第4話

 約束の時間より少しだけ早く、参蔵と巳之吉は側室の梅に指定された光明寺へ来ていた。

 羽縄藩の江戸での菩提寺だ。指定先が江戸屋敷でも、誰か重臣の邸宅でもないところに、梅の気持ちが表れている、と参蔵には感じられた。ただ、それをいうなら、菩提寺であるということに、一縷の望みがあると考えてもいいかもしれない。いや、単に死体の始末に使うだけかもしれない。

 ふたりとも境内にある賽銭箱の前でじっと黙りこくっている。口の中はからからに渇き、手は汗でおおいに湿っている。

 しばらくして、梅たちがやってきた。よほど内密にしておきたいことらしく、彼女の他には、新右衛門と南郷が左右に控えているだけだった。見えてもなお、ゆっくり参蔵たちに近づいてくる。

 参蔵が梅の顔をきちんと見たのは初めてだった。

 細目で吊り上がっているせいか、美しいが冷たい印象がある。肌の白さも、つられて雪のように感じられる。本人もそれがわかっているのか、着ている打掛は赤が多い。近づくにつれ、赤の正体が参蔵にもわかった。名前にあわせたのか、梅が咲き誇っているのである。金糸も使われ、実に華やかなのだが、見れば見るほど怖気が走る。

 側室になってから、梅はそうやって生きてきたのだろう。

 参蔵はつばを呑み込み、自分たちのそばまでやってきた梅に頭を下げた。巳之吉も彼を真似て頭を下げる。

「よい。顔を上げよ」

 声にも情がなかった。じっと巳之吉を見ている。彼の頬に、汗が流れる。

「殿さまになりたいか?」

 抑揚がないため、参蔵には梅の心を推し量ることができない。

「いえ」と巳之吉は必死に首を振る。

「ならば、なぜ武士になりたい」

「母の願いだから、です」

 唇が強張って、うまく動かないようだ。しかし、参蔵が口をはさむわけにもいかない。梅の隣に立つ新右衛門が苦笑している。参蔵は内心でため息をついた。普段なら、緊張感が足りないことを注意していただろう。

「おぬしの母は死んだと聞いた。ならば、その願いを聞く必要もないのではないか?」

「母の願いは、私の願いでもあります」

「金か? それとも、地位か? 武士になどなっても、何も楽しくないぞ。なあ、新右衛門?」

 新右衛門は「ははは」と薄めに笑って、頭をかいた。

 参蔵にはわかる。この男は、武士で楽しい部類の人間だ。

 しかし、巳之吉にはわからない。このやりとりでも、気持ちがほぐれることなく、がちがちに固まったまま口を開いた。

「金も地位も欲しくないと言えば嘘になる。でも、それだけじゃない。武士の子として生まれたから、自分も武士になってみたい。母がいれば、父がいる。憧れちゃいけないか?」

 懇願だった。

 梅の顔はなんの感情も出てこない。

 参蔵は、自分も何か言うことにした。

「梅様」

 梅の目がわずかに動いて、参蔵に向けられる。

「巳之吉殿に野心はありません。いえ、そもそも、もし野心があったとしても、どうにもならないでしょう。左官見習いが、藩主の座を望んだところで、その役目が務まるはずありません。どうぞ、ご安心ください」

 巳之吉がうなずくのを横目に、参蔵は深々と頭を下げる。

 しかし、返ってきたのは、はあというため息だった。

 参蔵が頭をあげると、梅の目にわずかながらも怒りが見えた。

「噂通りの男ですね、あなたは」

「いい噂ではありませんね」

「ああ」と、新右衛門と南郷がいやみったらしく笑う。

 梅は驚くほど表情を動かさない。参蔵にしてみれば、近寄りがたいを通り越して、同じ人間とは思えなくなってきた。

 いや、と参蔵は考え直す。梅も人なのだ。我が子のために人の命を奪おうとする苛烈さがあるではないか。この冷たさは、彼女の武器のひとつ、と考えたほうがよかろう。ただ、今の参蔵に、それに対抗する術はまるでない。

