第2話

 翌朝、参蔵は深川にいた。賀川に教えられた、巳之吉の住む長屋がそこにある。江戸留守居添役の役目が、この件が片づくまで気にしなくていいと言われてしまったので、まずは巳之吉と話してみるしかない。

 気乗りはまるでしない。いなければいいのにと思ってしまうが、話が進まないのはもっと困る。参蔵は意を決した。

「巳之吉殿はおるか」

 戸の前で小さく呼びかける。反応はない。

「おおい、巳之吉殿はいらっしゃらぬか」

 再度呼びかけるも、やはり返事はない。

 大声を出す気にもなれず、しばし悩んだのち、やはり出直そうと後ろを向いたとき、戸が開いた。参蔵は首だけ振り返る。

 若くてやたらと気の強そうな青年がいた。

「お侍さんか」

 参蔵を見るなり目を細める。幸先は悪い。

「羽縄藩、江戸留守居添役の横田参蔵と申す。大事な話があるので、部屋に入れてもらえないだろうか?」

「ふーん」と、巳之吉は参蔵を品定めするように、上から下までねっとりと眺めた。「帰れと言ったら、帰るのかい」

「帰れない。だから、巳之吉殿の気が変わるまで、ここで待たせてもらう」

 巳之吉はにやりと笑った。

「なら、そうしろ」

 そして、外へ出て後ろ手で戸を閉めると、そのままどこかへ行ってしまった。参蔵は、左官の仕事であろうと納得して、自らの言葉どおり、長屋のところでじっと待つことにする。

 やはり、一筋縄ではいかないようだ。

 巳之吉は参蔵――いや、羽縄藩の侍にいい印象を持っていない。賀川との接触がよほど悪いものだったのだろう。

 参蔵はため息をついた。

 そんな彼を、長屋の住人たちは訝しげな目で見るが、話しかけようとはしなかった。子供たちも、参蔵のまじめくさった顔が怖いのか、物陰からちらちら覗きはするが、決して近づこうとしない。

 参蔵としては、長屋の住民に巳之吉のことを聞きたいのに、こんな状態ではそれもかなわない。かといって、自分から話しかけるのは苦手だった。

 太陽が頭の上に来て、さらにそこを通りすぎて赤くなってきてもなお、参蔵はじっと立っていた。

 途中、さすがに我慢ができずに、遠くから様子をうかがっていた子供をひとり捕まえて、駄賃を渡して昼飯を調達させた。なんでもいいと伝えたら、みたらし団子を買ってきた。しかも、串の長さからすると、ひとつ食べられている。これで少しでも仲良くなれるのならと、子供には何も言わなかったのだが、かえって不気味がられたのか、距離感は変わらなかった。

 代わりに、長屋のご婦人たちが寄ってきた。彼女らは、参蔵が無害だと悟ったらしい。

 詰め寄られている気がして焦った参蔵は、彼女たちにこう取り繕った。

巳之吉の遠い遠い親戚が武士になり、彼を引き取ろうとしている。自分は、その件を相談しに訪れたのだが、巳之吉は何かを誤解したようで、話も聞かずに働きに行ってしまったのだ、と。

 とっさに考えた嘘にしては、かなりいいところを突いている。参蔵はそう自負した。その後、すんなり巳之吉の普段の様子を教えてもらえたので、目論見は成功した。

 ただし、巳之吉の素行は困ったものだった。

 なんとまあ、左官の修業など、とっくの昔に放り出してしまったという。暴力こそ振るわないものの、態度も口も悪く、長屋のはなつまみものだった。特に、母親が亡くなってからより荒れたそうだ。

 だから、彼が親戚に引き取られるという話は、参蔵の予想以上に、長屋のご婦人方に期待を持たせることになってしまった。武士になる話をつぶしにきた彼は、さっきついた嘘の中途半端さに後悔した。これで、どう転んでも誰かしらに恨まれる。

 参蔵の気持ちと同じくらい周囲が暗くなったころ、巳之吉が息をひそめるように長屋へ帰ってきた。巳之吉の評判を聞いていたたまれなかった参蔵は、隠れるように立っていたのが幸いした。巳之吉が彼に気づいて、「げっ」という声をあげたときには、すでにその腕をしっかりつかむことができたのだ。

 巳之吉は参蔵の手を振りほどこうとするが、力の差でどうにもできない。

「離せ!」

「話がある」

「いいから、離せ!」

「離せば、話すか?」

 巳之吉がうなずくので、参蔵は手を離した――が、すぐさま巳之吉は踵を返して走り出した。参蔵はため息をついてから、あとを追う。幸運なことに、月がよく出ていて、灯りがなくても気にならない。

 長屋を出ていくらも経たないうちに、参蔵は巳之吉に追いついた。巳之吉は息も絶え絶えなのだが、参蔵の姿を見て気持ちを奮い立たせたらしく、速度を上げる。しかし、参蔵はそれになんなくついていく。

「巳之吉殿、早く諦めてくれないか。私を振り切るのは、どうも無理そうだ」

 顔がとっくに上を向いていた巳之吉だが、足をとめることなく、きっと参蔵を見る。

「うるせえ、ばか!」

 けれど、足は口ほどの気力は残っていなかったらしい。徐々に遅くなり、やがて巳之吉は立ちどまってしまった。肩で息をしつつも、ときどき「くそっ」やら「ちくしょう」やら悪態をついている。彼のそばでとまった参蔵は、それには反応しなかった。しばらくして、巳之吉がおとなしくなったときに、ぽつっと言った。

「そばでも食べながら話そう。ちょうど近くにいい店を知っている」

 巳之吉は何も答えなかったが、歩き出した参蔵のあとを素直についていく。少し行ったところにある一軒家から、ほのかな灯りが漏れている。参蔵はその店に入った。

 客は他におらず、店主の老人がつまらなそうにいるだけだった。

 参蔵はてきとうなところに座り、観念したらしき巳之吉がすぐそばに座る。参蔵は「そばふたつ、酒も」と告げると、老人が店の奥の闇に消えた。

「ここは、うまい」

 参蔵がしみじみと言う。

「とてもそうは見えないな」

 巳之吉は素直に思ったことを口にした。それを見て、参蔵は口の端をわずかにあげる。

「この店のおやじも、そう思っている」

 じっと待っていると、ざるにのったそばが出てきた。参蔵は、すぐに食べようとする巳之吉を押さえる。そして、店主が奥に行ったのを見計らってから、食事を許した。不服そうな巳之吉だったが、箸でちょうどいい量をとり、つゆをつけてずずずっと音を立ててすすり――

「うまい」

 口からこぼれ出た。

 同じようにそばをすすった参蔵が、大きくうなずく。

「親戚が上州でそば粉を作っているらしいのだが、それが絶品でな。嗅いでみろ、この濃厚な香りを。しかも、茹でも完璧だ。すすりやすいが、実は噛んでも、ぶつっとした触感がたまらない。また、つゆもいい。これだけ力強いそばに負けぬよう、他では考えられないほど濃い。かつおぶしをどしどし入れているな。だがな、じっくり熟成させることで、後味をまろやかにしている」

「あんたの言うことはよくわからねえが、ここのそばがうまいのはわかる。しかし、どうして俺が食べようとするのをとめたんだ?」

「ここのそばがうまいことを、店主に知られてはならないからだ」

 巳之吉は素直に首を傾げた。

「この店にとって、このそばがもっとも安価で作れる。親戚から格安でそば粉を仕入れているからな。以前、味が評判になり繁盛したことがあるんだが、客が大勢くると、親戚からのそば粉では足りなくなる。そこで、なにも考えずにてきとうなそば粉を買ってきてな。つゆを雑に作りはじめた。あっさり味が落ちた。そして客がいなくなり、あの繫盛はなにかの間違いだったと思って今に至る」

