プリニウスの追憶

笑得る古代ローマ

『大』プリニウスの危機

 古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(通称・大プリニウス)は死を迎える直前、西暦1989年の日本に転送された。以降35年間、彼は老いることなく悠々自適な暮らしを送っているわけだが、この不明瞭で疑問の残る物語に関しては、いずれしかるべき個所でお話しすることにする。


 プリニウスは今、それどころではない———。





 イトーヨーカドーB1Fのフードコートは、日曜日の午後ということもあり多くの家族連れで賑わっていた。

 時計を見て、プリニウスは溜め息を吐く。時刻はすでに午後2時をまわっていた。

 

 ランチタイムが遅くなったのには理由があった。勤め先の「古代ローマ史専門塾」でいつも通り講義をしたあと、面倒な生徒につかまってしまい、つい30分ほど前まで質問攻めにあっていたのだ。げんなりしたが、自分の機嫌は自分でとらなければならない。プリニウスはスマホアプリで銀行の残高を確認すると、イトヨーのフードコートに駆け込んだ。


 フードコートの「はなまるうどん」で軽めの昼食をとった後、プリニウスはである食後のデザートとして「ミスド」と「マリオンクレープ」、どちらで締めるか思考を巡らせた。自分が座る席とは反対に位置するミスド、つまりミスタードーナツの店舗を窺うかがう。某イケメンタレントが、広告ポスターの中で新作の宇治抹茶商品を手に持ち、アンニュイな表情を浮かべていた。


 ———宇治抹茶か。悪くないが、正直味の想像はつく。価格的にも、この新作は却下だな。わたしの定番メニューでいくとすれば、やはり「チョコリング」「チョコファッション」「ダブルチョコレート」の〈3大チョコドーナツ〉が無難だろう(「あれ、『エンゼルフレンチ』は?」という者がいるかもしれないが、それは邪道である)。アクセントとして、今日はそこに「ホット・スイーツパイりんご」を加えるのもいいかもしれない。決して相性がイイとは言えないがア......いや、ちょ、ちょっと待て。

 プリニウスは、先日「チョコファッション」を食べた時に抱いた疑心が完全に払拭されていないことを思い出した。「チョコファッション」とは、オールドファッションの一部にチョコレートをコーティングしたドーナツであるが、前回食べた際、わずかではあるものの、そのチョコレートの量が少なくなっている気がしたのだ。物価高とはいえ、姑息な真似をされることをプリニウスは極度に嫌った。


 ———ヤマザキの「薄皮シリーズ」もそうだが、原料の高騰で苦しいのなら個数を減らすのではなく(数年前までは5個入りだった!!)、ふつうに値上げをしてほしい。「チョコファッション」にしてもそうだ。顧客に気づかれない程度にチョコの量を減らすなら、正々堂々と値上げをしてほしいんだ、私は。まぁ、「チョコファッション」に関しては私の思い違いかもしれないから、あとで双眼鏡でディスプレイの中を覗いてチェックしてみるとしよう(もし勘違いだったら、謝罪の意味を込めて「チョコファッション」は爆買いである)。


 プリニウスは一度深呼吸し、今度はミスドと反対方向に店舗を構えるマリオンクレープに視線を移した。外観は派手だが、派手な広告や宣伝を打っていないところにまず好感が持てた。ティーン女子をターゲットにした煌びやかなディスプレイには、いつも通り多くのクレープの食品サンプルが並んでいる。


 ———マリオンクレープのように種類が異様に豊富で煩雑はんざつな場合、選択のストレスから「ううん…もう<カスタードチョコブラウニー>でいっか」と判断が甘くなりがちである。食後に<セロトニン>を脳内に溢れさせて幸福感を抱くためには、こうした選択ストレスを払いのけ、しっかりと順序立てて選択肢を絞り込んでいく必要があるのだ。これを怠ると、後悔の念で軽く1週間は寝込むことになる。

 プリニウスはまず、「ホイップクリーム」「スペシャル」「デラックス」「チーズケーキ」「ホット」「スナック」といったカテゴリーの中から現状の気分や外気温など、様々な......。



