第3話
家に戻ると、妻の八重が起きて玄関で待っていた。帰りが遅いのを心配しているのかと思いきや、
「来客ですよ。新右衛門さん」
ということだった。
たたきをあがった先にある部屋に、確かに新右衛門が座っていた。遅い時間だが、気ごころの知れた仲だし、初めてのことではない。
参蔵と同じく、髪に白いものがまじった四十過ぎの男だ。ただし参蔵と違い、日焼けにより肌が黒く、岩が動いているようにも見えた。とっくりを持参し、すでにたくあん漬けを肴に酒を飲みはじめている。杯は彼が使っているものも含めて、ふたつ置かれていた。
参蔵は向かいに座り、新右衛門のとっくりから酒を杯に注ぎ、くいっと一気に呷った。顔面も岩に似た新右衛門がにやりと笑う。
「えらいことに巻き込まれたな」
「やはり、知っているか。どうしたらいいと思う?」
「俺に剣以外のことを聞いてどうする」
「そうだな、すまん」
参蔵は笑って、たくわん漬けをつまんだ。
新右衛門――大井新右衛門は、羽縄藩藩主の実弟である。
この男は、剣が好きで好きでしょうがなく、他のことにはどうしても関心が持てなかった。だから、兄から食い扶持をもらいつつ、ひたすら道場で剣を振り続けた。そして、気づいたら四十歳を超えていた。本人は、それだけだと思っている。後悔さえない。
しかし、周囲からすると、少し違う。
彼は剣術の鬼だった。人並外れた膂力と研ぎ澄まされた技巧でもって、腕は師をとうに超えているにもかかわらず、藩のことさえ省みずに、本人にしかわからない高みを目指している。強い相手がいると聞けば、どこであろうと駆けつけて戦いを挑み、そのことごとくに勝利しているという。強い者がいなければ、誰彼かまわず試合を申し込んでいる。
常在戦場の精神で、周囲に迷惑をかけ続けていた。
しかも、どこか人を痛めつけることに快楽を感じているという噂もあり、彼を知る人々は彼がまだ辻斬りに手を染めていないのを不思議に思っているくらいである。
厄介者である。他のことは何もしない分、余計に始末が悪い。
というわけで、参蔵と同じく羽縄藩の腫物として君臨している。
腫物同士ゆえか、気が合った。仲がいい。参蔵が武士になった当初、一度だけ新右衛門と同じ道場に通って以来、交流が続いている。参蔵も、新右衛門がそういう男のため、藩主の弟といっても、さほど遠慮せずに済み気楽に付き合えた。
「俺に巳之吉殿を説得はできん」
「ならば、斬るか」
新右衛門が目をぎらつかせた。辻斬りはしないが、人を斬ったことはある。
「彼を死なせたくはない。梅様に会いたい。段取りを頼めないか?」
いくら父が藩に金を貸している両替商とはいえ、江戸留守居添役の参蔵は、側室の梅に気軽に会える身分ではない。身分以外の理由で、新右衛門も気軽には会えないのだろうが、それでも参蔵よりはましだった。
そのことを参蔵は知っている。
新右衛門は三口ほど杯を呷ってから、眉間にしわを寄せた。
剣のことではないので、すぐに結論が出ない。参蔵はそう考えていたが、さほど待つことなく、新右衛門が口を開いた。
「やってみよう。だが、俺ひとりだけでは、難しかろう」
参蔵はうなずいた。実はとうに同じことを考えていたのだ。
「江戸留守居役の賀川様にもお願いしようと思っている。忠秀様の弟と乳母兄弟の後押しがあれば、多少の時間は作ってもらえるだろう」
「説得できると思うか?」
参蔵がたくあん漬けをぽりっとかじる。
「策はない。ただただ、お願いするだけだよ」
新右衛門は苦笑した。しかし、呆れではない。
「おまえはそれでいい。でないと、俺の立場がない」