「横田殿」

 梅は参蔵を呼びかけた。

「はい」と馬鹿正直に返事をしたら、一瞬だけ彼女の眉にしわが寄った。

「巳之吉は野心がないと言いますが、それは未来永劫にわたってのことと断言できますか? 人間、朝考えたことを夜、いえなんなら昼にだってひるがえすことなど、よくある話ではないですか。今の巳之吉を見て、どうして明日の巳之吉を信じられるでしょうか。それに、巳之吉に野心がなくとも、野心を持った誰かが神輿として担いだらどうします? 殿の血を引いていることは、羽縄藩にとって災いの種になりかねないのです」

「いやあ……羽縄藩ではなく、梅様にとって、ではないですか?」

 参蔵は思ったことをぽろっと言ってしまった。

 新右衛門が「おい、馬鹿」とつぶやき、巳之吉が「さすがに、それは俺でも言わねえよ」と呆れた。

 返事としてはよくなかったようだ、と参蔵は反省する。ただ、正解は頭に浮かばない。

 梅は深呼吸をしてから、口角をあげた。参蔵にもわかる。これは威嚇だ。

「同じことでしょう? わたしが考えているのは、羽縄藩の未来です。わたしの子と巳之吉、どちらが藩主にふさわしいでしょうか」

 参蔵は肩をすくめる。

「巳之吉殿にその気はないのです。神輿にはならんでしょう」

 梅がため息をついて、南郷を見た。彼はうなずいた。

「話が堂々巡りになりそうだ。ならば、言葉はこれまで。あとは刀といこうではないか」

「まあ、そうなるんでしょうね。剣術は大嫌いでして、どうにか話し合いを続けたいのですが……」と、参蔵が残念そうにこぼす。

 しかし、彼の肩を巳之吉がつかんだ。

「覚悟はしていた。ありがとうよ、梅様。話を聞いてくれて。それが俺にできる、せいいっぱいのことだったんだろう?」

「わかっているのなら、ここに来なければよかったものを」

 梅の声はもう落ち着いていた。

「それはそれ。俺には俺の意地ってものがあるんだ。武士でなくたって、すじを通すものさ」

「わからぬし、興味もない」

 梅は首を振った。

 ただ、巳之吉の目は参蔵に向けられていた。

「参蔵さん、つきあってくれて、ありがとうな。俺も意地をはれた。これで斬られても、おふくろは文句言わねえと思うんだ」

「巳之吉殿の母君が言わなくても、わたしは言うぞ。そもそも、斬られる必要はなかろう」

「話が通じん男だな、さっきまで何を話していると思っている」

 南郷がぼやくのを見て、新右衛門がにやつく。

「横田参蔵は、そういう男なのさ。しかし、参蔵。おまえは賀川から聞かされているだろう? 梅様の子の父が、兄上――殿ではないことを」

 まるで知らされていない巳之吉がぎょっとする。

 梅は眉をひそめるが、何も言わない。南郷もそれは同じだった。

 参蔵は、ため息をついた。

「そういうことか……」

「おう、珍しく察したようだな」

「父親はおまえだな?」

 新右衛門がにかっと笑う。

「梅様はもともと花魁。兄上よりも前に、俺が馴染みだったというだけだよ」

「だから、そちらについたのか。それで、忠秀様はそのことを知っているのか?」

「わからん。俺たちは、顔が似ているからな。ただ、ひとつ言っておく。俺には親の情なんてない。生まれてしばらくしてから、聞かされたくらいでな。あいつは、どこまでいっても兄上の子だよ」

「そこはどうでもいい」と言ってから、参蔵は梅を向く。「梅様、わたしと巳之吉殿は何も言いません。それに、わたしや巳之吉殿がそんなことをわめいても、誰も信じますまい。だから、見逃してもらえませんかね」

