夜行之朔
Hurtmark
夜行之朔
(畳の敷かれた一室には仄かな月明りが差し込んで、天井から吊り下げられた水槽を照らす。金魚の鱗が幽玄と煌く下で、座した二人が向かい合っていた。)
綾乃:才覚がある者は、百年、千年でも、鍛錬を怠らぬ限り成長するのです。しかし、私は貴方の母ではありません。一から十全までを教えるつもりはなし。
(一方は白装束を纏う濡羽髪の女。頬に、そして首から胸元にかけて精緻な刺青が刻まれている。虚ろで冷たい眼差しは、相対する者を貫くかの様だ。)
伊織:お借りした力を返す必要、なさそうですね。俺は貴女のご期待を満たせたでしょうか。
(もう片は桜色の振袖を纏う小柄な青年。容姿は全く女性の様だが、声音は男性のそれである。)
綾乃:急いたことを。安心なさい。手を離しても、師弟であることは変わりません。評するのが暫し先となってもよいでしょう。
伊織:ふふっ。本当はそれが聞きたかったんです。
綾乃:長話は無粋というもの。疾く往きなさい。誰に導かれるでもなく、己の戦場を見出すのです。
(伊織は手を付き頭を垂れる。着物に描かれた花柄が、澄んだ芳香を漂わせた。)
伊織:土産を持って参ります。少しの後にお会いしましょう。
(伊織の姿が影の様に揺らめき消え去る。綾乃の前に再びその姿が現れるのは、人の生涯でも足りぬ永い先のこととなるのだった。)
――― ――― ―――
伊織:
(暗闇の中に踏み潰す枯葉だけを鳴らしながら、深い森を歩く。言葉とは裏腹に、足取りに迷いはない。自分はどうとでも生きられるのだと、その事実を噛み締めて愉快に浸っているだけだ。)
伊織:都には蕩けるような甘美の菓子があると聞いた。けれど十年も前のことだからなあ。間に合うだろうか。常人の流行りは直ぐに移り変わるから。
(独り言を呟きながら進むこと一寸足らず、数里を歩いて森の外へと出る。)
伊織:菓子を食べられるか、怪しくなってきたな。
(空間を飛び越え、到着したのは摩天楼の森。煌びやかだが美しいとは感じられない。何故なら、夜景の一帯で蒼白の炎が燃え盛っている。大勢の人々が逃げ惑い、他に動くものは――伊織は思い至ったように
伊織:夜行の頃合いか?
(触手に爪を持つ
武人:そこの嬢さん!突っ立ってないで避難しろ!この区画はもう駄目だ。
伊織:ねえ、まさかとは思うが、この辺りに『地上甘露』って店があるか?この惨事で潰れてないよな?
武人:ああ...正気じゃねえな。大丈夫、助けてやるからよ。
(武人は伊織の腕を掴み、走り出す。)
伊織:ちょっ、あんた、触るな!
武人:だったら自分で走るんだな。君を逃がせれば手柄なんだよ。俺は死ぬかもしれんがね。
(伊織は手を振り解いた。振り返る武人を睨み付け、怒りと
伊織:あんたは優しい奴だがな、自分の命を大事にしろよ。俺のことはどうだっていいだろう。
武人:何を言い出す。人を救えない俺なんて屑でしかないんだよ。
(伊織は溜息を吐いた。武人に対してだけではない。この惨状は伊織を大いに不愉快にさせていた。)
伊織:
(伊織の手に金属製の扇子が現れる。武人に視認できたのはそこまでだっただろう。一瞬の後、殺戮の
(
武人:君は何なんだ?これから何をするつもりだ?
伊織:絶命の危機は過ぎた。今こそ俺を助けてくれ。
武人:俺なんかに頼みがあるのか。
伊織:激しく踊り過ぎた。柔らかな布団で休ませてほしい。地に転がって寝るのは勘弁。
武人:近場の署に来てもらおう。これだけの事をやったんだ、聴取は長くなるぞ。
伊織:俺も聞きたいことがある。さっき言った店のことだが。
武人:...?ああ、あの店なら別の都に移転したよ。繁盛してたからな。
(伊織の表情が失意で凍り付く。)
武人:そうがっかりすんな。君は大勢を救ってくれた。報酬は有る筈だぜ。
夜行之朔 Hurtmark @25511E2
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