参蔵は彼に似たようなことをよく言われるのだが、その真意はまるでわからなかった。
翌朝、賀川の家を訪ねたら、ただでさえ無策なのに、さらに底が抜けてしまった。
「すまん。わしは切腹を命じられた」
賀川が笑いながら言った。態度と言葉の落差に参蔵が困惑していると、そのまま話を続ける。
「梅様は、よほど巳之吉が嫌いらしい。生きているだけでだめなのだそうだ。ゆえに、おぬしをやって巳之吉に諦めさせようとするのは、藩に叛く行為ということになってしまった。いやあ、まいったまいった」
「腹を切るにしては、朗らかですね」
失礼かもと思いつつ、参蔵は聞かずにはいられなかった。やはり賀川の表情は変わらない。
「忠秀様の乳兄弟のわしが、この太平の世で何を企むというのか。お役目は大変でも、わしもわしの家族も、安泰の身。自分で言うのもなんだが、誘惑多い立場ながら、なかなか清廉潔白の士だぞ。わしに叛意などあるはずがない。にもかかわらず、梅様のお気に沿わぬだけで、わしは死ぬのだ。笑うしかあるまい」
「忠秀様に訴えましょう。国元にいるため、江戸の事情をよく知らないのでしょう」
参蔵が切実な表情で訴える。提案も本気だし、心配も本気だ。しかし、賀川は笑みのまま首を振る。
「わしの切腹は、忠秀様の命だよ。どう吹き込まれたのか、わしが本気で裏切ると思っているのだろうよ。しかし、彼を恨む気はない。そう捉えられる材料はそろっている。きっと梅様も、巳之吉が藩主の座を狙うのだと本気で信じているのだ。だから、その訴えは真に迫っており、忠秀様も信じた。わしは詰んだ。下手に騒ぎ立てれば、妻や義父まで危うくなる。わしが悪人になる。それしか道はないのだ……って泣くなよ。中年の涙なんざ、一文にもならないぞ」
話の途中で、参蔵は泣き出していた。それも、号泣である。拭いても拭いても涙が出てくるせいで、袖はぐっしょりと濡れ、重く垂れさがっている。返事をしようにも、声を出そうとするだけで、嗚咽がこぼれてどうにもならない。
賀川が彼の肩に手を置いた。
「おぬしも巻き込んでしまい、申し訳ないと思っている」
参蔵は震える手で、自分の肩にある賀川の手をにぎった。まだ言葉はうまく出せないようで、大きく何度も何度もうなずく。
「いやあ……」
唐突に賀川が苦笑した。
「おぬしは少し勘違いをしているな」
「へ?」参蔵の涙が急に引っ込んだ。
「おぬしの命も危ういのだぞ?」
「は?」
「梅様は、巳之吉の件を闇に葬るつもりだ。わしは何も話していない。わしは何も話していないのだが、横田参蔵もかかわっていることを知っており、口を封じようとしている。ほら、さっき言ったろ。『おぬしをやって』と」
参蔵は間もなく事態を把握し――
「え、喋った?」
敬語も忘れて突っ込んだ。
「いや、わしは何も話していない」
「では、なぜ梅様が? 私のことなんて、知らないでしょう?」
「名前くらいは聞いたことがあるかもしれんぞ? なにせ、おぬしの父上は我が藩の命綱といってもいいくらいに大事な両替商だからな」
参蔵は目を細めた。
「なぜ梅様が、この横田参蔵が巳之吉の件にかかわっていることを知っているのですか?」
賀川はわざとらしく、腕を組み、うんうんうなる。いくらうなっても、参蔵の冷たい表情は変わらない。やがて、賀川はため息をつき、頭をさげた。
「喋った。喋ったからこそ、こうして切腹するまで自分の家で過ごすことができる」
参蔵はがっくり肩を落とした。だが、口を開きかけたとき、奥から声がした。
「旦那様、お食事の用意ができました」
賀川はあっさり顔をあげ、参蔵に言った。
