6.

 道には夜店が並んでいた。まだ薄明るい空の下で、早くも淡い黄色のライトが灯されている。様々な匂い、いろいろな声が混ざり合い、あたり全体が浮き足立っている。空がだんだんと暗さを増していくにつれて、夜店の灯りはどんどん明るくなっていく。

 従妹の話だと、花火は八時頃に始まるそうなので、一時間ほどの余裕があった。二人で夜店をのぞいてまわる。

 とある機械の前で彼女が足を止める。僕は財布を取り出し、お金を渡す。店の人が、ザラメを機械の真ん中に入れる。空っぽだった機械に白い靄があらわれ、くるくると回る割り箸にその靄がまとい付いていく。集まった靄は甘い糸になり、大きな綿ができあがる。二人でそれをちぎりながら口に運ぶ。口の中で頼りなく溶けていく甘さ。お互い、ぺたつく指をなめながら笑いあった。

 彼女は、小さな子供のようにはしゃいでいる。ふと、不思議な空気に浮遊感を覚えた。普通の夜とは違う空間。真っ暗な中、赤や橙色の光で浮き上がっている世界。見慣れないものばかりが、当たり前に並ぶ場所。僕も同じようにはしゃいでいるのだろうか。

 彼女が再び足を止める。子供が三人しゃがみこんでいた。水色の水槽に、金魚がたくさん泳いでいる。彼女はお金を渡してしゃがみこむ。僕も隣にしゃがんだ。彼女は真剣な面持ちで紙をそっと水につける。狙いを定めてゆっくりと水平に動かし、そろそろとすくいあげる。紙の上で跳ねる金魚をおわんに移すと、彼女は笑みをこぼす。黒い出目金をすくったところで紙が破れた。すくった三匹を袋に移してもらう。

 満足そうにそれを眺めている彼女を促して歩き出す。そろそろ花火が打ち上げられる時間だ。他の人達も、海岸へと集まっているようだ。

 集まった人達は、みんなそわそわと空を見上げている。砂浜に陣どってお酒を飲んでいた人達も、今は静かにその時を待っている。そして、もどかしさが満ちた空気を突き抜け、一筋の音が空へ上がっていく。

 ドーン……

 その音は大きな音とともに、光の花を開かせた。歓声ともため息ともつかない声があがる。花火が打ちあがる音、開く音、人のどよめき、その三つが交互に繰り返されていく。

 丸く大きく開くもの。小さくいくつも開くもの。開いた後大きく枝垂れるもの。開いてから細かくきらめくもの。それらが、重なりあい連なりあいながら、夜の空を一瞬一瞬美しく染めあげていく。

 一時、間があいた。不意に静かになったその場所に、ため息のような空気が流れる。風に乗って、火薬の匂いがかすかに漂ってくる。

 彼女はじっと空を見つめ続けていた。夜のかすかな光の中で、彼女の横顔をみつめる。時間が止まってしまったような美しさ、僕は息を飲んだ。何を思うこともできず、ただ彼女を見つめ続けた。しかし彼女の手に目がとまると、息がつまりそうになった。

 闇の中で白く浮かび上がっているような手。美しく、そして無防備なそれに触れたい衝動が、僕の胸を締め付ける。腕組みしていた手をそろそろとほどくと、彼女の手にそっと近づけていく。だが、手はためらいに縛られ上手く動かない。一方で視線は、彷徨いながらも彼女の手を見つめつづける。ためらいを引きずるようにゆっくりと手を動かす。

 彼女の手に触れ、そっと握る。その手が固くなるのが分かる。だが頭をよぎる不安は、一瞬で喜びに変わる。彼女は僕の手を握り返してくれた。

 なぜか顔をあわせることができず、視線はまだ暗いままの空に向けられている。それでも、何か彼女の全部を感じているようだった。彼女の手の形と暖かさ、肌の感触とかすかな力。その手はとても心地よかった。

「……一樹くん」

 彼女が、僕の名前を呼んだ。返事を返そうとする僕の声は、喉の奥で一瞬迷った。視線の先で、彼女は少し照れくさそうに笑っている。

「夏花ちゃん……」

 僕は彼女の名前を呼んで、同じように笑った。不意に花火の打ち上げが再開されるのだが、僕らはしばらく花火を見ることを忘れていた。

 夢見心地のまま家路につく。帰宅する人達でごった返す駅のホーム、込み合う電車の中、田んぼの間のまっ暗な道。まだ、かすかに彼女の気配を残す自分の手を何度もみつめる。何か、他のことはもうほとんど覚えていなかった。だからこのことは……きっと忘れられないだろう。

 そしてまた、普段どおりの朝を迎えた。いつものように人のいない駅のホームには、昨日の花火の余韻が寂しさという形で残っている。海岸に向かう僕も、かすかな寂しさを抱えている。

 いつものように彼女を待ちながら、僕はカメラをもてあそぶ。あと数枚はフィルムが残っているはずだった。全部撮ってしまおうと考えていると、またいつものように彼女が突然現れる。

 彼女は最初に会った時と同じ白いワンピース姿で、白い大きな帽子をかぶっていた。

「明日、帰っちゃうんだよね」

 その言葉に返答できず、思わず視線をそらしてしまう。彼女も少し寂しそうだった。

「私も、今日までなんだ」

「……そうなんや」

 彼女は小さくうなずく。そして、笑顔でこう言った。

「だからね、最後に撮って欲しい場所があるの」

 先だって歩き出す彼女を追いかける。横に並んでも、言葉はない。今日の寂しさをどう処理していいかわからず、ただ彼女の顔を悲しく見つめることしかできなかった。

 いつもの砂浜から少し歩いたところに、ちょっとした岩場がある。彼女は「ここ」と言って立ち止まった。彼女から写真を撮る場所を指定してくることはなかったので、「なんでなん?」と聞いてみたが、彼女はあいまいに笑っただけだった。

 岩の上に軽やかに立った彼女は、帽子をおさえ海のほうを見つめていた。少し風が強いのだろうか、服が大きく揺れ、髪がなびいている。白い揺らめきとかすかな黒の揺らめきが、深く澄んだ青を背景に溶けあう。まるで周囲から切り離されたような世界。僕はシャッターを切った。

 その時、彼女がこっちを向いた。満面の笑みをたたえて僕を見つめている。うれしそうな、楽しそうな、幸せなその笑顔を最後のフィルムに収める。

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