4.

 一瞬、言葉が途切れる。普通なら、初対面の女の子に言うようなことではなかった。どう聞いても、小道具を使った安いナンパでしかないだろう。激しい後悔と、言いようのない恥ずかしさに、顔が焼けるように熱くなる。彼女のきょとんとした表情を見ながら、終わったなと思う。

「いえ、別にいいんで……」

「……きれいに撮ってくれます?」

 言葉を継ぐ前に返ってきたその言葉の意味を、一瞬理解できなかった。はにかむような彼女の顔をみてようやく意味を理解するのだが、今度は対応の仕方が分からなくなる。

「ぇっ、その……いいんですか?」

 自分から頼んだのに、そんな風に聞き返してしまう。そして何を考えたか、いきなりカメラを取り出そうとする。それにはさすがに彼女も慌てたようで、半分ほど残っているアイスキャンディーをどうしようかとまごついていた。

 その様子をそばにいた男の子が、不思議そうに見ているのに気付き、二人で顔を赤くする。お互いに笑うしかなく、僕はカキ氷を買って彼女の横に座った。

 お互いのことを少し話す。どんなことを話したのかは、はっきりと覚えいてない。覚えているのは、彼女の少し高く舌足らずな感じの声と、水内夏花という名前だけだった。

 写真はまた明日あらためて、という約束をして家に戻った。七時過ぎでも薄明るいが、さすがに一言怒られる。もっとも、どことなくうわの空の気分なので、そんなことは気にもとまらなかった。

 一人で夕飯を食べ、部屋に戻って布団に横になる。長い一日だった。

 大きくため息をついて、落ち着こうとする。頭の隅では、彼女の姿と声が際限なくリフレインされている。薄暗い天井を見つめるのを止めて目を閉じる。もつれた胸は容易にほどけそうにない。また、ため息をつく。

 こういうことは苦手だった。友人達が女の子のことで騒いでいても、たいして興味を持たなかった。漠然とした憧れのようなものはあったが、それを得るために何かしようとまでは思えなかった。だから今日のようなことは、普段の自分ではありえないこと、奇跡かそうでなければ、何かの間違いのようなものだった。いつまでも彼女のことを考えている自分を不思議に思う。

『何なんやろう、これ……』

 ありきたりの一言では言い表せない、楽しくて、恥ずかしくて、ちょっと不安で苦しい、誇らしげな気持ち。何度ため息をついても、この気持ちを落ち着けることはできなかった。

 そのせいか早々と目を覚ましたので、準備は万端に整える事とができた。だが、いくらなんでも十時の待ち合わせのために八時前に出かけることはできない。電車の時間を間違わなければ、三十分でつくのだ。一時間以上、家でイライラしていなくてはならない。

 新聞には三度目を通し、テレビのチャンネルは絶えず切り替えている。不安と期待どちらの思いも、早く結果が出ることを求めている。時計の歩みは相変わらずで、気ばかりがどんどんと加速していく。

 結局、家を早く出すぎたために、三十分以上早く着いてしまう。砂浜はまだ焼けておらず、人もあまり来ていない。海と空のコントラスト、白く輝く雲、絶えず模様を作り変える波、カメラを構えるには十分な景色だ。

 しかし、僕は視線をひたすら腕時計に注いでいる。じりじりとした時間の中にいる以上、興味をもてるのは時計の針だけになる。

 十時きっかりにあたりを見渡す。だが、彼女の姿は捉えられなかった。焦りと落胆が同時に来る。

 もっとも、二・三十分遅れてもおかしくはない。電車が五分おきに来る都会とは違うのだ。そう思うのだが、それを冷静に考えていたわけではない。頭をよぎる最悪の事態を、なんとかねじ伏せようとする理屈に過ぎない。ウロウロと歩き回り、首をキョロキョロと動かす。はやり焦る胸が飽和しそうになった時、不意に声を聞いた。

「……おはよう」

 彼女が背後に立っていた。急だったので、挨拶を返すのに手間取ってしまう。そのため会話の糸口をつかみそこなう。微妙な間が開きそうになった時、彼女がもう一言発した。

「待たせちゃった?」

「いや……僕が早く来すぎただけやから」

 そうして、なんとか会話を保ちながら歩いていく。やっぱり、あまり人のいないところに移動したかった。

 彼女は淡い緑色のワンピースに黄色いサンダル、大きな白い帽子をかぶっている。じっくり相手の顔を見つめることなどできないので、それ以上は上手く分からない。歩いている間中、視線はひたすら別の方向を探し続けているのだ。横目で盗み見た彼女と目があう。お互い慌てて目をそらし、話し声は勝手に大きくなる。

 ファインダー越しにうかがう彼女の顔は、はにかんだ少しぎこちない笑顔。カメラを間に挟んで、僕はようやく彼女を見つめることができた。とりたてて美人というわけでもないが、丸顔で目じりの少し下がったかわいらしい顔。ずっと見つめていたいのに、カメラを下ろすと、やはり視線は彷徨ってしまう。彼女も、僕が見るのと同じ方向に目を向けている。

 モデルを使って写真など撮ったことないので勝手が分からなかったが、それでもどうにかフィルム一本分は撮影できた。完全に麻痺している時間感覚を、腕時計で取り戻す。十一時を少し回ったところ、中途半端な時間だ。誘うかどうか、いや彼女が応じてくれるかどうか迷った。

「お昼にはちょっと早いけど……どないする?」

 逡巡をねじ伏せてそう言った。声だけは落ち着いていたが、体は冷たくなり、そのせいで汗が噴き出した。彼女がそれに答えるまで、間があったわけではない。その一瞬の間はどれだけ長かったのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る