危機
色も味も薄いこの生活が続き、「Brave」もようやく完成しようとしていた。作曲開始からこれまでに、食費に二、三万は使っただろうか。いつものように、作曲に適した場所を探す。河川敷は少し遠いし、最終部分には適さない。作りたいのは、やかましい程に熱狂的なものだ。グランドフィナーレは勇者の勝利で飾り、曲をきれいに終わらせたいのである。
やってきたのは、通勤ラッシュでごった返すあの駅。視線は冷たいのだが、曲に感情移入した彼にはこの環境がむしろ望ましいようだ。いつの日にか座った柱の近くは、今日は雨に濡れることがない。相変わらずタバコをふかすのには狭い空間で危なっかしい。灰の熱で溶けたパソコンの樹脂パーツが微妙な肌触りを演出し、彼の集中力を少し削ぐ。タバコの煙で人々が避けていくように、彼の創造性が停滞していく。
警笛、ざわめき、改札の警告音、放送、カオスにまとまった空間でひたすらに作業を続けてタバコが床に七本くらい落ちたとき、完成まで本当に近いところまで来た。時々に挿入している効果音は、環境音をオマージュしたものであり、この曲が環境なしでは成しえなかったことを表している。あとは帰りにやってしまおうと思ったのだが__動けない。座っているところから一切動けないのだ。おかしいと思ってズボンを引っ張っても、それが地面に吸着していて、脱出はできない。一気に冷えた汗が全身に流れ、焦りで脳を埋め尽くされる。動けない現象は栄養不足なんてものでない。ほかの柱には「ネズミ対策施工中」。駅の至る所に住みつくネズミへの対策用のトラップに引っかかったのだ。なかなか強力なせいで、一人ではびくともしない。助かるには誰かの力が必要なのである。
とはいっても、この恨みに恨まれた男を救おうと思う人がいるだろうか。彼の行いは人様にタバコの害を強制し、通行の妨げとなった。現に、通る人の表情は彼をあざ笑うものなのだ。スマートフォンを片手に撮影する者、集団で阿呆のような笑いをあげる者、個性を光らせて彼を侮辱する。奴らは心底スカッとしただろう。だが、主人公を彼だとするのなら、物語は絶体絶命のピンチを迎えたところである。一刻も早くこの状況から抜け出す____それだけに躍起になって、過去に出したこともないような筋力を出す。強い粘着力に対峙できる、知的な方法は持ち合わせていない。筋力以外に頼れない。ただただ、腕に筋力を集中させる。その見た目は面白おかしく、周りからの嘲笑も高まる。負けない。それが「Brave」の込められた思い。だから絶対に抜け出したいという思いが強まっている。過去に作曲したところを思い出して、記憶で奏でる。自身への応援歌にこの曲を使う。不思議と馬鹿力が発生され、ついにズボンからビリっという音が出た。
ズボンは毛羽立ち、腕は揺れる。異常に疲れた様子の男の顔には、その苦労が目に見える。しかし、粘着剤はきれいに取れている。それには心優しき駅員の補助があった。あの努力と嘲笑の甲斐あっても微塵も動かず、誰かが親切に呼んだのだろう駅員によって慎重に救助された。その作業中にも腰を浮かせたりしたので、体力は限界まで減ってしまった。その上、座り込みの条例違反の現行犯になってしまったために、五千円も支払う羽目となってしまった。彼の所持金は二枚の札しかない。すごく疲れたので多く食べたいのだが、今後を考えるとそんなことはとても厳しい。いつものスーパーで、今日は明日の朝食だけ買って早々にでてしまった。
何もする気が起こらない彼は、楽曲の修正作業をできなかった。夕飯もない中、それは死へと近づける行為だろう。彼の体重はここ三か月で五キロ減った。体力は生存に必要な水準をどうにか満たしているかといったところだろう。これから摂取できるエネルギーは、日増しに減っていくだろう。想像力の発生に回せるエネルギーはほぼ枯渇し、余った時間をただの自己嫌悪に費やす。気分のリフレッシュも、水道を満足に使えないのではシャワーも厳しい。光も影も見えない、ほぼ真っ黒の天井をぼーっとみて一日の終わりをゆっくりと実感するほかないのだ。
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