男の身分

どんより堂

第1話

 横田参蔵は自宅の縁側から、庭にただぽつんとある朝顔の鉢を眺めていた。正座をして、時折うなり声をもらすだけで、ただただじっと朝顔と向き合っている。

 朝からだった。じんわり浮き出た汗が、木綿の着物に染み込んでいく。

 朝顔の薄い紫とは対照的に、四十を超えた参蔵の顔は浅黒い。

 羽縄藩の江戸留守居添役だった。藩と幕府の関係を円滑にするのが江戸に常在する留守居役の役割であり、添役はその補佐である。ゆえに、日々はそれなりに忙しい。

 だが今日は休みだ。参蔵は屋敷の外でやりたいことが思いつかなかったため、前から気になっていた朝顔と対峙することにした。

 妻の八重が育てた朝顔だった。

 いや、深刻な話でもなんでもない。彼女は三味線の稽古で、夕方には元気に帰ってくるだろう。朝顔を育てて売るのは、三味線と同様、数ある趣味のひとつだった。

 参蔵は今、好きで見ている。理由は妻の一言だった。

 ――これは、できが悪いので、家に残しておくんですよ。

 こうして一鉢だけになった朝顔は、なかなかどうして見事なものだった。どこができ悪いのか、さっぱりわからない。でも、妻が言うからには、どこかしらにできが悪いところがあるはずだった。それをわかろうとじっくり、ほとんど姿勢を変えずに朝顔を見ているうちに、時間が経ってしまったのである。

「ごめん、横田参蔵殿はおられるか?」

 だが、結局はわからないまま、玄関からの声でその試みは終わった。

 参蔵はすっくと立ち上がり、足早に玄関へ出た。

「おお、賀川様ではありませんか」

 来客の色白でのっぺりした顔を見て相好を崩す。

「突然、訪ねてすまない。少し相談したいことがあってな」

「呼びつけてもよろしいでしょうに」

「いやいや、役目に関することではないのだよ」

「それでも、私は一向にかまいません」

 賀川は一点の曇りのない笑顔で返ってきた言葉に面食らうが、すぐに微笑んでみせた。

「そう言ってもらえるとありがたい」

「ささ、ここで立ち話もなんですから、あがってくだされ」

 賀川はうなずくと、草鞋を脱いだ。

 彼は、参蔵の上司、つまり羽縄藩の江戸留守居役である。

 慎重さを要求される幕府との調整を長年担ってきた男なのだが、そんな苦労があまり表に出ていない。若々しいのではなく、うさんくさい。

 参蔵は応接の間に案内すると、賀川を上座に座らせ、姿を消した。ほどなくして湯呑を二つ盆に載せてくる。

「水です」と言って、賀川と自分の前に置いた。

「水、か」

「湯を沸かすには時間がかかりますし、茶も同じです。賀川様をお待たせしてはいけないかと思いまして」

「うむ。理屈、確かに理屈……」

 賀川は重々しく湯呑を見つめたあと、顔を上げた。

「八重殿はおらぬのか」

「今日は三味線の稽古です。夕方までは戻らないでしょう」

「用人は確かいなかったはずだな」

「おりません。私の性に合いませんのと、ふたり所帯には無駄でございますから」

 賀川は腕を組んでしばらく眉間にしわを寄せた。

「それはまことに好都合」

 これに、参蔵は困惑する。

「まるでそうは見えませぬが」

「顔のことは気にするな。心の底からの言葉だ」

「はあ。ならいいのですが。それで、今日はどういったことで。なにか、急なお役目ですか。ははあ……なにかこう、特別なお役目というやつですね! やりましょう、この横田参蔵、そうした機会をずっとずうっと待っておったのです」

