夜
自転車の行方なんて知らない。作業は十時間で、昨日の八割ほどしか進めなかった。この事実が、彼にまたネガティブな思考を与えていく。タバコを消してしまい、痺れた足をさっさと上げて、この川から離れていく。まぶたを一瞬閉じれば、なぜか数百メートル進んでいるように感じられるほどに彼の集中力は低下して、ふらふらとした足取りでしか歩けなくなっていた。目的地は昨日中華丼を買ったスーパー。そろそろ夜の見切り時間帯となっていく時間帯である。彼の残金はなんとか五桁を維持するかというところ。夕飯と明日の食事を、五百円くらいには収めたい。
スーパーの中はいつ見ても心が躍るほど、様々な商品が陳列されている。店内焼きのパン、輝かしいフルーツのケーキ、国産ブランド牛まで。彼には縁のないほどに豪華なものに溢れており、内心欲しいとも思う。彼にも選択できる権利があればそうしたのだろう。決められた動線をただ行けば、消費期限の短い商品に、割引ステッカーが貼られている。大当たりは半額。どんな商品かを見ずに、値段だけを見て選ぶ。何らかのパンと何かしらの丼をさっさと手にとってしまい、会計に向かう。値段は四〇〇円をわずかに超えるほどだった。
また不安定な足取りで道を行けば、家に着く。薄い扉を音のら鳴らぬように開けて、暗く短い廊下を駆けると、真っ先にユニットバスへ向かった。____今日の作業の進みが悪いのは___ ジンクスを信じ、リフレッシュも兼ねたシャワーを浴びる。なけなしのシャンプーと石鹸を使い、洗顔までする。しっかりと洗うと、顔のできものも少しはマシになった気がした。ガス代を払うのも惜しいので、シャワーヘッドからは冷水しか出ない。それでも久し振りのシャワーは心地よいのでずっと浴びていたいのだが、水道もあまり使えないためにさっさと切り上げてしまう。タオルで髪を拭いているときが一番名残惜しいのだ。
せっかくきれいになった体を、真っ先に染めていくのはタバコのタール。パンツだけの姿なので、上半身が煙で塗られていく。タールは10を上回るので、喉を直撃する刺激がそこにあり、呼吸を妨害してくるのだ。
一瞬歪んだ景色の中に、彼は黒色を見つけた。空間の光をすべて飲み込んでしまうその物質は、なぜか輝いて見えた。まだ焦点の定まらないうちに、その物体は視線の右上、机の上の食料の入ったレジ袋に移動してしまった。なんと不思議な光景だろう。その正体が見慣れたゴキブリであることを除けば。彼が住み始めて三か月もすれば、虫どもは定住していた。慣れているというのもおかしいが、今更どうってこともないような存在で、汚いとか気持ち悪いとは考えていない。しかしながら、貴重な食料をウインナー一本でも奪うところは頂けない。身近な武器、空きペットボトルによって対象を抹殺する。
__逃げる、逃げる。飛び回ってうっとおしい程に視界に残る。時折、気色悪い足の動きをともなうブレイクダンスまで披露してくれる。そこを狙っても、奴は倒れることはない。しつこくしつこく、生存しようとしている。埒が明かないので最終手段、無視を実行する。そいつを行うためには、目に入らぬ場所に移動させればいい。彼は奴の横を思いっきり叩いた。ほつれた畳がまたへこみ、残響は部屋中に届く。ゴキブリはパニック作用で墜落前の足掻きのごと飛び、何周か回ったのちに視界から消えた。
ようやく落ち着ける日常が戻ってきた。袋の中を念入りに確認しても、シラミの一匹すらいなさそうである。袋を少し語らせて、割引シールだらけの菓子パンを取り出した。チョコレートでコーティングされているもので、エクレアのような見た目だが、パンがボソボソとしており、食感は良いとは言えない。さっそく噛り付こうと袋を開けるその前に、小さな穴が空いているのを見つけた。なるほど。ここから出る匂いを鍵つけて害虫はやってきたのだろう。そう思っただけで、中にほかの虫がいるだとかは一切考えないままに、そのパンを頬張った。
彼は寝る前の時間も大切にする。夜は鈴虫くらいしか鳴かないので、昼間の雑音まみれの環境のときの曲を、手直しするのに最適なのだ。この時間の修正は、いつも三時間は下らない。微妙な音の修正に非常に多くの手順・確認を要するのだ。今日できたところは短いとはいえ、昼間から修正しようと考えていた部分は何個もあった。どこをどうしようかというレイアウト設計は、歩いたり店を回ったりするときにいつも考えている。作曲における彼の情熱は尋常でなく、夜の夢からの創造を含んでしまえば、二十四時間休みなく、休みなく作曲をしていることになる。
この時にもタバコは欠かせない。それがどう影響するかどうかは考えてもいないし、効果があるのかも知らないが、ずっと長い間共にしたものを簡単には手放せないのだ。タバコの灰が先端からフィルターまで、白く延びていくのに比例して、曲の完成度は上昇していく。使われていなかった楽器をインベントリから引っ張り出し、最後の色付けに入る。彼は一曲の完成後に再調整するのが嫌いなため、部分で細かく訂正を行う。翌日に修正することはありえない。トラックから次のトラックまで、停滞を見せつつも部分の完成がどんどんとされていく。昼間の輪郭が一気に肉づいて、イメージに過ぎないものが音楽に完全変換される。布団に包まって三時間。一切の眠気を感じることなく、作業は終わった。
パソコンのソフトを落として、データ保存のガリガリという音を聞きつつ眠りにつく。彼の不思議な習性の一つだが、作業時には眠気を感じなかったのに、いざ寝るとなれば熟睡できてしまうのだ。それは十分もかからない。彼の腹時計か、疲労の極限か、栄養不足か、才能か。翌朝まで一切目を開けずに、死んだように眠る。この一連の生活は、ここ半年の間変わっていない。曲に取り込む以外の新たな刺激は不要なのだ。
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