「くどい!」

 さすがに梅は怒鳴った。

 それにあわせて、南郷が刀を抜こうとした――が、それを新右衛門が制する。

「悪いな、俺が出る」

 南郷は不服そうだったが、無言でうなずき、一歩下がった。昨日、実力の差を見せつけられれば当然だろう。

 新右衛門は、参蔵の前に立った。

「おい! 斬るのは俺だろう!」

 巳之吉が気を取り直して、吠える。だが、今度は参蔵が巳之吉の肩をつかんだ。

「まあ、見ていてくれ」

「でも、昨日の剣捌きを見ただろ? 強えよ、このおっさん、すげえ強えよ!」

「知ってる」

 参蔵は刀を抜きながら、微笑む。そして、新右衛門に向き合う。

「参蔵、何年ぶりだ? 道場以来だな」

「そうだな」

 ぎらつく新右衛門に対し、参蔵はそっけなかった。新右衛門は、剣が好きだ。戦うのが好きだ。どんな状況であれ、剣を交えられれば幸せなのである。参蔵はそんな彼の気持ちがまるで理解できない。

「さっさと終わらせるぞ」

 参蔵が昨日の南郷のように、新右衛門の喉を狙って突きを出す。

 後の先。新右衛門は異常な速度で刀を抜き、やはり昨日と同じく斬り上げる。

二人の剣がぶつかる。昨日は、突きが斬撃で弾かれた。果たして今日は――

「なに!」

「えっ」

 南郷と巳之吉が同時に声を出す。梅も目を見開いていた。

 新右衛門の刀は、参蔵の刀に下からぶつかる。だが、突きの軌道はまったく変わらなかった。斬撃が逆にはね返される。そして、新右衛門はとっさに身体をひねって、参蔵の突きをかわした。新右衛門は横に転がってから急いで立ち上がり、正眼に構える。

 次は自分から上段に振りかぶって参蔵に迫る。振り下ろされるその剣を、参蔵は鍔で受け止め、横に弾く。刀を返すように、がら空きになった新右衛門の胴に自らの剣をたたき込んだ。新右衛門は膝をついた。参蔵は追撃せずに距離を取った。

「峰打ちだよ」

「わかっている」

 少しして、新右衛門は立ち上がる。まだ叩かれたところは痛むようだ。肩で息をしている。一方の参蔵は面白くなさそうな顔をしている。

「やはり、剣術の面白さがどうしてもわからん」

「そりゃ、こんだけ強ければな」

「え、おっさん、これ何?」

 ふたりの会話に、戸惑う巳之吉が割って入った。南郷も激しくうなずいていた。

「俺は自分が相当強いと思っているが、参蔵にはまるで歯が立たないんだよ」

答えたのは、新右衛門だった。

「初めて会ったのは道場だが、なんでか知らんが最初からこうだった。誰もまるで歯が立たない。にもかかわらず、こいつは剣が嫌いだって話だ」

「こんな簡単なものが、面白はずなかろう。それよりも、今の武士たるもの、算盤とか礼儀作法とか、そういったことに注力すべきではないだろうか。あちらのほうがはるかに難しく、奥が深い」

 参蔵はさも当然と言いたげだった。

 実際、そうであった。武士になったからにはと、とある藩士に紹介してもらって剣術道場に行った。羽縄藩士が多く在籍している道場は他にあるのに、そこにいる羽縄藩士は剣術の鬼、大井新右衛門だけだった。実は、新右衛門にこっぴどくやられてしまえという、藩士からの嫌がらせだったのである。――なお、参蔵は今に至るまで彼らの真意を知らない。

 案の定、新右衛門は初日から参蔵につっかかった。彼もまた、参蔵の存在に快く思っていなかった。自分たちの中に、金で異物が入ってくる。いい気分はしない。

 もちろん、誰でもいいから剣でやりあいたいという欲望もある。本人は一石二鳥のつもりだったが、あっさりひっくり返された。

 木刀を持ったのは初めてだ、と参蔵は言う。

 にもかかわらず、百戦錬磨の新右衛門をまるで寄せつけなかった。それだけではない。構えも動きも、達人の型のようにきれいであった。新右衛門との戦いを見ていた他の生徒たちが見惚れるほどに。