 ずずっと参蔵が嬉しそうに近寄った。顔も近い。賀川は少し身を反らした。

「それがなあ、参蔵。特別ではあるのだが、お役目ではないのだ」

 途端、参蔵は首をかくんと落とし、後ずさりをした。

「仕事熱心なのもわかるが、おぬしに求められているのは、そういうことではないのだ」

「わかっております。わかっております。だからこそ、私は仕事に励まねばならぬのですよ」

 参蔵の目には、強い意思が宿っていた。

 賀川は頭をかいた。

「おぬしは、いいやつだ。上役と部下という関係を抜きにしても、おぬしのことを好ましいと思っている。ゆえに言うのだが、おぬしに今のお役目は向いておらぬよな」

 気を使った物言いながら、賀川はぴしゃりと告げる。だが、参蔵は平然としていた。

「そのお言葉を聞くのは、初めてお会いしてから十七回目です」

「む、そうか」

「ちなみに、賀川様以外の方の分を加えれば、このお役目についてから五十三回目になります。それでも、私は今のお役目が好きなのです」

「やけにきっちり回数を覚えているな……。ちょっと怖いぞ。まあとにかく、それはわしも知っている。でなければ、たとえ事情があったとしても、さすがに殿も別の役目を授けているであろうよ。ただなあ、参蔵。今ここで話すことではないが、好き嫌いと向き不向きはまるで違うのだぞ。どうだ、ほれ。剣をなかなか使うというではないか。そちらを生かしてみるのは」

 参蔵はひどくつまらなそうに、首を横に振った。

「まったく興味ありません」

「その、年に似合わぬ無意味なまっすぐさと、機微に欠けるところが、いろんなものの原因なんだがな……」

 と賀川がぼやいても、参蔵は他人事のようだった。そこに悪意がないことはわかっているので、賀川は苦笑するだけで済ませる。だが、すぐにそれを消した。

「お役目ではないが、大事な頼みごとであるのは間違いない」

「なんでしょう」

 今度の参蔵は、浅黒くて野暮ったい顔だけを賀川に寄せる。

 うふん、と妙になよなよしく賀川は咳ばらいをした。

「巳之吉という若者がいる。確か年は十八だ」

「私は知らぬ名です」

「そうだろう。武士ではなく、大五郎町の左官だ。それも、まだ修業中のな。母親と暮らしていたが、昨年その母が急な病で亡くなり、今はひとりで長屋に暮らしている」

「ずいぶんと、遠いところから話が始まっているようで」

 参蔵の困惑に、賀川は神妙な顔でため息をつく。

「真ん中も真ん中。話のど真ん中なんだよ、こいつが。きついのはそこだ。その巳之吉が、金で我らが羽縄藩の藩士の身分を買おうとしている。左官だが、安くはない金の算段はついているし、相手も乗り気だ。事情はあとで話すが、母親が息を引き取るときに『あなたはなんとしても武士になってほしい』と伝えたそうだ」

「はあ」

 事情はあとで話す――ろくなことではなさそうだ。

「とにかく、武士でないものが、気軽に武士になられては世の道理が通らなくなってしまう。わしが話に行ったのだが、まるで聞きはせん。かたくなに『俺は武士になる、俺は武士になる』と繰り返しておる。亡き母のため、と思い詰めているようだ。だが、やはり認めてはやれん。そこで、失敗したわしの代わりに、おぬしに巳之吉をとめてもらいたい」

 参蔵は口を思い切りゆがめた。上司の前だが、かまうことはない。彼だって、そうする理由を知っているのだから。わざとだ。賀川はあえて、参蔵にぶつけている。

事実、賀川はおかしな表情をとがめだてもせず、水をすすりながら参蔵の言葉を待っている。

「私が、ですか」

 賀川はまっすぐ参蔵を見て、うなずく。

「そうだ。おぬしが、だ」

 参蔵はぎこちない動きで首を傾げた。

「私も、その巳之吉と同じく、武士の身分を金で買ったのですよ」

 賀川の表情は変わらない。平静そのものだった。

「それは正しい言い方ではないだろう。おぬしの身分を買ったのは、おぬしの父だ。それに、巳之吉はまだ士分ではない。おぬしと巳之吉は、同じではないのだ」

 数多くの修羅場をくぐりぬけた江戸留守居役の顔だ。ただ、それは表向きだけのこともありうる。

「言わねば、巳之吉にはわからぬよ」

「そもそも、武士の身分を金で買うことは、おおっぴらにするものではありません」

 賀川は大きくうなずいた。

「ああ、そのとおりだ。事と次第によっては、お上からお咎めを受けることだってある。だからこそ、みなが密かにやっている。だが、本音と建て前。公然の秘密に罪悪感を覚えることはあるまい。それに、おぬしの場合は藩も喜んでのことだった」

