簡単だ。
「これを提出するのか?」
「もちのろん。課題提出は今日の夕方6時までなんだから」
描き直す時間もないってわけですか。
この絵じゃ教授も困るだろうに。ま、何かしらの琴線に触れて、大逆転勝利ってのも有り得るか。
何にせよ、絵の具の溶かし方もままならない僕が心配する必要はないことだ。
「じゃ、私、次のコマがあるから」
「おう」
「ここにいてもいいけど、美専の子が来るかもよ」
「しばらくしたら、帰るからいいよ」
「そう。じゃ、また明日ね」
「はいよ」
美術専攻の学部生が使う「実習室」の扉を勢いよく締め、三日月は次の講義室へと駆けていった。
二年生にもなるってのに、忙しい奴だ。
さて、と。
「飯も食ったし、帰りますか」
授業もなく、居場所もない。さらにいえば、やることはやった。
都会であれば、街に繰り出し遊ぶことも考えたが、あいにくこのあたりには何も無い。
「暇ってのも酷な話だよな」
裏手の坂から歩いて徒歩5分。
のろのろしつつ大学生の密集する下宿先へと帰ると、数人の女とすれ違う。その内の一人と目が合うと、彼女が片手を挙げ僕にあいさつをした。
「あ、ウッシーじゃん。やっほ」
「七瀬。どうしたんだよ。こんなところで」
ハイツの廊下で会ったのは、同じ学部の七瀬だ。茶髪で小柄の彼女は、僕の二個隣の部屋の扉の前で家主が出るのを待ちわびていた。
「今、レンくん待ちなのー」
「あ、そう」
「てか、うっしーの家って、ここなんだっけ? レンくんの近所じゃーん」
「そうだよ。七瀬はレンと待ち合わせでもしてるのか?」
鍵を開けつつ会話を続けていると、七瀬は「ううん。出待ちしてるだけ」と答えた。
「……あ、そう」
「もしかしたらいないのかも。さっき、他の子もいたんだけどさー。帰っちゃったしー」
さっきすれ違ったのも、あいつ待ちだったのか。
「最近みないから、どっかで野垂れ死にしてるのかもな」
「あはは。笑えなーい。でも、もしかしたらバイトなのかも。じゃあ待ってても仕方ないし、あたしも帰ろっかなー」
「そうした方が良いかもな」
扉を締め、会話を打ち切る。
二部屋隣に住むレンというのは、同じ大学の一つ上の先輩だ。
夜な夜な女を連れ込んでは、何かしているようだが、真相は目下のところ不明だ。
「田舎の学生だよな」
「3S(Study、Sleep、Sex)」ってのは真実を捉えた言葉だ。
みんな暇を持て余しているらしい。
「おかえり」
「……ただいま」
1Kの我が家へと帰ると、そこには同居人の姿があった。
「昼間に帰ってくるなんて、学生ってのは優雅だね」
「お前こそ、羽を伸ばして優雅そうだな」
皮肉には皮肉を。
しかし、それは比喩ではなかった。
「羽休めも必要よ? とかく人気者にはね」
真っ黒な羽を床につけたまま、彼女はソファの背もたれから顔を覗かせている。
天地が逆になった彼女の顔を一瞥してから、僕は冷蔵庫を開いた。
「おい。空っぽじゃねえか」
朝まで、ハムやらパン、菓子類を入れていたはずだが、冷蔵庫はいつの間にやら
「食べたらなくなる。これ、自然の摂理なり」
舌をペロリと出すさまがなんとも憎たらしい。
「……補充しとけよ。居候」
クスリと笑う同居人、
「もちろん、家主様。死神の名にかけて、我が
恋多き死神は微笑を浮かべる。
それを見た僕は、頭を抱えるほかなかった。
「自分の家へ帰れよ。隣の隣だろ……」
呆れつつ言葉を掛けるも、返答はない。
「どうしてこうなった……」
後悔先に立たず。覆水盆に返らずとは言うが、これではあまりに奇妙だろう。
ええい!
回顧的にはなるが、思考を前に進めるためだ!
あの日のことを今一度、振り返ろうじゃないか!
そう――僕の小市民的生活が崩れ去ったのは、三日前のこと。
こいつと出会ったのは――
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