「参蔵、おぬしも食べていけ。まだ話すことはあるからな。この際、どこまでも話してくれようぞ」
参蔵はあきれ果てた顔をしつつも、それを承知した。
ふたりは座ったまま、土鍋と取り皿が運ばれてくる。ついでに、酒の入ったとっくりも。
「湯豆腐、ですか。ああ、賀川様はお好きでしたね」
「参蔵は嫌いか?」
賀川はお猪口に参蔵の分まで注いで渡した。参蔵もここは素直に受け取る。
「好きですよ。ただ、最期に食べるかはわかりませんが」
「わしだってそうだよ」
口元にお猪口を運ぼうとしていた参蔵の手がとまる。
「切腹、するんですよね?」
「ははっ」と、賀川が楽しそうに声を出す。「命じられたとは申したが、やるとは言ってないぞ」
「え。じゃあ、だっぱ――」
参蔵の口を、賀川が手で塞ぐ。参蔵が話すのをやめたのを確認して、ゆっくり手をはなした。
「人聞きの悪いことを申すな。誰にも何も告げずに、少し江戸を離れるだけだ」
「それを、そういうんですよ。でも……」参蔵は、賀川の行動に賛成していいのかどうか迷いはするが、とりあえず否定はせずに話をしようと思った。「家族がおりますよね。彼らはどうするのですか?」
「ふふ、今この家にいるのは、わしとおぬしと、下男だけだ。下男はわしが生まれたころから、我が家に仕えている。口はかたいよ」
「準備は万端、ですか」
「ああ。湯豆腐を食べ終えたら、下男におぬしへの言伝を頼んで、ここを発つつもりだった。おぬしの命も危うくはあるが、名前を出したのは今日だし、実家との関係もある。おぬしにはもう少し猶予があろう」
「私にも、藩を出ろと?」
「そういう選択もある、というだけだ」
責任感があるのかないのかわからない態度である。いや、ほとんどないのだが、表面にぱりぱり引っついた責任感に似た別の何かを、これみよがしに見せつけているだけなのだ。
この件に参蔵を巻き込んだことも含めて、江戸留守居役の賀川は、自分の身の安全を第一に考える男のようだ。そこが、彼の有能さを支えているのだろう。
参蔵は彼のそんな一面を知らなかったわけではないが、それでも改めて実感してがっかりした。ただ、そんな彼でもやってもらえることはある。
「私には、巳之吉殿の説得はできませんでした。代わりに、梅様に話してみたいのです。賀川様のところへきたのは、梅様と会う段取りをつけてほしかったからでした。新右衛門にも頼んでいるのですが、彼が自分だけでは難しいかもしれないと申しておりましたので」
「なに? 新右衛門殿がそう申されたか」
賀川は今までで一番、渋い顔をした。黙りこくって、ひとりなにやら考えている。参蔵はその沈黙に付き合うつもりはなく、湯豆腐に手を伸ばしたら――
「それはいけない」
腕をつかまれ、とめられた。自分が切腹する話をしたときよりも威圧感があった。参蔵の意志を挫くと、賀川は下男を呼び、小声で何やら伝えている。すると、下男はひとつうなずいて外へ出ていった。賀川は先に湯豆腐を自らの椀に入れてから、話を続ける。
「今、梅様のところに行かせた。面会の願いはかなうだろう」
「ありがとうございます」
頭をさげる参蔵に対し、賀川は眉間にしわを作ったまま湯豆腐を口に入れた。ゆっくり味わいちょうど呑み込んだくらいで、参蔵も顔をあげる。
「策はあるのか」
「ありません。ただただお願いするのみです」
「巳之吉を連れていけ。首に縄をかけてでもな」
賀川の目に暗いものが宿る。長年にわたり江戸留守居役を務めてきたことで得た目だ。
「巳之吉殿が危険ではありませんか」
「危険だ。しかし、おぬしが訴えたところで意味はない。直接本人に言わせねばならん。それでも、梅様は首を縦に振ることはない」