 ――私は喜んではいないのです。

 参蔵は唇を噛んだ。

 彼の父は、江戸でもそこそこ名の通った両替商だった。

 参蔵は三番目の男子として生まれる。

 だが、商人にはまったく向いていなかった。算盤はだめ、機を見るに鈍で、愛想笑いもうまくないし、気の利いたことひとつ言えやしない。おまけに、どこかずれている。本人はそういった仕事を好むようだが、人の迷惑になるし、損までついてきた。

 無理に跡取りにする必要がなかったのは不幸中の幸いだった。だが、食べていく道は必要である。とはいえ、ただ単に金をやるわけにもいかない。金の代わりに、何かを生み出さなければ意味がない。

 そこで、二十年ほど前に、参蔵の父は多額の金を融通している羽縄藩の藩士の身分を買うことにした。参蔵をかすがいとして、結びつきを強くしようという肚である。もちろん、羽縄藩にとっても両替商とのつながりは願ったりかなったりで、反対する理由はない。

 そうして参蔵は武士になった。当時は若かったこともあり、ただただ買われている存在ではいたくなかった。藩のほうもまた、そうはいっても両替商の子だからと、勘定方に入れてみた。当然、うまくいかない。かといって、父親の手前、無役にもしがたい。その後、役目を転々として、最終的に十年前に江戸留守居添役に落ち着いた。

 しかし、ここでも実務は期待されていない。多くの藩に顔がきく父の存在をにおわせるだけでよかった。文字通り、添えものだ。

 本人だけが、そのままでいることを望まなかった。添役として役に立つ人間になろうと、日々熱意をもって職務に励んでいる。むしろ、自ら進んで職務を増やそうとさえした。それは今も変わらない。

 けれど、熱意はいまだ報われていない。今も、任されるのは書を届けるような使い走りがせいぜいだった。

 陰で無能と罵られ、表立っては生家のせいで腫物のように扱われている。賀川は数少ない例外のひとりだが、職務では参蔵に何も求めていなかった。

 ふむ、と賀川は声を漏らした。参蔵はいつの間にかうつむいていた顔を上げる。

「参蔵、おぬしの身分は確かに買われたもの。その事実は動かない。だがな、それゆえに、しがらみもない。そこが、今回の件にうってつけでな。というのも、巳之吉の母親が臨終の際に『あなたはなんとしても武士になってほしい』と言った理由なのだが――」

 参蔵は急に嫌な予感がした。賀川の話を遮ろうかと思ったが、行動に出るのがわずかに遅かった。

 賀川の口から、出た。

「巳之助は、殿、つまり藩主の忠秀様が部屋住みのころ、密かに下女に産ませた子なのだ。部屋住みだったがために、そして母親が士分でなかったがために、彼は武士として生きていくことができなかった」

「うわ……」

 参蔵の葛藤が、少なくとも今は遠くへ吹き飛んだ。そして、おそるおそる上司に問いかける。

「それは、広く知られていることでしょうか?」

 賀川はなぜか不敵な笑みを漏らした。

「ほとんど誰も知らぬ話だ。忘れたか、参蔵。わしは忠秀様の乳兄弟ではないか」

「ああ、そういうことですか……」

 参蔵の返答は、ため息のようだった。

「そろそろ耳を塞いでもよろしいでしょうか」

 気づいたときには、罠にはまっていた。抜け出そうにも、すでに血を流す覚悟が必要だった。しかも、この先がもっと危険なのは間違いない。とはいえ、血だけで済まないことだってありうる。遅くても逃げるべきなのでは、と参蔵が考えていると、賀川が笑顔のまま自分の首を手刀で軽く叩いた。

「何かあれば、おぬしよりも早くわしの首が飛ぶよ」

 賀川もまた、逃げ遅れていたようだ。

 参蔵は選択肢が現れたとき、より夜が健やかに眠れるほうを選ぶ。気が小さいのか、胸につかえたものがあると、うまく眠れないのだ。昼日中だけでもしんどいのに、布団の中までつらくなくてもいいではないか。

