第2話

 橙色の空を切り裂く烏の羽が、ところどころ青く煌めきながら遠ざかるのを見送って__お騒がせな姉妹は、とにかく地上に降りることにした。

「あの、降りるから。大人しくしていて頂戴ね」

「……ふん、さっさとして」

 授業のために箒を持ち歩いていてよかった。

 顔では苦く笑いながら、オリハはそんなことを思った。いま彼女が操縦している箒は芯材から枝まで一人で選び、一日かけて組み上げた特別製である。

 中等部に上がってはじめての授業で作った相棒ならぬ愛箒は、主人の命令に忠実に従い、ゆっくりと下降した。

「お説教の間、暇を潰せるように詩集を貸してあげましょうか?」

「バカ言わないで!ババアの説教なんて同室のハリエットのヴァイオリンに比べりゃ賛美歌と同じよ」

 物心ついた時から反抗期真っ只中のルビィと同じ、大した反省もしていないオリハは、うって変わってカラリとした表情でそんな冗談を言ってみる。

 ルビィはにこりともしなかったが、不満たらたらの仏頂面を長らく見てきたオリハの目には、いつも通りの可愛い妹に映った。



「あなたの突拍子もない思いつきはいつになったらマシになるのでしょうね。聞いているのですか? ルビィ・アムブロシア」

「……」

 息つく間もなく呼び出されて赴いた学長室。飴色の木材と石で造られた古めかしい部屋で、立派な机に頬杖をつき、学長サファリヤは怒りを押し殺した嗄れ声でそう言った。

 静かに責め立てられるルビィは俯いて黙り込んだきり、うんともすんとも言わない。完全に臍を曲げているのだ。

 すっかり優等生の顔のオリハは手脂が馴染んですべすべする箒の柄を手持ち無沙汰に撫でていたが、やがて二人をとりなそうと間に割り入った。

「学長先生、その辺りで……結果的に命は助かったのですし」

 学長室に満ちるひりついた空気が一段階摩擦を上げ、サファリヤの青い瞳が問題児の実姉に矛先を変える。ウッと金髪が息を詰めた。

「元はといえば、あなたがそうして甘やかすからですよ。上級生を取りまとめるあなたが、下級生一人の手綱も取れずにどうしますか」

 緞帳を下ろすようなため息がオリハの肩を震わせる。上級生であることを示すローブの裾が遅れてひらりと小さく揺れた。

「お答えなさいルビィ。どうしてあんなことを仕出かしたのか。箒の扱いは中等部からですよ」

「私たち上級生が飛行訓練をしているところを見て空を飛びたくなったのかも、」

 しどろもどろになって適当な思いつきを口にするオリハに、傍らのルビィはとうとう顔を上げた。魔女を魔女足らしめる魔力の赤。火に焚べた宝石のように輝くピジョンブラッドルビーが、憤怒の熱を受けて一層鮮やかに輝いた。

「違うわ!」

 キッと瞠目し、彼女は激情が突き上げるままに叫んだ。ギョッとするオリハを置き去りに、小さな魔女の卵は、空気を伝って窓ガラスを震わせるほど激しい怒りをあらわにした。

「違うわ! 違うわ! 違うわ! そんな幼稚な理由なんかじゃないもの!」

 ルビィの拙い怒りに呼応して、彼女の中に満ちる魔力が確かな振動となって空間に干渉し始める。

「風の王の試練を受けて、私がグリフォンと契約するの! 強大な幻想生物と契約して誰よりも早くお母様のような偉大な魔女になるんだもの!」

 オリハが口を挟む暇もないほど、それは痛いくらいの真摯な思いだった。幼い心がこれほどまでに燃えるのか。いい子に生きてきたオリハには、どうしたって持ちうるはずのない感情である。

 しかし、真正面からそれを受けるサファリヤは小揺るぎもしない。定命を外れ永遠ほどの時を生きる魔女__古式ゆかしい魔法使いとしての矜持の前に、ルビィの振る舞いはただ幼い子供の癇癪でしかないのだ。

「だから問題を起こしても良いと? いつの世も才媛ほど前触れなく現れるものですが、あなたのそれはただの奇行、いえ蛮行です」

「っ、お母様は……!」

「シンシャのことは忘れなさい。五百年も前に姿を消した、我が血族の面汚しです。もう生きてもいないでしょう」

 不意に、調度品がガタガタと激しく揺れだした。立派な万年筆が机から転げ落ちる。サファリヤの背後、大きな窓にひび割れが走る。

「ルビィ、」

 ハッと目を瞠るオリハが妹を振り向いて。

「__嘘よ!」

 次の瞬間。パシンとけたたましい音を立て、全ての窓が破裂した。シャボン玉が膨らみすぎて割れるような、尋常ではない壊れ方だった。

 バラバラと降り注ぐ硝子の破片がサファリヤに降り注ぐ。斜陽を受けて鋭利に光る尖った雨は、学長がきつく結い上げた乱れ一つ無い髪を解き、老いによって変色した銀髪を一筋二筋切り取って床に落ちる。茶色い革の髪留めが、両端を歪に切り裂かれてずたずたになっていた。

