第35話 潜入捜査
追跡装置を付けたものの薬物の入手経路は掴めず捜査は難航していた。
季節は梅雨になったが、今年はジトジトと雨が続くのではなく、突然スコールのような雨が降る調子で、東京の地下宮殿は大活躍だった。
定時が近くなった頃、黎明は外を見ながら、雨がひどくて時間をずらして帰ろうかと考えていた。
「真木巡査、ちょっともう一歩踏み込んだ捜査をしようと思うのですが、女性にしかできないんです」
と、古賀が持ちかけた。
今は誰もいない特殊機動捜査隊の部屋のソファに腰掛けると古賀は声を落として話し始めた。手にはふわふわモコモコのクッションを抱いている。
「蛇沼組の幹部がよく使っている銀座のクラブのホステスの1人が若頭の愛人です。真木巡査、潜入して探ってもらうことはできますか?」
「なかなかハードルが高そうですが」
と、黎明。
「高級なクラブだけど真木巡査は美人だからすぐに雇ってもらえるはずだよ」
「具体的に何をするんですか?」
進んでやりたい仕事ではないが、薬物の入手経路や製造場所がわからないことに苛立ちは感じ始めていた。
「この女性に近づいて動向を探ってほしいんです」
と、古賀が差し出した写真には暗めの茶髪をまとめた綺麗な女性と知らない男性が写っていた。隠し撮りではなく真正面からカメラ目線で撮られたものである。
「綺麗な人ですね」
すごく派手すぎることはなく、上品な雰囲気でかなり美人ではあったが少し顔が蝋人形のように見え、違和感を感じた。
「源氏名はユリアだった」
なんだか会ってきたような口ぶりだなあと黎明は思った。
「本名は高崎栄子だ」
「似ても似つかない名前ですね」
「そういうもんでしょう」という古賀。
古賀は眉毛がないし、目も細いから、表情が分からず、発言が無色透明に聞こえることが多い。黎明は初めは顔が怖くて直視していることができなかったが、今は慣れてじっと見ている。
「こういうドレスとかってどこに売ってるんですか?」
「お店でドレスもヘアメイクもしてくれるから大丈夫だよ、面接の日の服装だけ姉ちゃんに何とかしてもらって」
「またお姉さんにお世話になって良いんですか?」
「姉ちゃん、繁華街のクリニックでバイトしてるから夜の仕事の女の人のことよく知ってるから」
「そうなんですね、わかりました」
医者もバイトってあるんだなあと黎明は思った。
古賀は、その日のうちにMasquerade に黎明を連れて行くと、面接の予定も取り付けてきた。
「じゃあ姉ちゃんよろしく」
古賀は丸投げしてソファで寛いでいた。
「うちの弟が無茶振りしてない?ごめんね」
と、正子さんは言う。眉毛はないが、シワの様子からハの字になっているだろうことがわかる。
「いえいえこちらこそこの前に引き続きすみません。どうぞよろしくお願いいたします」
と、黎明。
正子は黎明がポーカーフェイスなので迷惑がっているかどうかわからなかった。ただ新婚さんにこんな仕事をさせるのは酷だと弟を睨んだ。
黎明はツーピースを着せられると、ハーフアップにされてお嬢様風に髪を巻かれた。
メイクも最近少しずつ少しずつダークに寄せていたが、すっかり清楚系にされた。ノーズシャドウを入れられたがすぐに消された。何か間違えたのだろうか。
「あなた、顔のつくりが日本人ぽくないのね」
「そうなんですね、たまーに言われますけれど」と黎明。ハーフなのかとか聞かれるかと思ったが、聞かれなかった。
正子はノーズシャドウをいれたら外国人顔になりすぎて可愛らしくしようとしたのに、ランウェイを歩く海外のモデルみたいな顔になってしまって慌てて消したのだ。
仕上げにはコーラルピンクのグロスを塗られた。そして、爪も綺麗に整えられて、ジェルのように見える桜色のマニキュアを塗られた。
「これ、残念だけど外して行った方が良いわね」と、結婚指輪に目を落とす。
黎明はガックリする。当然だよなとは思うが嫌だなあと思った。
「はい、そうですね」
正子は黎明から初めて強い感情を感じた。とても残念そうだ。
「義男〜できたよー」と正子が弟を呼んだ。
「おお!また化けたね!」と、義男。
「面接通りそうですか?」と黎明。
「うーん、見た目は完璧だけど、その無表情じゃだめだよ」
「挨拶をする時は可愛らしく」