 ずばぬけた才能としか言いようがない。いい目と、頭の中で考えた動きを時間差なく現実にできる手足、そして誰にも勝る膂力。

 新右衛門はその圧倒的な強さに白旗をあげた。周囲も驚くが、本人は剣術はつまらないものだな、と感じただけだった。道場も、その一回で行くのをやめた。

 新右衛門にこういったことを話す相手はおらず、道場に羽縄藩士がいないこともあり、横田参蔵の異常な強さが正確な形で世間に広まることがなかった。上役の賀川でさえ「かなり使う」としか知らない。

 新右衛門も、当時は「やるじゃないか」としか思わなかった。

 風向きが変わったのは、参蔵が藩士として仕事を始めてからだ。

 算術、書き物、交渉事――剣以外のことは、何もできなかった。

 本人は商人の子であり、本人も実は商売で身を立てることを望んでいたという。しかし、そちらはまるで向いていなかった。支店をひとつつぶして、実家は匙を投げたのだとか。

 周囲は彼を小ばかにし、本人が思うような成果もあがらない。役目も転々とさせられている。それなのに、参蔵は腐ることなく、日々一生懸命職務に励んでいる。

 その姿に、新右衛門は心打たれた。参蔵の努力は傍から見ていても、決して報われることはない。本人もどこかで気づいているかもしれない。しかし、いい年をした男が、子供のように必死に生きている。そこに、惚れてしまった。だから、押しかけるようにして友人になった。幸いお互いに気が合い、長いこと交友が続いている。

「剣は面白いぞ、参蔵」

 新右衛門は正眼に構えなおした。

 参蔵も同じく正眼に構える。

「そこだけは、いつまで経っても意見が合わないな」

「なに、今から教えてやるよ」

 新右衛門が笑った。しかし――

「すまんが、変わってくれ」

 彼の隣に、南郷が立った。すでに刀を抜いている。

「じいさん、あんたにゃ無理だ」

 南郷はにやりと笑う。

「おぬしだって、勝てぬとわかってやったろう?」

「まあな」

 新右衛門は苦笑して、刀を納めた。

「お互い剣術馬鹿ってわけか」

 南郷は鼻を鳴らす。そして、そのまま参蔵に斬り込んだ。

「さすがに、ずるくないか?」

 巳之吉が声を上げるも、参蔵は首を振る。

「これくらいで、怒ることもあるまい」

 参蔵は半歩ずらして南郷の斬撃を避けると、その手首を柄尻で叩きつける。

「ぐっ」

南郷はあっさり刀を落とした。

「これだけあっさり負けると、腹も立たんな」

「俺も同じ意見」と新右衛門。

 参蔵は構えたままだが、戦意はないため、南郷は自分の刀を拾って鞘に納めると、彼に深々と頭を下げた。

「邪魔をしたな」

「いえ、そんな」

 心底たいしたことなさそうに、参蔵は手を振る。

 南郷は失笑しつつ、新右衛門を目くばせをした。

 新右衛門はうなずくと、梅を見た。

「梅様、実はこういうことなんです。羽縄藩、いやこの江戸にだって、参蔵をとめられるやつはいません。それこそ、お上にばれる覚悟で戦をするつもりでもなければ。でも、そうなったら、藩は間違いなく取り潰しになるでしょう。そもそも、参蔵がその気になったら、ここにいる人間はみな死にます。足も尋常じゃないくらい速いです。逃げられません。どうにか、刀以外で落としどころの相談ができませんかね?」