「なぜ、そう断言されますか」
賀川は空になっていた互いのお猪口に酒を注ぐ。自分は先に一気に呷った。
「梅様の子、つまり羽縄藩を継ぐ予定のお方――永秀様は、忠秀様の本当のお子ではないのだ」
「げっ」参蔵はお猪口を取り落としそうになるが、なんとか踏みとどまった。
「無論、忠秀様は知らぬ。これを知る者は、巳之吉が忠秀様の落としだねであることを知る者よりも少ない。しかし、みな口をつぐんでおる。なぜなら、その事実を知ったのはつい先日のことで、我々は永秀様が聡明であることも知っていたからだ。羽縄藩にも問題は多い。この藩を立て直すのに、暗愚な藩主は必要ない」
「梅様が巳之吉殿の存在を許さないというのは、彼こそが本当の忠秀様のお子ゆえ、ですか」
「そうだ。たとえ表に出ない話であっても、知る者がいる限りは、梅様は気が気ではないのだ」
「なるほど。いかようにも解決できそうなのにこじれているのは、そういうわけなのですね」
参蔵はお猪口の酒を一気に飲み干してから、続ける。
「巳之吉殿が次の藩主ではいけませんか」
「無理だ」即答だった。「今後どれほど改心しようとも、下された評価が永秀様を超えることはない。いや、秘密を知る者はみな、その心の荷をどうにか軽くするためにも、永秀様をかつぐしかないと思っている。それは、こんな状況にあるわしも同じだ。だから、静かに藩を出るつもりだった」
参蔵は自分と賀川に酒を注ぐ。ふたりとも、同時に呷る。先にため息をついたのは、参蔵だった。
「巳之吉殿を連れていっても、意味がないではありませんか」
「そんなことはない。巳之吉が斬られている間に逃げられる。時間稼ぎにはなるだろうよ」
参蔵は肩をがっくり落とした。
「ひどい案ですね。巳之吉殿を身代わりにするのではないですか」
「自分が助かるためならば、たとえ親であろうと身代わりにしていいと思うがな」
それは、賀川の生き方だ。気を抜けば自分が食われる場に身を置きすぎたせいだろう。参蔵には、巻き込まれたことについて思うところはあれど、否定する気はない。ただ、参蔵の生き方は違う。
「巳之吉殿は連れていきましょう。おっしゃるとおり、彼の思いのたけを聞いてもらうべきだと思います。しかし、死なせません。生かして、彼を武士にします」
「それもいいだろう」
賀川は湯豆腐を取りながら答える。
「横田参蔵がそれほどの覚悟を持つのなら、わしも多少は責任を取ろう。わしが逐電するのは、おぬしの行く末を見届けてからだ」
「では、一緒に梅様のもとへ?」
嬉しくなった参蔵が、顔を近づける。しかし、賀川は急いで首を横に振った。
「ここで待っておる。頃合いを見計らって人をやるから、それでどうなったかわかるだろう。まあ、旅支度はしておくがね」
賀川が湯豆腐を箸でつまみ、口に運ぶ。参蔵も真似して食べる。しばらくふたりは無言で食事をし、一息ついたころ、玄関からがらっと戸の開く音がした。
音はまっすぐこちらへやってきた。下男だった。また小声で賀川に報告する。「わかった」と彼が言うと、下男はさがった。
賀川が参蔵に向き直る。
「梅様はお会いになるそうだ。明日の巳の刻。光明寺に行け」
「ありがとうございます」参蔵は頭を下げた。
「礼はいい。生きて帰ってこい。わしのためにもな」
賀川はそう言いながら、湯豆腐のほうに気がとられているように見えた。きっと照れ隠しであろう――と、参蔵は考えることにした。たぶん、違うが。
参蔵はそのまま賀川の家を辞した。湯豆腐をわけてもらうのが申し訳なくなってきたのと、それよりも巳之吉と話をしておきたかったのだ。