と、古賀の演技指導が始まった。眉なしピアスだらけの顔でお手本を見せられた。普通ギョッとするはずなのだが、何故か本当に可愛らしい女の子のシルエットが浮かぶ気がするのだ。
「古賀さん、演技上手いですね」と黎明。
「うん、演劇部だったんだ」と古賀。
「え…意外です」と黎明。古賀は一見シャイに見える。人前に立つようなタイプではないと思っていた。しかし、自分の高校時代の演劇部の同級生を思い出し、普段目立たないとても静かな子が主役を演じていたことを思い出した。
古賀と店を出ると向かったのは銀座のクラブ『イルミナ』。
「練習した通りにやれば絶対大丈夫だよ」
と古賀。
緊張感しつつ古賀を見て頷く。
クラブのママは夜会巻きに着物を着た、マリエさんという方だった。ママというのだからもっと年齢が上なのかと思ったが、30代前半に見えた。肌は異様に艶々としており、美人ではあるが唇に入れられた不自然なフィラーと白い鼻のハイライトが気になってしまった。
物腰は柔らかくて感じが良く、黎明はちょうど欲しかったタイプの女の子だとすぐに採用された。黎明の源氏名は”ミヤビ”になった。
その日は面接だけかと思ったが、すぐに店に出されてびっくりしてしまった。
周りの女の子たちは、自分と同じくらいか少し下の子が多いように見えた。大学生かな、と思った。
明らかに上と感じたのは、ユリアさんと、もう一人アカネさんだった。ユリアさんは清楚系だったが、アカネさんはゴージャスなタイプだった。黎明は当然ユリアさんの方が教育係についた。
古賀はこれを全部見越していたのだろうか。
ユリアさんは若頭の愛人ということで戦々恐々としていたのだが、あまりに普通の優しい人なので拍子抜けしてしまった。
しかしお客さんのところに案内されると、自分はまだ何も覚悟ができていなかったなと痛感した。当たり前だが、男の人のお酒の相手をする仕事なのだ、蓮に対してすごく後ろめたい。今日が初めてということでお客さんも優しく、笑っていれば乗り切れたがこれからのことを考えると心が重かった。高級クラブなのでそこまで下品な客がいないのだけは救いだった。
黎明が家に着いたのは深夜だった。
そっと玄関を開ける。何時になるかわからないから先に寝ててと蓮には連絡したので、蓮は寝ているみたいだ。
いろんな匂いが染みついた身体を早く洗いたくて、風呂場に直行した。
いくら夜が遅かろうとまた朝から出勤だ。
少しでも眠れるようにと急いでシャワーを浴びる。髪もドライヤーで乾き切らず少し湿っているままだけど、今日は丁寧にやっている余裕がない。
黎明は静かに寝室のドアを開けた。そっと蓮の隣に潜りこみ横向きで寝ている蓮の背中にくっついた。大好きな匂いに安心する。
蓮は夢うつつなまま寝返りを打つと、黎明の方に向いて抱くようにして、またスヤスヤと寝息を立て始めた。
朝6時、蓮がランニングの準備を始める。
黎明も起きるが、
「昨日遅かっただろ、もう少し寝てなよ」と、蓮に気遣われる。
「ううん」
と言って、着替えている蓮に後ろから抱きつく。
「どうしたの?」
蓮は黎明の様子が少しおかしいことに気付く。
「これからしばらく遅くなりそうなの」
「うん」
「嫌な捜査なの」
「張り込み?」
黎明の頭が背中で左右に振られるのがわかる。
「…言わなくて良いよ」
警察官なら家族にさえ言えないようなことはしょっちゅうある。
「…指輪を、外さないといけない仕事」
流石に蓮も動揺したようだ。
張り込み以外でそんな仕事…そんな危うい捜査をしているのか。色んな噂はある部署だったが。
「…そうか、くれぐれも気を付けてな」
蓮は不安にならない訳がなかった。
黎明は、蓮を抱きしめる手に力を込めた。
蓮は黎明に向き直ると頭に唇を落とした。
「もし週末お互いに何もなかったらデートしよう」
「うん!」と黎明は目をキラキラさせて蓮を見上げた。
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週末は無事お互いに休みで、突然の雨に備えて、複合型商業施設に行った。
皆同じことを考えたのはカップルや家族連れでいっぱいだった。
「人多いね、大丈夫?」
感覚が鋭い黎明には、情報量が多すぎて疲れてしまうかもしれないと思った。
「みんな同じことを考えるもんだね、大丈夫よ」
シャットアウトが前より上手くなったしきっと大丈夫だ。それに今日は見たいものがあって来たのだ。