「学長……!」

 慌てふためくオリハを置き去りに、ルビィはさっさと部屋を出ていってしまった。魔法を使った後に出る白い塵がその足跡を浮き彫りにしていたが、サファリヤは追えとも連れ戻せとも言わない。薄く開いた扉の向こう、きらきらと光りながら伸びていた真珠色の道標は、吹き込む風に乱されてすぐに掻き消えてしまう。

「……ここまでの跳ね返りは、あの子以来だわね」

 ぽつ、と落とされた呟きに、オリハは我に返って己の祖母を見た。自分と同じ色をした瞳はわずかに褪せて、憔悴が手に取るようにわかるほどだった。黄昏の城を統べるこの堅牢な老婆がこのように弱るのを、少女は生まれて初めて見た。物心ついた時から常に凛として立ち、涙も微笑みも片手の指で足りる数しか見たことがない。

「おばあさま、ルビィはまだ幼いだけです」

 心底から嫌になってしまったわけではないと分かって欲しかった。孫娘の下手な慰めに、サファリヤはゆるく首を振り、しかし後悔するように深い溜め息をこぼす。

「あの子は……ええ、そっくりね。五百年、私の下から飛び出していったどこかの馬鹿に。こうと決めたら梃子でも動かない。向こう見ずで、怖いもの無しで……」

「それは」

 お母様のことでしょうか__わざわざ声に出して問いかけるような愚かはしなかった。賢いオリハにはその言葉と眼差しだけで分かってしまったから。

 淹れた紅茶が冷めてしまうほどの間沈黙していたサファリヤは、やがて顔を上げると、知性の色を宿した目でオリハを見た。

「ルビィを、今まで以上にしっかり見ていなさい。あの向上心はもはや野心と呼んで然るべきものです。愚かなことを起こす前に止めさせなければ」

 青い瞳の中心には星に似た六条の光の筋がくっきりと浮かんでいる。オリハは黙って頷くことで返事とした。視線は時に口より余程雄弁だ。今のこの場に言葉ほど無粋なものもないのだった。



 時計の針を、わずかに巻き戻す。 

「どいつもこいつも、誤魔化しばかり……!」

 学長室を出、人気のない廊下を駆け抜けるルビィが塔の中央にある巨大な階段へ到達した。スカートや靴下に真珠色の塵が纏わりついていたが、風を切るように進めばそれも剥がれて後ろへ流れていく。

「あたしは、っなにも、間違ってない……!」

 硝子の塔を爪先から頭まで串刺しにするこの螺旋階段は、各階への踊り場を無視すれば一直線に下まで降りていける。飛び込むように金の踏板へ着地し、二段飛ばしで足を縺れさせながら下へ、下へ。

 燃える肺を酷使しながら、ルビィの胸中に渦巻くのはまた別の炎だった。忘れなさい__硝子の塔を統べる学長であり実祖母であるサファリヤの声が、こんなにも憎らしく響くとは。少女は生まれて初めて憎悪を知った。

「忘れられない、忘れられる訳ない! だって、あたしはこんなにも……!」

 こんなにも、あの人のことを思っているのに!

 喉を裂く激情が大きな独り言を叫ばせていたが、閑散とした廊下に、聴衆はベンチと観葉植物しかいない。誰に八つ当たりすることのない幸運を追い風に、少女は周囲への配慮を捨ててひたすらに自室へと走った。

「っ……ハッ、た、だいま。ハリエット?」

 念の為、乱れた息を整えながらのノックに中からの応答はなく。汗ばんだ体でぶつかるように押し開けた扉の向こうには、がらんとした二人部屋だけがあった。相部屋の、音痴のくせに音楽好きなハリエットは、今ごろ夕食前に大浴場へと行っているのだろう。誰とも会う気分ではなく、ルビィは深夜に身を清めることを決めた。

 両端の壁を埋めるベッドの向こう、窓の傍には背中合わせの机が二つ。片方は綺麗に整頓されているが、もう片方は本棚をひっくり返したように、書物の山が机を埋め尽くさんと積み上がっていた。

「疲れた……」

 とぼとぼと本の山の方へ向かったルビィは乱暴に椅子へ腰をおろし、目の前の一山をザッとスライドさせる。現れた机の天板に頭を落とし、ようやく深い息をついた。

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破国のシンシャ 零光 @Zerolite

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