 便意を催したのは、その時だった。



 くそ。大腸のBenさんが排出されるまでまだ余裕はあるものの、思考の妨げとなるものはなるべく早急に対処するに限る。プリニウスは席を立ち、同フロアに設けられているトイレに向かった。途中、マリオンクレープの店舗を通り過ぎた。食品サンプルの〈カスタードチョコブラウニー〉が自分を見つめているような気がして、思わず頬を緩める。

 ———もういい、今日は〈カスタードチョコブラウニー〉でいこう。


 男子トイレに入ると、2つある個室は共に使用中だった。1分待ち、耳を澄ましたがどちらからも出てくる気配がない。しびれを切らしたプリニウスは、踵を返してトイレを後にした。

 エスカレーター前にあるフロアガイドを覗き込む。B1、2F、3F、そして5Fに男子トイレが設けられていることを確認すると、エスカレーターに乗り、2Fに向かった。


 エスカレーターで上に進む中、プリニウスの頭の中はすでに<カスタードチョコブラウニー>のことでいっぱいだった。まだ注文すらしていないにもかかわらず、セロトニンとドーパミンがぴゅーぴゅー噴き出し始め、口角があがった。


 2Fの個室トイレも満室だった。

 しばらくドアの前で待っていたものの、やはり一向に出る気配がない。試しに、ノックをしてみるが、反応はない。どうせ、イヤホンをつけて音楽でも聞きながらスマホいじってんだろ。プリニウスは呆れて鼻を鳴らし、その場を離れると3Fに向かった。3Fには多目的トイレもある。最悪、そこを使用させていただこう。


 再びエスカレーターに乗った直後、ふと自分の選択に一抹の不安を覚え、プリニウスはおもむろに前髪を掻き上げた。

 ———本当に、それでいいのか。やはり、ここはシンプルに〈アップルクリーム〉にすべきではないか。よくよく考えれば、前回マリオンで食べた際もやはり〈カスタードチョコブラウニー〉だった。同じお店で毎回同じものを注文する人間をいつも軽蔑しているのはてめぇだろ。


 3Fフロアに到着する。プリニウスは軽く自嘲し、呆れて首を横に振りながら男子トイレに直進した。


 使用中だった。いやはや、3Fの個室トイレである。しかも驚くべきことに、多目的トイレも〈ON〉であった。中からぎゃあぎゃあ騒がしい子供の声が聞こえることから、家族で入っているのかもしれない。

 ここで、プリニウスの背筋に、冷たいものが流れた。

 さきほどまで腸内で大人しくしていたBenさんの様子が変わり、不穏な空気が漂い始める。プリニウスは再度男子トイレに入った。こんなことは、“この世界”に来て以来初めてだぞ。無意識に口を半開きにしたまま個室トイレの前で立ち尽くしていると、どこか異変を察知したのか、小便を終えた少年がチラチラと好奇な眼差しをプリニウスに向け、洗面台で手を洗っていた。


 ———落ち着け。まだ余裕はある。こいつら(Benさん)も先を急いではない。「まっ、気長にやろうぜ」そう言っているようにも思えなくもない。


 1分が経過した。プリニウスの感覚では5分以上は経っているように思える。


「すみません、まだでしょうか」


 ノックと同時に、声をかけた。ドアノブをがたがた回して、圧力をかける。中からの反応はなかった。


 ———Morere! (死ね!)

 プリニウスは早足でトイレを出た。4Fに上がる。目の前に現れた「DAISO」の看板が「大」を連想させ、腸内のBenさんを発情させた。

 ま、まずい……。だがこのフロアはここは女子トイレしかないため、素通りするしかない。4Fに降りると高速で反転し、エスカレーターを乗り継いだ。

 じわじわと汗が滲みでてきた。駆け足で登りたいが、それは腸内のBenさんを活性化させるだけだ。プリニウスはその場で軽くステップを踏みながら、気を紛らすために再びこの後のデザートのことを考えた。座右の銘である「初志貫徹」という言葉を思い出し、結局本日のデザートはマリオンクレープの〈カスタードチョコブラウニー〉に着地した。いや、こうなったらミスドもハシゴしてやる。決めた。糖質過多など知ったことか。


 5Fにつくと、大股&早足でトイレに向かった。このフロアにはおもちゃコーナーがあり、走り回る子どもたちで溢れていた。トイレに入る手前で「ナソー」の文字が目に入る。腸内のBenさんが狂喜乱舞した。


 目の端で男子マークを確認し、前のめりで侵入する。

 ———もうすぐだ。今から用を足したらクレープとドーナツが待っている腹いっぱい食べてやろうじゃないか!