「わかりました。やりましょう」

 今回は、こちらだった。それでもうまく眠れる気はしない。

「助かる」と、賀川は頭を深々と下げた。

「うまくいくとは限りませんよ」

「うまくいくことだってあるだろう」

 賀川は変に前向きなのだが、これは他人に丸投げできた安堵感とやけくそが混じったものにちがいない。

「賀川様、話の続きをよろしいですか。巳之吉の生まれはわかりました。ですが、それは逆に金など関係なく士分に取り立てるべき理由になると思うのですが」

 賀川の表情が引き締まった。

「梅様だよ」

 そっちですかあ、と参蔵も合点した。梅は藩主の側室である。正室に子はなく、嫡子は梅の産んだ永秀であった。彼は十二であり、さらに梅もまた下女から側室になった。巳之吉の母との差は、永秀を孕んだときには、父親が様々なめぐりあわせにより藩主になっていたことだけだ。

「これを足がかりに、取って代わられやしないか、心配なのだ」

「考えすぎでしょう」

 賀川は渋い顔をした。

「わしも、何度も何度も何度も何度も、そうお伝えした。だが、梅様は聞く耳をお持ちくださらなかった。理屈ではないのだよ、こういうものは。気持ちの話だ。だから、厄介なのだがな」

「ああ、わかります。大事なのは、気持ち。法にしろ、規則にしろ、すべてはそこから始まるのです」

 参蔵は大いにうなずく。

「殿は? 国元にいる忠秀様はご承知でしょうか?」

「言えるわけなかろう。すべては忠秀様の知らぬ間に動かさねばならん」

 参蔵が、おおと手を打った。

「では、巳之吉に武士の身分を売ろうとしている者に話をつけてはいかがでしょうか。売らなければ、買えません」

「売ろうとしているのは、馬廻組の古泉蔵人殿だ」

「それはまた、なかなかの大身ですね。左官見習いに明け渡すお役目ではありませんよ」

 馬廻組は下級武士ではない。ぎりぎりではあるが、上級武士に属する。金で売り買いするには重すぎる身分だった。

「古泉殿は、年老いて隠居を考えているそうだが、子がおらず、後継ぎを探していた。そんな折、たまたま巳之吉の出自を知って哀れみ、金という建前で譲ろうというのだ」

「他にも釈然としないところはありますが……古泉殿も、そこは金ではなく、そのまま譲ってやればよろしいではないかですか。藩主の子として士分に取り立てられるのと、養子として武士になるのとでは扱いも変えられると思うのですが」

 賀川が首を横に振った。

「そこも厄介でな。金は巳之吉が出すのではない。旗本の金井宗之殿が融通するのだ」

「は? 金井殿ですか!」

 予想外の名前に、参蔵は思わず間抜けな声を出した。

「金井殿が、巳之吉の出自をどこでか知って同情し、どうにか羽縄藩に取り立ててやりたいと奔走した結果がこれなのだ。だからこそ、馬廻役という大きい話が来るわけだよ」

 金井宗之は、ふたりにとって単なる旗本ではない。じきに奉行職を拝命するであろうと言われているほど、幕府内でも顔が広く、また影響力が強い。羽縄藩が幕府とつながる上で、重要な人物だった。