 梅が眉を寄せた。

「おまえ、わたしに味方すると見せかけて、この光景を見せるために動いていたのですね。最初から、誰も死なずにことが収まる方法を模索していた」

 新右衛門は「へへ」と苦笑する。

「参蔵なら、やってくれるんじゃないかと期待していただけですよ」

 そして、なんだか偉そうに腕を組んだ。

「わたしは、自分のやれることをやっているだけだ」

 参蔵は目を細めて、刀をすっと梅に向ける。

「して、梅様。新右衛門の提案はいかがでしょうか? こういうやり方は好きではないのですが、どうもこちらのほうが効くようなので、失礼いたします」

 梅はしばし逡巡したのち、静かに目を閉じた。

「……無礼なるぞ、と言いたいところですが、仕方ありません。話し合いで解決する他に道はなさそうですね。わたしにとっても、羽縄藩にとっても」

 巳之吉は緊張が抜けたのか、へたり込んだ。


 ――二か月が経った。

 参蔵は縁側にいた。

 仕事がない日で、八重は三味線に出かけている。

朝顔はとうに枯れてしまった。最後まで、きれいに咲いてくれた花だった。種は取ってある。来年もきっとその美しさを見せてくれるだろう。

 目の前の青年が木刀を振るのを眺めつつ、参蔵はぼんやり考えていた。青年はそのことに気づき、動きをとめる。

「父上、今の動きはどうでした?」

「あ、ああ。ちゃんと見てなかった」

 青年が口をへの字に曲げる。

「頼みますよ。私は、父上の武のせめて足元には至りたいのですから」

「そんなこと言われてもなあ……」

 参蔵は頭をかく。しかし、このやり取りがどこか楽しく、表情は柔らかだった。

「次は見ているよ、巳之吉」

 青年――巳之吉は、笑顔でうなずくと、再び木刀を振りはじめる。この二か月で、顔つきは精悍になり、身体はずいぶんと絞り込まれた。太刀筋も悪くはない。

 巳之吉は横田参蔵の養子になる――それが、梅の提案した落としどころであった。

 横田参蔵の養子ならば、この先どれほど有能であったとしても、羽縄藩の中核に来ることはないだろう。そういう判断だった。

 巳之吉はそれに一も二もなく賛同した。自らの言葉どおり、野心がないのも理由だが、大きいのは、参蔵の強さに憧れてしまったことだ。

 剣術指南役をいなした新右衛門。その彼がまるで歯が立たない参蔵。鮮やかな刀捌きに、巳之吉はすっかり魅了されてしまったのである。

 養子になってからの彼は、言葉遣いから何から、すべてが変わった。まじめで穏やかになり、向上心があり、新しい父母を慕っている。どこにこんな善良さを隠していたのだろうか。もちろん、武士としての教養や作法はないが、それはゆっくり学んでいけばいい。どうせ、横田参蔵の子である。誰も何かを期待してはいまい。

 八重も、急にできた子供に喜び、なんくれとなく世話をしている。

 元の養子先である馬廻組の古泉と仲介を買って出た旗本の金井の説得は、賀川がやってのけた。古泉には別のふさわしい養子を紹介し、金井は口八丁手八丁で丸め込んだらしい。

「きっとうまく解決してくれると信じていたぞ」

 切腹をまぬかれた賀川は、参蔵にそう言った。参蔵は笑って済ませた。今までも、これからも、賀川の世話になるのは間違いない。

 今回の件は、完全に秘匿された。江戸屋敷で南郷と会う機会があったが、初対面のふりをされた。側室の梅とは、もちろん会うことがない。

 新右衛門は相変わらず強い相手を探して江戸じゅうを歩き回っている。

「もう少し強くなったら、また相手をしてくれ」

 しょっちゅう参蔵の家で酒を飲むたびに言っている。以前なら、参蔵は即座に断るのだが、いつも同席している巳之吉が期待するような目をするので、強く拒絶できなくなっていた。近々立ち合って、新右衛門には悪いが、しばらくおかしなことができないよう、骨でも折ってやろうかと思っている。

「ただいま帰りましたよ」

 八重が三味線の稽古から戻ってきた。

「母上、おかえりなさいませ」

 巳之吉が木刀を縁側に置き、汗をぬぐいつつ玄関に向かう。きっと今日も、八重は晩飯の食材を大量に抱えて帰ってきているにちがいない。巳之吉もそれを見越しているのだ。母のために持ってやらねば。

 米の減りがだいぶ早くなった。

 それがこんなにも嬉しいことだとは、参蔵は知らなかった。

 妻と子の賑やかな声が聞こえてくる。

 参蔵も立ち上がり、そこに加わることにした。

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男の身分 @donyoridou

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