 いっぱいだった。

 2つある5Fフロアの男子トイレの個室は、固く閉ざされていた。


 嘘、だろ...。

 瞬間、プリニウスはあたかもドラマ『世にも奇妙な物語』の主人公にでもなったかのような錯覚に陥った。まさか、イトヨー全体で自分をはめようとしているのではないか……。


 ———古代ローマ人の自分が“この世界”にタイムスリップし、かれこれ35年間暮らしていること自体、世にも奇妙な物語なのだ。もう、なにが起きてもおかしくはない。が、しかし。が、しかし、だ。イトヨーに何が起きているのかは知らんが、“この世界”で腸内のBenさんを漏らすわけにはいかない。ここはローマではない。21世紀の日本だ。取り返しのつかないことになる。瞬く間にローマ塾の生徒たちやその他知人に知れ渡り、「まさに『大』プリニウス!」と嘲笑されるに決まっている。


 大腸のBenさんは、すでにたった1つの門の手前まで押し寄せてきていた。数年前に見た、西宮神宮の開門を待つ福男候補たちのように、足踏みをしながら今か今かと待ち構えている。開ければ最後、ものすごい勢いで飛び出し、止めることは不可避だろう。


 プリニウスは、藁にもすがる思いで閉ざされた個室をノックした。


「すみませんまだでしょうか」


 早口で声をかけると、今度はすぐに反応があった。


「……あ、入ったばかりなんですけど…」中の男がぼそぼそと応える。


 くそ、タッチの差だったのか。


 プリニウスはもう1つ個室をノックする。

 同様に、中からすぐに返事があった。


「すみません……腹痛で….っすぅ…」


 プリニウスは選択を迫られた。———入ったばかりの男を待つか、ここは見限って3Fに戻るか。

 マリオンクレープのように、論理的に選択肢を絞り込むほどの余裕はない。プリニウスは個室のドアを蹴飛ばすと、トイレを飛び出した。下りエスカレーターに乗る。プリニウスは肛門付近のケツ筋、つまり内側の内肛門括約筋と外側の外肛門括約筋の弛緩と緊張を繰り返し、門を強引にこじ開けようとしてくるBenを押し返すことに全神経を集中させた。少しでも気を緩めたらアウトだ。


 ———それにしても、なぜ...。

 プリニウスは疑問に思った。なぜ“この世界”で「トイレ探し」に苦しんでいるのだろうか。倫理観の違いはあれど、文明レベルでいえば比較にならないほど劣る古代の首都ローマでさえ、トイレ探しにこんなに悩まされることはなかった。なんせ、10人以上の屈強なローマ人たちが一度に用を足せる「公衆トイレ」が、ローマ帝国の至る所に設けられていたからだ!


 その瞬間、顔をゆがめて今にも泣きそうになっているプリニウスの脳裏に、ローマ時代の記憶が蘇った。





 薄曇りの空には、多くのワシが乱舞していた。鷲は強さ、勇気、不死の象徴である。ゆえに古代ローマ軍では、先端に鷲のブロンズ像が飾られた「銀鷲旗」を掲げ、それを守るための「アクイリフェル」という旗手までが存在した。


「しかしまぁ、よくバレずに取り戻せたな。しかも単独で」


 プリニウスがそう言うと、ルキウス・ヒワイウスは照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。昨年アクイリフェルになったばかりの42歳。平民の出身だが、プリニウスとは生まれ故郷が同じことから、ユダヤ戦役では基本行動を共にしていた(というより、ヒワイウスが金魚の糞のようにプリニウスのあとをくっついていただけなのだが)。