まだ昼を少しすぎたくらいのため、長屋にはいないのではと思っていたが、巳之吉は自分の家でごろごろしていた。寝っ転がって戸口からでもふんどしが見えた。
「勝手に戸を開けるなよ」
巳之吉の抗議を無視して、参蔵はずかずかあがりこむ。
「明日の朝、また来る。一緒に、梅様のもとへ行こう」
「梅様ァ? 誰だ、それは」
巳之吉は起き上がってあぐらをかくが、ふんどしはまだ少し見える。あまりきれいではない。
「梅様は、藩主忠秀様の側室であり、永秀様――つまり巳之吉殿の腹違いの弟の母親だ。おぬしが武士になるのをもっとも強く反対しているのは、その梅様だ。だから、直接話して納得してもらおうと思う。どうかな?」
五分五分。巳之吉が提案にのる可能性はそれくらいだと、参蔵は見ていた。理ではなく、性格によって決まるとも。もちろん、どうあっても巳之吉を連れていくことは決めている。とはいえ、労力は少ないほうがいい。
「もちろん、行くぜ」
巳之吉はにやりと笑う。参蔵は胸を撫でおろした。そちらの性格だった。
「では、明日の朝、迎えに来る」
「今来たのに、もう帰るのか?」
「要件は済んだ」
だが、戸が勝手に開いた。いや、新たな客人だ。
「じゃあ、次はわしの話をいいかな?」
やせぎすの老人だった。髪は白く、しわは深く、服はうすぎたない。しかし、殺気はすさまじく、巳之吉は息を呑んだ。
一方、参蔵はこの老人が何者であるのか気づいた。
「確か、剣術指南役の南郷殿ですな」
「ほう……どこかで会ったかな」
南郷は殺気をそのままに答える。ただ、参蔵はそれを受け流す。
「江戸屋敷で何度かすれちがいました。私は江戸留守居添役の横田参蔵と申します」
「今、巳之吉のそばにいるのは、おぬしだけであろう。ふたりとも、外に出てもらおうか」
南郷の右手は、腰にさした刀の柄にそえられている。ふたりは断ることができなかった。
外に出ると、近所の人々は遠巻きに巳之吉の長屋を囲んでいた。介入する者はいないようで、参蔵は安堵する。また、南郷との間合いもそれなりに取れている。
南郷がゆっくり刀を抜いた。
「梅様は明日、話を聞いたあとにふたりを斬るつもりだろう。話を聞くのは、あくまで約束だからな。しかしな、わしはそれさえ無駄だと思っている。だから、ここで命を貰っていく」
参蔵が巳之吉を庇うように少し動いた。
「梅様の意向に逆らうおつもりですか?」
「詭弁だ、それは」
南郷は一笑に付す。刀の切っ先を、参蔵に向けた。
「詭弁ではないと思いますけどね」
参蔵も渋々ながら、刀に手をかける。しかし、突然後ろに引っ張られた。体勢を崩し、数歩後ろに下がってしまう。見れば、巳之吉がやったことだった。
「なあ、じいさん。俺を殺れば、十分だろ。このおっさんは助けてやれよ」
「巳之吉殿、それはだめだ」
参蔵はすぐさま巳之吉の前に出ようとするが、彼の手によって遮られてしまう。その手は震えていた。
「これは俺の問題だ。あんたが命を張る理由はないだろ」
「君が今ここで死んでいいという話でもない」
「他人に死なれても、後味が悪いんだよ」
「武士になるのは、亡き母の悲願なのだろう?」
「ああ。だから、やめますとは言わねえ。逃げるつもりもない。死んでも諦めるものか」
巳之吉は、唇をきっと結ぶ。南郷がため息をついた。
「くだらん。そなたの事情など、お家に大事に比べれば、虫けらのようなもの」
彼の刀のきっさきが、まっすぐ巳之吉の喉に向けられていた。
参蔵がそっと刀の柄に手をかけたとき――
「顔は真っ青だが、根性はあるな」
野次馬の外から声がした。人ごみをかきわけて、その主が顔を出す。