「簡単にできるから、自分がどれだけすごいのかわからない。だから、手を広げようとしたときに、気づかないうちに手を抜いてしまった、というわけか」

 参蔵は、巳之吉のかみ砕き方に感心した。素行はよくないそうだが、頭の回転は悪くないのかもしれない。これは、父親に似ているのだろうか。だとしたら、武士を諦めさせるためにも、ほめてはいけない。

「まあ、そんなところだ」と、酒を一口飲んだ。

「それにしても、あんたは足が速いな。力も強い」

 巳之吉も引っかかることなく、話題を変える。純粋に、参蔵に感心しているようだった。

「なに、ただの生まれつきだよ」

 しかし、この話題は参蔵にとってどうでもいいことだった。そんなところがよくても、仕事がてんでだめでは、武士として意味がないではないか。そう言いかけるが、これは巳之吉にまるで関係がないことなので口をつぐむ。

「それで巳之吉殿。話したいことなのだが……」

 巳之吉はそばをすする手をとめ、酒をあおった。

「あんたも、賀川ってお侍さんと同じく、俺に武士になるなって言いたいんだろ」

「できれば、そうしてほしい」

「できればってのは、どれくらいだ。俺ができないと言えば、引くのか?」

 参蔵の口がへの字になる。

「引けはしないな……」

「なら、できれば、なんてつけるなよ」

「すまない」と参蔵は素直に頭を下げた。

 巳之吉はそのことに息を呑んだのだが、参蔵は気づかないまま顔を戻した。

「言い直そう。武士にならないでほしい」

 巳之吉の眉間にしわが寄る。

「勝手だよな、あんた」

 勝手なのではない。自分で落としどころをつくれない用事をこなすために必死なだけだった。

 参蔵は胸のうちを明かさない。それこそ、これは巳之吉には関係のない話だ。

「どうしても無理か」

「当たり前だ。おふくろとの約束だ。首が飛んでも、縦には振らねえ」

「羽縄藩のお世継ぎは、年齢としてはおぬしの弟にあたる。そのお世継ぎの生母、梅様が、おぬしが武士になることを反対している」

「へっ」と、巳之吉は鼻を鳴らした。「つまり、俺がそのお世継ぎの代わりに殿様になっちまわないか心配ってことか。かーっ、くだらねえ。俺にそんな気はねえよ。ただ、旗本の金井様がどこかでおふくろの願いを知り、そいつをかなえてやろうと段取ってくれたから、俺もそれに乗っかろうって話だよ。俺が殿様の器じゃないのは、俺自身がよくわかっている。そこは、安心してくれ。俺はどんな下っ端でもいいから、武士になりてえ。それだけだ」

 参蔵は巳之吉の目をじっと見る。巳之吉はきっちり見つめ返す。一切の揺らぎがない。心底からの言葉なのは間違いない。

 いや、目を見るまでもなく、参蔵は巳之吉の言葉を信じていた。若く悪く無謀だが、だからこそ搦め手など使えるはずがない。本音を話せばどうにかなると思っているほど、青くて愚かなのだ。

 ただし、参蔵が信じても、梅は決して信じまい。たとえ信じたとしても、安堵することはない。巳之吉が殿の子である事実そのものが変わらないかぎり。

 しかし、参蔵は一気にそばをかきこむと、金を出し立ち上がった。

「邪魔をしたな。巳之吉殿、酒はまだ残っている。代金は出しておくゆえ、そばをゆっくり食べていくといい」

 そのまま、そば屋を出かけるが、逆に巳之吉は慌てた。

「お、おい、俺を説得にきたんじゃないのかよ」

 参蔵は足をとめ、巳之吉を見る。

「諦めた。私では、巳之吉殿を説得することはできない」

「え、駆け引き……?」

 目を白黒させる巳之吉に、参蔵は笑った。押してだめなら引いてみる、と思ったようだ。

「私はそういうのは苦手でな。梅様と話してくる。なんにせよ、私はもうおぬしを口説く気はない。元気でな」

 参蔵はそう言って、そば屋の暖簾の向こう側に行った。

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