「そもそも、奪われたことすらアレクサンデル司令官にはバレてないんだろ?」


 ティベリウス・ユリウス・アレクサンデル。属州エジプトの総督で、ユダヤ戦争ではローマ軍を指揮した。当時、プリニウスはアレクサンデルが率いる軍の副官として、ヒワイウスはアクイリフェルとして、西暦70年3月から約7ヶ月続いたイェルサレム包囲攻撃(ユダヤ戦争)に加わっていたのである。


 ユダヤ戦争が終わり、ローマに一時帰還する道中で事件は起きた。

 フラミリア街道から少し外れたところにある小村に立ち寄ったローマ軍は、そこで1時間ばかりの休息をとることになったのだが、俗にいう「奇人」であったヒワイウスは軍の群れから1人離れ、村の奥、岩陰が立ち並ぶ林の中で仮眠することに。

 そこで、彼の背後に忍足で近づく男がいた。

 男の目的は、ヒワイウスが抱える「銀鷲旗」。おそらく男は山賊で、これをローマに敵意を抱くゲルマン民族などに渡せば、かなりの値段で売れると思ったのだろう。その男は岩陰からひょこりと顔を出し、あたりを見渡して安全を確認すると、慎重にヒワイウスの元から軍旗を抜き取った。仮眠というより、むしろ熟睡していたヒワイウスはこのことに全く気がつかないまま、「アクイリフェル」にもかかわらずあっけなく「銀鷲旗」を盗まれてしまったのである。

 だが、山賊は致命的なミスを犯した。

 ヒワイウスのことを侮ったことである。


「アクイリフェル」はただの旗持ちではなく、軍費を管理することから軍の中でも重要なポジションにあった。現代の企業で言えば、役員クラスに相当する。つまり、「超絶有能」な者でなければ任命されないポジションなのだ。


 軍旗を奪われることは、ローマ人にとって最大の恥辱ちじょくである。軍旗がなくなったことに気づいたヒワイウスは、現場に落ちていた微々たる証拠をもとに犯人を突き止め、単独で山賊を襲撃して奪い返し、何事もなかったかのように軍に合流した。


「ふっ。キミって男は。無能なのか有能なのか。まったく、面白い男だよ」


「『やる気のない有能』ってとこですかね。へへへ」


 ヒワイウスはそう言うと、その場で大きく伸びをした。つられて、プリニウスも両腕を上げる。背後の壁に空いている隙間から吹き付ける冷たい風が、なんとも心地良い。

 彼らは今、ローマ北東部に位置する町グッビオのラトリナ・プブリカ(公衆トイレ)のベンチに腰掛けていた。3面の壁で囲まれていて、天井はない。見上げると、さきほどの鷲の群れがプリニウスたちの頭上をいまだに旋回していた。まるで、自分たちの真下がトイレであることを認識しているかのようだ。「足元に流れている水道に糞でも落としてくれれば、執筆中の『博物誌』に書けるのだが」頭上を飛び続ける鷲を眺めながら、プリニウスはそう心の中でつぶやいた。


 ローマの公衆トイレは、便座(穴の空いたベンチ)の下に下水道が結構な勢いで流れていて、用を足せば勝手に流れる「自動洗浄」であった。その排泄物のほとんどは、首都ローマを含む比較的大きな都市に設けられていた下水網を経て、テヴェレ川に流されていた。特に、ローマを流れる「クロアカ・マキシマ」という大下水道の下水システムは極めて優秀で、プリニウスは著書『博物誌』の中で「なにより壮大な偉業」と称えているほどである。


 プリニウスは用を足し終えると、足元に流れている下水道に浸けてある棒を手に取った。棒の先端にはスポンジのようなものが付けられていて、プリニウスは前屈みになると、そこでお尻を拭いた。それを見たヒワイウスが不思議そうに訊ねる。


「あれ。ガイウスさん、いつもの『マイ・テルソリウム』はどうしたんですか?」


「どこかで落としたようだ。山賊にでも盗まれたかもな」


 プリニウスにとっては渾身のギャグだったが、ヒワイウスは「そうですか」と真顔でつぶやき、退屈そうにあくびをした。

 テルソリウムの用途は、おしり拭き以外にも「便器の掃除道具」として使われていたが、いずれにせよ、不衛生極まりないことに変わりはなく、プリニウスはどこに行くにも自分専用のマイ・テルソリウムを持ち歩いていたのだ。