「新右衛門か」と、参蔵がつぶやく。
新右衛門は軽く手をあげた。
「すまんな。浮世の義理で、梅様の側につくことになった。賀川の下男が来たとき、俺もそこにいたんだ。おまえも来いと梅様に言われては断れない。で、やはり横にいた南郷のじいさんが、怪しい動きをしていたんで、後を追ってきたってわけだな、うん」
そして、南郷に向き直る。南郷は視線だけを彼に向けた。
「南郷殿、ここは退いたほうがいい。明日、話だけでも聞いてやろうじゃないか。斬るのはそれからでもいい。それに、こいつは梅様の意向にも逆らっている。理はないぞ」
南郷が眉間にしわを寄せる。
「お断りする。理はなくとも、藩のためになる行いをするのが、忠臣のあり方です」
一度の拒絶で、新右衛門は顔を真っ赤にさせた。参蔵は内心でため息をつく。こいつは短気すぎる。
「なら、俺が相手をしてやる。今まで機会がなかったが、自分の藩の剣術指南役を打ちのめすのは、ずっと前からやってみたかったんだ」
「ほう」と、南郷は興味を示した。「剣術指南役の看板は、安くありませんぞ。藩主の弟といえど、こうなれば命のやりとりをしてもらうまで」
すうっと、刀の刃先を新右衛門に動かす。一方の新右衛門の刀は鞘に収まったままだ。だが、彼はにやりと笑う。
「俺はまるでかまわんよ。来い、おいぼれ――」
言い終える間もなく、南郷は新右衛門の喉を狙って突きを放とうとする。しかし、新右衛門の手は異常であった。その抜刀は、突きが喉に到達するよりも速く、強かった。南郷の刀が、下からの斬撃であっさり撥ね上げられた。
「むおっ」予想外の反撃に、わずかな間だが南郷が戸惑う。
けれど、それは新右衛門相手では致命的だった。
新右衛門は返す刀で南郷のがら空きになった胴を峰で叩く。
終いだった。
南郷は白目をむき、その場に頽れた。
「じいさんと戦うのは初めてだったが、うちの剣術指南役はこんなにも弱かったのか。金の無駄だな。……実につまらん。だが、命を奪う約束は反故にしてやる」
新右衛門はため息をついて、刀を納めると、参蔵を見る。
「新右衛門、助かったよ。ありがとう」
先に声を出したのは、参蔵だった。
「いいってことよ。一度、このじいさんとは戦ってみたかったんだ。それに、俺は俺ですじを通しておきたかったのもある。どうせ明日は敵同士。悪いが、斬り合いになるのは確実だからな」
「肝に銘じておこう」と、参蔵はうなずいた。
新右衛門は南郷を担いで、さっさと帰っていった。集まっていた野次馬たちも、あっさり引いていき、残されたのは参蔵と、途中から蚊帳の外にいた巳之吉だけになった。
「あんな強い人と、戦うのか……」
「なに、巳之吉殿の思いのたけを伝えれば、梅様はきっとわかってくれる。そうなれば、戦う必要などない」
「参蔵さん……それ本気で言ってる?」
「もちろん」
参蔵は本心からうなずく。
巳之吉はがっくり肩を落とした。
参蔵は、巳之吉をこのまま長屋にひとりにしておくのは危険に思い、自宅に連れ帰ることにした。明日、迎えに行く手間も省ける。
巳之吉も素直に従い、夕餉は八重も含め三人で囲んだ。
出たのが湯豆腐だったため、参蔵はげんなりし、巳之吉は明日のことを思うとあまり食が進まない。八重は、そんなふたりから事情を聞きつつも、笑顔を忘れなかった。
おかげで、参蔵も巳之吉も就寝するころには気持ちの整理がついていた。
当然ながら、それですっきり眠れたわけではないのだが。
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