「早速水族館に行こうよ」と黎明。
水族館の一角が三木の会社のプロデュースで期間限定でアートアクアリウムになっているのだ。
その水族館は新しく、水槽が綺麗なことで有名で、近隣の区にある水族館が子ども向けの企画が多いのに対して、どちらかと言うと大人向けの施設だった。
「ちゃんとクレジット出てるよ!」と黎明。
「本当だ、なんか写真もめっちゃかっこいいじゃん」と笑う蓮。
暁と三木の2人の名前といかにもクリエイター風の写真と共に、コンセプトの説明書きがパンフレットに載っていた。
アートアクアリウムはそこまで大きな区画ではなかったが、クラゲや金魚などの水槽があった。空中に浮くようなつくりの水槽もあり、暗い空間では、自分が水の中にいるような感覚になる。
「すごいね…宇宙みたい」と黎明。
デジタルアートも駆使されていて、海の中というより宇宙がイメージされたようなものだった。
「音楽もそんな感じだな…」
ピアノを基調とした音楽だが、ピアノはこもったような音で宇宙の真空空間をイメージさせた。シンセサイザーも入っているようだが、パンフレットによると水の音や自然音を加工したものが使われているらしい。
幻想的で没入感がある音楽だった。
子どもたちも展示を見ていたが、雰囲気に飲まれて静かになっていた。不思議な雰囲気に驚いたのか口が半開きになっている子どももいた。
「すごく良かったね」
「ああ、2人ともすごいな」と蓮も感動していた。
黎明が違和感を感じ始めたのは、ランチを食べている時だった。
蓮が黎明に話しかけるがあまり集中していないように見える。
「どうかした?」と聞く蓮。
「ううん、なんでもない」と、黎明。
その目線の先には30代くらいの二人組の女性がいる。その女性たちから知っている匂いがするのだ。
しかし見覚えがない。
そのあとも、ショッピングをしていると今度は別の二人組のカップルから同じ匂いがした。
「黎明、なんか気になることがあるなら言って?」と蓮。
「ううん、大丈夫」
と、言いながら黎明はスマホを打っている。
何か打ち終わるとポンポンと指でスマホを叩いた。蓮にスマホを確認しろと合図したのだ。
『確信はないけれど、話を聞かれているかもしれない』
蓮は、
『カップル?』と、返事をした。
『うん』と、黎明。
その後場所を変えたが再び黎明が警戒している。
『もうあのカップルいないけど』
と、蓮がメッセージを送る。
『それがね…後で詳しく話す。とりあえず出よう』と、黎明。
誰もいない場所に来ると、黎明が話した。
「なるほど、見たことがない人物から古賀ってやつとその姉の匂いがすると」
「うん、気のせいかと思ったんだけど何度もだから」
「身辺調査かな」と蓮。
「だとしても違和感が….」
見たことのない人物が姿を変えて匂いだけが変わらないと言うのはすごく気味が悪い。ましてや性別まで変わっていたのだから。
「人が多くいるところはやめよう」と蓮。
「じゃあ試乗行こうよ」と黎明。今まで誠一郎と車を共有していたのだ。車を新しく買う話はあったが、先延ばしになっていた。
流石に試乗となると人混みからは離れたのでもう同じ匂いはしなくなった。
「黎明、それ気に入ったの?」
と蓮が聞くのは、ドイツの高級車だった。
「うん、カッコいい…し蓮に似合う」
と黎明が無表情ながら目がキラキラしている。
高級なメーカーの販売員は若い客の足元を見ることもあると聞いたが、男性の販売員は黎明と車を店舗のSNSに写真を載せさせてほしいと頼んできた。蓮が断ると次は蓮自身を載せさせてほしいと頼んできた。
2人は困り果てて、なんとか理由をつけてその店舗を出た。
「確かにあの車はかっこよかったけど、山とか行くこと考えるとSUVとかの方いいかも」
と、蓮。
「確かに、キャンプも行きたい…」
と黎明。
「本当は外車のかっこいいの乗ってみたい気持ちもあるけど、クロスカントリーで、仕事で東京の細い道を走ると考えると、それを前提に作られた国産車が妥当なんだろうな」
と、蓮。
「そうだね、メンテナンス考えてもその方いいかも」
と黎明。
考えた末手堅い国産メーカーの、高級なラインのSUVにすることにした。
The dawn 長学歴ニート @afrozeb
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