 プリニウスはお尻を拭き終えると、テルソリウムを軽く洗い流し、あった場所に立てかけた。


「そういえばローマの公衆トイレ、また増えたらしいですよ。アグリッパ浴場のトイレも改修工事して、かなり豪華になったみたいです。床は暖房付きで、一面にモザイク画があるとかないとか」ヒワイウスが言った。


「ふん、無駄な金を使いやがって」


「収容人数も30人と聞いてますから、さぞかし臭いでしょうね。10人程度のここですら臭いますから」


「臭くて騒がしいだろ。落ち着いてクソなどできん」


「まぁ、用を足すことだけが目的じゃないですからね。でも30人も同時に用を足せるとなれば、ローマも今よりは清潔になるんじゃないですかね? 少なくとも、その周辺の『排泄物の不法投棄』はなくなるんじゃ」


「どうでもいいが、君、まだ出ないのか?」


「ううん……すみません、さっきから息んでるんですが」


「私は先に出るぞ」


「ええ、ちょっと待ってくださいよ」





 3Fにつき、プリニウスは我に返ると、プリニウスは全速力で駆け出した。男子トイレに飛び込む。

 しかし、トイレの神様は今度もプリニウスに微笑むことはなかった。3Fの個室トイレは相変わらず閉ざされたままで、プリニウスはドアの前で内肛門括約筋を引き締め、高速でステップを踏んでなんとかBenさんの流出を抑えた。息が苦しい。ワイシャツはすでに汗でびしょびしょに濡れていた。

 怒り、苛立ち、自嘲に憐憫れんびん。さまざまな感情が頭の中で渦巻く。


 ドンドンドンドン! 

 プリニウスは扉を叩いた。


「おい出てくれないかヤバいんだ頼む!」


 この状況で、もはや羞恥心はない。

 すると、すぐに水が流れる音が聞こえ、プリニウスはほっ、と安堵のため息を漏らした。

 ———いつまでもスマホをいじくりやがって。出てきたら、罵声を浴びせてやる。呪ってやる。


 プリニウスがそう決意した時である。プリニウスの背後、エスカレーターの方から、声が聞こえた。


「パパやばい漏れる!」


「3Fは絶対空いてるから我慢しろよ!」


 ———まさか、ここのトイレに来るつもりなのか……。絶対空いてるって、何を根拠に。ふっ。残念だが、君たちの前には私がいる。あの大プリニウスが、大をするために立ち塞がっているのだ。なんてな。くくくく。息子が漏らしたうんぴーの処理は、パパがやるんだぞ。大丈夫、下の階にはユニクロがあるから替えのパンツには困らない。運を掴んだ福男にもなったつもりで、ユニクロにダッシュすればいい。


 プリニウスがそうほくそ笑んだ時、ついに目の前の個室の扉が開いた。短髪の若い男が姿を現す。大きなヘッドホンをしていて、予想通り個室でくつろいでいたのかと思うと、もはや憎しみに近い怒りが頭に充満した。だが、罵声を浴びせる計画は取りやめた。男の身長が2mほどあり、しかも筋肉質であったためだ。プリニウスは御歳56歳。いくら元ローマ人だろうと、直接こぶしを交えれば間違いなく負けるだろう。仕方なく、すれ違いざまに心の中で舌打ちを高速連打するだけにとどめ、プリニウスは個室に入ろうと足を踏み出した……その時である。


 洗面台に向かう大だい男が、何か声を発した気がして、プリニウスは足を止めた。首をひねり、男の方を見る。


「マジで『大』プリニウスじゃねーか」


 男は背を向けたまま、今度ははっきりとそう言った。そして、肩で笑った。


 ———な、なぜ、私のことを。


「すみませんこの子漏れそうでいいですかほんとすみません!」


 その一瞬の間に、小さな影がプリニウスの横を通りすぎ、バタンと勢いよく個室のドアが閉まった。


 大男が、腹を抱えんばかりに笑っていた。




 Fin.




 

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