労働とくらし
三日後、彼は最低限の身だしなみを整えてある場所に向かう。なんとか生活費を工面するための仕事探しに勤しんでいたのだが、ようやく自分が働けそうな職を見つけたのだ。場所は町から離れた、玉ねぎ臭い農村。その中でひときわ目立つ倉庫らしき建物がある。看板は「大日食品 西地区仕分けセンター」と書かれており、今回の仕事が仕分け作業であることを示す。面接は簡単すぎたのか、何を聞かれたか覚えていない(体力の限界か?)必要なことを聞かれて、すぐに採用となった。
仕事内容は、この地区で生産された野菜、畜産物を、発送先ごとに分けるというものだ。単純なのだが、物と行先によっては、重いものを遠くに持っていく必要があるので、それなりの体力は必要になってくる。労働時間は六時間。休憩は十五分だけ与えられる。ここを選んだ理由は、学歴不問で経験も不要だからという以外に何もない。彼にはお金だけが必要なのだ。何でも選べるようなそんな状況じゃないのだ。
初日は三〇分の説明ですぐに放り出された。スイカの段ボールを持ち上げるのも重く、一つのコンテナを完成させるのすらかなりしんどい。一日で数十個ものコンテナを作らなければならず、ただでさえ少ない体力が多く削られていくのだ。荷物を入れた後は確認も欠かせず、ミスがあるとコンテナを解体しなければならない。慎重さも求められ、神経が尖っていくのを感じている。
きつい仕事中はただベルトコンベアの騒音や、その他警告音を聞くのみで、先週居た駅のような、色とりどりの音ではない。よって、彼の創造性にはまったく響かない音である。そのような空間は彼には苦痛でしかない。無駄に耳を擦切りたくないのである。やればやるほどやる気の失せる職場で過ごす時間が、まもなくあと三時間まで迫っていた。集中力は残っているが、最初のようなピリピリ感はかなり減ってきた。仕事のスピードは随分と上ったように感じる。一人ひとりにノルマは無いし、早上がりなんて制度もないが、一定の速度がないと荷物が溜まる職場なので、必然と処理速度は上昇していくのだろう。
時計の針は遅く、単調な一秒がより苦痛に感じる。終業チャイムと同時にもらえる金を人参にして働く彼とは違い、何事にも左右されぬ一切の独立性を持っているのが原子時計であり、末端たるこの作業所のアナログ時計は、その指揮下にのみ入っている。残酷にも鯖読み二十分しか経過していないことを実感させるのみで、針を護るガラス保護板に面白い暇つぶしの番組などは、液晶のように映ることもない。しがない労働者の脳内には、完成まであと一歩のあの曲の、本当にラストまであと少しというところの旋律が延々と繰り返される。エラーを起こすコンピュータのように、そこから何かを発展させることもなく、来ることもない最終パートを待つのである。
長く苦しい時間が終わり、事務室に向かう彼。労働者のヴェールを脱ぎ捨て、一人のアーティストへと戻っていく。今日の給料は六千円。所持金わずか数百円で生活が危ぶまれていたこの午前と比較すると、とてつもなく裕福に感じられる。家賃を賄いきるのにあと二日働く必要があるのだが、月に数日のみでも生活の維持ができるというのは美味しいものだ。通用口のドアノブを回すとき、手にある紙幣群と、穢れなき音に心を躍らせた。耳からは、工場の喧騒が夕闇に溶け込んでいった。
いつものスーパーに来た。トマトや果物など、今日の仕事で見送ったものがあちらこちらに並べられている。昨日と比較にならない程の経済的豊かさを感じているが、世間的には貧困にあたるような所得である。昨日と同じように割引のシールを探す。オワコンキャラクターのコラボパン、挑戦的なサイダー、エスニックすぎるカップ麺が多くを占め、お惣菜はほとんどない。一時間遅れるとここまで変わるのかとショックを覚える。仕方なく、カップ麺を二つ買うことにした。水を入れて通常の五倍ほどの時間を置いてやると、温度以外は普通と変わらないものが出来上がるという、災害用テクニックを聞いている。
家に帰り、備え付けの下駄箱に稼いだ金をすべて隠す。家の鍵だけが財産を護る。そして好奇心の失せないうちに、シンクへと彼は向かった。フィルムをはがし、蓋を開けてみると、何処かの店のダクトでかすかに嗅いだような気もする、そんな料理の香りがした。水道水を流し込めば、十五分の忍耐がある。その間にできることだけはやっておかねばと、パソコンの電源を入れる。思い出したくもない事故からずっと起動していなかったためか、起動時のガリガリというハードディスクの音が長く感じるし、ファンもいつもよりけたたましいように思う。やっと起動したと思えば、動作が重くソフトを開くのも一苦労だ。レイヤーごとに画面が浮かび上がっているのだろうか。操作可能になるころには、十五分を超えていた。今度はパソコン側を待ってあげるために、準備していたカップ麺に手を伸ばす。スープから飲んでみるが………なんというか、粉っぽくてスパイスが強い。鼻に抜けるものは謎の葉野菜のようなものに感じられ、なにか一歩踏み出せずにいるような風味も、奥のほうに居るのだ。麺と合わせたらマシかもしれない___との期待も微妙に裏切られる。麺に粉っぽさが絡まって、余計にその感覚が強まるだけである。とはいえ、決して完食が厳しい程の代物ではない。安っぽさが残り、残念な印象が拭えていないだけなのだ。食事ついでに、ようやく起動したソフトをいじる。ずっと脳内で流れていた旋律が、その画面の中に映し出されている。修正もされていない荒っぽい音で放置されていたのだ。数日越しに修正を行うのだが、当日に作曲するのと違って、いちいち何の作業をその日に行ったかを振り返らなければならないのが面倒だ。カチカチと叩くキーボードには、思い出せない焦りがぶつけられる。この作業は五時間以上かかることになるだろう、という予測を立てると、遠い道のりに絶望しそうになった。午前二時まで起きていたことはないし、それだけの耐久性を試したこともない。それでも、一回で終わらせてしまうほうが彼にとってずっと楽だから、ぶっ通しでやろうとしているのだ。挫けた心も、作業に打ち込んでしまえば自然と忘れる。修正をすると、ほかの部分も修正が必要になる。作業量はラーメンのように伸びて、曲の熱意も少しずつ冷めていく。
才能で食えないメシ @sondnichirin
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