5.

 落ち着いて座れる涼しいところを探せば、駅前の小さな喫茶店に行き着くしかない。少し効きすぎたクーラーのおかげで、あっという間に汗がひく。

 注文を済ませると、コップの水に口をつけ、水滴に覆われたコップからじりじりと視線を外す。一瞬TVの高校野球に目が行きそうになるが、差し向かいで座っている以上、彼女以外に見つめる場所はない。

「水内さんはこっちの人?」

「横浜。ここはお母さんの実家、ここからバスで少しのとこだけど。山根君は関西でしょ。しゃべり方が」

「うん。大阪、やけど兵庫との境……あ、桐蔭負けたんや」

「山根君の高校?」

「違う違う。でも、同じ県応援せえへん?」

「あんまり、野球は……」

「そうや、水内さんいくつ? 同い年?」

「……あの日から十年だから……十七。山根君の一コ上」

「上なんや」

「下っぽい?」

「どっちかって……」

 言いかけたところで、頼んだものが運ばれてくる。一時会話が途切れるが、すぐに話し始める。僕としては自然に会話しているつもりなのだが、頭の中はずっとパニック気味である。落ち着いているのなら、性格上もう少し言葉数は少なかっただろう。そう思えば、むしろこの方がいいかもしれない。

 伝票を持ってレジに立ったが、彼女は自分の分のお金を既に取り出していた。ちょうど細かいのがあったから、という彼女の言葉を複雑に聞きながら店を出る。

 海岸に戻って、フィルム一本分の写真を撮る。撮影自体は一時間もかからずに終わり、その後は海岸の店でしゃべっていた。

 外が明るい分少し薄暗い店の中、少し澱んだような暑さだが、直射日光に当たらないだけましだ。まして、舞い上がった頭には暑さなど関係ない。ラムネのビー玉をカラカラ鳴らしながら、言葉を続ける。楽しい話をしているのではなく、話すのが楽しかった。

 スマホの呼び出し音さえなければ、ずっとそうしていたかった。もっとも、話のネタが尽き、沈黙が訪れる危険性を無視すればであるが。

「じゃ、明日また」

 今日の彼女の楽しそうな様子は、それが明日も続くだろうという期待を与えてくれた。しかし持ち前の臆病心の前では、それさえも淡く儚いものになってしまう。もう、写真を撮るという口実はないのだ。

 それでも、望まない結果が出る前にさっさと諦めてしまういつもの気弱さを、今は押さえ込むことができた。明日も会う約束を取り付ける、たったそれだけのことだが、僕にとってはとても大胆なことのような気がした。

 夕飯の後、部屋に戻って今日一日の出来事を反芻する。どうしようもなく浮かれた気分。畳の上に寝転がって、落ち着きなく寝返りを打つ。初めて味わう胸の苦しさは、頬を緩ませるほどに甘い。いくつもの心地よさがからまっていて、一つの言葉にしてしまうのはもったいない。だから僕は、にやけた顔のまま複雑な想いの中を漂うことにする。

 次の日もその次の日も、朝早くから海岸に出かけた。両親がこちらに来た日に、もう一度祖母の見舞いに行った以外は、毎日海岸に通った。

 家族はみんないぶかしみ、妹などは鋭い線をついてきたが、きっぱりと否定し彼女のことは秘密にしておいた。理由は分からないが、何となくこのことは僕だけのもののような気がしていた。

 彼女を待つ時間のじれったさ、彼女が返事を返すまで不安、彼女の声を聞く嬉しさ、彼女を見つめるどきどきする一瞬、目があった時の焦り……何か、もう全部が楽しかった。暑い昼間、ひたすら眩しい太陽、濃い水色の空、相変わらずの夏の景色は背景にすらならない。今まで写した写真と違い、今の僕は彼女しか映していない。

 それでも、時間は確実に流れていた。帰り際、不意に彼女が聞いた。

「山根君はいつまでいられるの?」

「……明後日。明々後日の朝に帰る予定やから」

 その問いが、二人の間の空気を静かにした。どうしようもないことなので、考えないでおいたことだった。せいぜい「夏休みギリギリまでこっちにいられる」と言えるくらいだろう。そう言おうとした時、彼女が別のことを言った。

「じゃ、明日の花火は大丈夫だね」

「あぁ、花火明日なんや。一緒に行こうな」

 何の気負いもなくそう誘うことができる。そう言うのが当然になっていたし、彼女もそれにこたえてくれる。それはとても誇らしいことだと感じる。

 花火はいつもの海岸から少し北にいった、別の海岸で行われる。毎年この時期にやっているのだが、父方の実家に帰る時期と重なっていたので、一回しか見たことがなかった。母はたいしたことないと言うのだが、大阪で行われるような花火と比べること自体間違っている。

「屋台とか出てたの、何となく覚えてる」

「あれでしょ、私の部屋の変なクマのぬいぐるみ買ってもらった時」

 浴衣を着せてもらった妹と従姉妹の会話は、ひたすらにとりとめない。その後ろについて歩きながら、駅の周辺を思い浮かべる。駅を降りたら、はぐれたふりをして三人を撒くつもりだった。せっかくのデートに邪魔を入れるつもりはない。

 電車は普段の様子からは想像できないほど人が多く、浴衣を着た女の子も大勢いた。三人から少しはなれたところに立ち、スマホも切っておく。背が高いので結構目立つのだが、大勢の人が乗り降りすることを想定していない小さな駅が僕を助けてくれた。一時ごった返した改札から妹達が押し出されていくのを確認すると、人の流れをすり抜けて他の人達とは逆方向に向かう。

 いつもの海岸には人がいなかった。松並木の向こう側の道路から、歩いて会場に向かう人の声が時々聞こえてくる。かすかなその声が、海岸の静かさを引き立たせている。

 僕は声の聞こえる方から目を転じて、空よりも少し早く、深く濃い青色になった海を見つめた。そわそわした気持ちが少し落ち着く。その時、いつものように彼女が突然現れる。

「お待たせ」

 そう言って笑顔を向けてくれる彼女は、浴衣を着ていた。水色で金魚がかわいらしく泳いでいる、ちょっと子供っぽい浴衣。

「かわいいね」

 普通にそう言える自分に少し驚く。嬉しそうな彼女と連れ立って歩きだした。

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