 江戸留守居役と添役が、決して無下にしてはいけない相手だった。実際、何度も助けてもらっている。

「つまり、金井殿は金を出すことで、巳之吉の後ろ盾になると言っているのだ」

「うげっ」

 うめくついでに、参蔵の口から舌が飛び出した。

「しかし、それは梅様も心配しますよ」

「金井殿がそういうお人ではないことは、おぬしもよく知っているだろう」

「ええ。心の底から善意でしょうね」

 賀川はため息をついた。

「金井殿を説得するか、梅様を説得するか。わしら江戸留守居役にとって、どちらがましか、おぬしにもわかるだろう」

「虎と戦うか、鬼と戦うかの差でしかないと思うのですが……」

 参蔵の返答で、賀川は腕を組んで考え込み、やがてうなずいた。

「確かに、そのとおりだな。どっちとも勝てる気がせん」


 賀川が帰ったあと、参蔵は縁側に座って頭の中でぐるぐる考え続けていた。

 とはいえ、やると言ってしまったし、向こうも頼むと言ってしまったわけで、何をするかはもう決まっている。悩んでも意味はない。

 考えれば考えるだけ、深みにはまっているだけなのだが、わかっていてもやめられない。

 不思議と、この厄介ごとが自分のところにくるべき話に思えてくるのだ。

 例えば、旗本の金井宗之がいかに羽縄藩にとって重要な人物かを骨身にしみているのは、江戸留守居役やその周りの人間である。

 しかも、下手な手を打つとお家騒動になりかねない事情を抱えている。

 血筋的にも性格的にも藩内にしがらみのない参蔵は、まさに仲裁に乗り出すのにうってつけの人材だった。

 だが、そういったことも含めて、賀川に騙されている気がして仕方がない。と同時に、普段の役目とは異なるものの、賀川に頼りにされるのは嬉しかった。こんな経験は今までなかった。気持ちよくて仕方がない。背中がぞくぞくっとする。ただ、結果を出さねばという重圧をどうすればいいのか、困惑もしていた。

 胸の奥のもやが晴れることはないが、がんばれるとは思った。

 しかし、ここで思考は最初に戻ってしまう。

「とてつもなく大変なことを引き受けてしまったようだ。私の動き次第で、羽縄藩が消えてなくなるかもしれない……」

 参蔵がしばらく唸っていると、

「ただいま帰りましたよ」

 と、玄関から妻――八重の声がした。

 参蔵は逡巡するのをやめ、出迎えに立ち上がった。

 夫と同い年なので四十をいくらか過ぎているが、肌は白く、笑うと不思議と幼さを感じさせる。中身は明るく闊達だった。今までもどこかおてんばを残している。

「今日はどうだった」

 履物を脱ぐ八重から、参蔵は三味線を受け取る。八重はにんまりと笑い、親指と人差し指で『まる』を作った。

「ばっちりです。三月後には、家に近所の人を集めて独演会をしますよ」

「ならば、豪勢に歓待せねば。ああ、羊羹なんてどうだろう?」

 廊下を歩きながら、八重が手をひらひらと振った。

「だめですよ、そんな贅沢は」

「だが、おまえの晴れ舞台ではないか」

 八重がからからと笑う。

「いいんですよ、本当に。みなさん、私の三味線を聞けば、それこそ極楽浄土に行ったのと同じくらいの功徳がありますから」

 そういうものだろうかと、歌舞音曲がさっぱりわからない参蔵は、黙って微笑んだ。

 家には他に誰もいない。ふたりとも日常のことはすべて自分でやりたがったし、周囲も彼らに武士としての体裁を求めていなかったので、特に問題にもならなかった。

 参蔵と八重が一緒になったのは、参蔵が武士になった二十年前のことだった。独り身では武士になったときに体裁が悪かろうと、彼の父がすべての段取りを整えた。八重はちょうど石女として離縁され、生家に戻ったところだった。

 参蔵も八重も、この結婚に必ずしも乗り気ではなかった。しかし、世間体という圧力によりくっついてみれば、これが案外うまくいった。結局、子供ができることはなかったが、ふたりは他人からすると仲睦まじい夫婦だった。

 夕飯はいつもと同じく、朝に炊いた米を茶漬けにし、それとたくあんだ。今日のお茶は八重がどこかから手に入れた特別なものらしく、茶漬けにするにはもったいないくらい美味だった。にもかかわらず、たくわんを片づけ、茶碗をすする参蔵の眉間には、深いしわが寄っている。

「どうかしましたか?」

 見かねて八重がたずねた。

「なんでもない」

 としか、参蔵には言えなかった。同時に、顔に出してしまった己の不覚を悔やんだ。ありがたいことに、八重はそれ以上聞こうとはしなかった。代わりに――

「もし役目がうまくいかなくて、どうしようもなくなったら、ともに逃げましょう。私たちは背負うものなんてありませんし、京や大坂にでも行けばどうにかなりますよ。まあ、親きょうだいはまだおりますが、彼らはきっとなんとかなるでしょう」

 と、笑ってくれた。

 参蔵は、この妻が無事に三味線の演奏会ができるよう、気持ちを奮い立たせようとして、つい眉間のしわをさらに深くしてしまう。

 八重はずっと笑顔だった。しかし、本心は違うことは、参蔵もさすがにわかっていた。

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