それはなにものでもないきくち

未来屋 環

あなたはなにもの?

「ひとりでもう一度生き直してみようかと思いましてね」



 『それはなにものでもないきくち』/未来屋みくりや たまき



 目の前に座っているのは、菊池さん――御年おんとし60歳。

 今月末で定年退職を迎える彼は、穏やかな表情でそう言った。


 高齢化社会を迎えた日本では、2021年に『改正高年齢者雇用安定法』が施行され、企業は65歳までの雇用確保義務に加えて、70歳までの定年引上げや継続雇用制度導入による就業確保の努力義務が課されている。

 つまり、人々が70歳まで働くような時代になってきたということだ。


 そんな中において、この会社では60歳で定年を迎えたあとも働く人たちがほとんどであり、それは自然な成り行きといえるだろう。

 しかし、目の前の菊池さんは60歳ですっぱり会社を辞めると言う。

 勿論特段珍しいケースではない。今年の4月に係長となった私が駆け出しの人事担当として退職手続きを行っていた際も、5人に1人は60歳でこの会社に別れを告げた。

 手持ちの資格で好待遇の仕事を見付けてきたと転職する方、少し休んで旅行を楽しんでからパートをするつもりだという方、完全リタイアして趣味の世界に生きるという方――そこにはそれぞれの人生じんせい模様もようが見え隠れする。


 そんな中で、菊池さんのその台詞せりふは私にはとても新鮮なものに聞こえた。


「生き直し、ですか」


 私は菊池さんとの会話に応じながら、ちらりと手元の腕時計に視線を落とす。

 後輩の下田しもだに呼び出されて10分、私は退職金支払いの記入用紙を準備し忘れた下田のカバーのため、場繋ばつなぎ役としてこの場にいた。この調子だとまだ戻ってくるまでに時間がかかるだろう。

 せめてもの救いは、この菊池さんがとても穏やかな方だということだ。

 若手のミスを怒る従業員は少なからずいるが、菊池さんは慌てふためく下田に「ゆっくりでいいですよ」と優しく声をかけていた。


「はい。お世話になった会社を途中で辞めるのも申し訳ないですし、この定年はひとつの良い区切りかなと思いまして」


 私の頭の中で、菊池さんのプロフィールがぱらぱらとめくられていく。


 菊池吾郎さん、前述の通り今月で60歳。

 見た目はとし相応そうおうというか、『おじさん』と『おじいちゃん』の丁度ちょうど狭間はざまにいるように見える。元は黒かったであろう髪の色は、所々灰と白に侵食されていた。細長い眼鏡の奥には垂れ気味の目がちょこんと鎮座ちんざしている。

 入社以来営業畑で40年弱勤務、そのキャリアの半分近くは本社部門だ。30代半ばで一度地方支社に転勤し、5年後に本社に戻ったあと40代後半でもう一度別の支社へ転勤。そして4年前から現在に至るまでは本社営業企画部に所属している。

 確かご家族はいらっしゃらなかったはず――


「実は、10年前に離婚しましてね」

 

 ――そう、現在の人事データ上では『単身者』。


「それからずっと独り身なんですが、その時にふと気付いたんです。よく考えてみれば、僕の人生はずっとなにかのおまけだったんじゃないかって」

「そんなことないでしょう。菊池さんは営業企画部でとても頼りにされていらっしゃるじゃないですか」


 私の言葉に、菊池さんはばつが悪そうに眉を下げた。


「お気遣い頂いてすみません。でも、そんなことないんですよ。自分なりにがむしゃらにやってきたつもりではありますが、別に役職が付いているわけでもない」


 でもね、と菊池さんは口元を緩める。


「僕が『おまけ』と言ったのは、そういうことじゃないんです。僕の人生は、いつだって『営業企画部の菊池さん』以上のなにものでもなかった――そういうことです」


 まるで謎かけでもしているようだ。

 下田はまだ帰ってこない。何をやっているんだあいつは。


 私は心の中でひとつ大きく息を吐き、菊池さんのおしゃべりにお付き合いする覚悟を決める。

 そんな私の心境の変化に気付いたのか、菊池さんは満足気まんぞくげに目を細めて続けた。


「子どもの頃からそうでした。菊池さんの家の次男坊じなんぼうの吾郎くん、中学校に上がれば野球部万年補欠の菊池くん、浪人を経て大学に入学したあと、就職活動では『関東大学の菊池です』と名乗っていました。この会社に入社したあとは第三営業部の菊池から始まり、今は営業企画部の菊池。結婚していた頃、ごくたまに娘のお友達と顔を合わせた時には『三佳みかちゃんのお父さん』と呼ばれていました」


 そこまで一息に話すと、ふぅと菊池さんが息を吐く。

 私がカップの冷たい緑茶を勧めると、「どうもすみません」とうやうやしく口を付けた。菊池さんがおいしそうに緑茶を味わうさまを見ながら、私はふと自分のことをかえりみる。

 自分も菊池さんと同じだな、素直にそう思った。

 今でもそうだし、それを何の違和感もなく受け入れている。特段悪いこととも思わずに。


「悪いことではない――そうなのだと思います。これまでの人生、きっとそれに守られてきた自分がいるのだとも」


 からになったカップをテーブルの上に置いて、菊池さんは微笑む。


「――それでも僕は、たったひとりの菊池吾郎として、もう一度この機会に生き直してみたいとそう思ったのです。今日までは『営業企画部の菊池』ですが、明日から僕はなにものでもない菊池なのですから」


 そう力強く言い切る菊池さんが、私の目にはまぶしく見えた。


「すみません菊池さんお待たせしました! 係長もすみません!!」


 ドタドタとした足音に続いてドアが開け放たれ、同時に下田の声が飛び込んでくる。

 部屋の入口に顔を向けると下田がこの世の終わりのような表情かおをしていた。どれだけ私は怖がられているのだろう。

 一瞬顔をしかめようとしたところで、ふと思い留まる。

 菊池さんとの会話が楽しめたのは、或る意味下田のお蔭か。


「……準備ありがとう。菊池さん、大変お待たせして申し訳ございませんでした。それでは退職手続きに戻らせて頂きますね。下田くん、あとはよろしく」


 私がそう言って立ち上がると、「え」と下田の意外そうな声が室内に響いた。

 うるさい下田、何だその声は。

 今日は菊池さんに免じて許してやるから、今後は気を付けなさいよ。


 そのまま部屋を出ようとしたところで、「あ、ちょっと」と菊池さんが声を上げる。


「お忙しい中僕のお喋りに付き合ってくれてありがとう。とても楽しかったですよ――菊地さん」


 その言葉に私は振り返り、菊池さんに向かって一礼をした。

 私もいつか、『人事部の菊地』以外のなにものかになろう――そう心の中で誓いながら。



(了) 

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