生活
仕事を終えた彼の向かう先、彼の住処は築六十年をゆうに超える、風呂便所なしのアパートである。一畳ほどの空間しかなく、トラッキング事故を起こしそうなコンセントは二口しかない。そのうち一つはすでにミニ冷蔵庫に占拠されており、残り一つをパソコンの充電器、ブラウン管テレビで取り合う状況だ。
稼ぎは非常に少ない。半年前にパートの仕事を辞めたからだ。今やっている音楽活動は報酬などは微々たるもので、むしろ機器の月賦、場所占有の罰金などで毎月赤字となっている。安いもの、安い食べ物、安いタバコを貪るために前の仕事を辞めたのではない。絶対に成功できるという自身の才能を過信したのかもしれないと、缶の底にある安い酒に溶かして息を吐く。俺はバカすぎたのだ。
動画投稿サイトで作曲した「Brave」を投稿する。もちろん、一部分だけを切り取って流し、残りの分は購入サイトに置いておくのだ。ひどく才能のない人間でも思いつく商法で、実際売上は芳しくない。学校で習ったことで覚えてるのは税金とか…? ずる賢くはありたいのだ。
ガリガリと鳴るパソコンを抱き枕に、投稿が終わるのをただ待っている。電気は全て消して、呼吸と連動するタバコの火を常夜灯として頼るのだ。そのむき出しの枕に灰が落ち、黒い轍がまた燃え上がろうとしていた。
翌朝、ろくに洗えていない服と身体のせいなのか、すっきりしない寝起きだった。雨は止んでいるが、まだ厚い雲に覆われたこの街は、濡れた路面のせいで車の音すらも弱くなっている。音の響かない世界で、彼はパソコンに向かって黙々と作業する。ヘッドホンすらないので、確認作業は小さなスピーカーから出る音で行う。低音質なのだが、意外と調整は上手くいっている。ふかしたタバコの昇る煙がリズムに乗っている。
ある程度作曲が進んだので、朝昼の食事を合わせたブランチなるものを摂る。冷蔵庫もない彼の家にある食料は、昨晩で期限切れの中華丼だ。絶対に昨日までに食べるべきものだが、腹を壊した例がない。冷えた餡はもはやジェルのようだが、スプーンに乗せて食べてしまえばそこまで酷い味ではない。過去に一週間ほど期限の切れたパンを食べただけあって、耐性がついているのだろう。そこに米を八割ほど残して、食事を終えた。
みすぼらしい黄ばみシャツを隠すために、高校時代のウインドブレーカーを羽織り、すっかり薄くなったスニーカーを履く。世間ではダサい衣装に入るだろうが、これくらいじゃないと人様にお見せできないのだ。
電池の弱いパソコンを持ち出して向かった先は、鉄路の下の川。雨のせいで水量は倍増している。桃太郎で見た如く、自転車が川の流れに乗っていて、ぐにゃりと曲がったフレー厶のせいで持ち主の生死が心配になってくる。
今日の職場はここ。濁流に発想を得ながら「Brave」の制作を進める。弱々しい音しか出せないスピーカーだけを頼りに、思いついたものをそのまま描いていく。何分経っても変わらない川の流れとは対照的に、数十秒の思考の中で変更と創造が繰り返されていく。
彼が作るパートは、おそらく巨大な敵に挑むようなシーンだろう。自転車は海へと水流によって拉致されていく様は、彼にはジリジリと後ずさりをする兵士に見えるだろうし、全てをかき消すほどの轟音は、絶対的な敵の力に見えるのだろう。脳内で自転車に同情するストーリーが編まれていき、悲惨な最期を想うと涙が出そうにもなる。ふと、その自転車が彼自身に見えてきたのだ。音楽をやりたいという熱望と、襲いくる現実という大きな逆流との闘いが、ワンサイドゲームで進行している………ネガティブな思考は創造力の低下に繋がっている。実際、彼の作業はこの六分で停滞し、パソコンのバッテリー残量がジリジリと減っていた。目の前の自転車も、もう右目の端に映るかどうか、というところまで流されていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます