破国のシンシャ

零光

第1話

 遮るもののない斜陽が透き通る草を金色に染め、その上に建物や木々の影を焼き付けていった。

 夕映えの中にあって尚存在感を主張するのは、あらゆる光を照り返し、また透過する硝子の塔。そのほそって尖るてっぺんに、小さな小さな少女が立つ。背筋を張って、力強い双眸で、彼女は終わらないオレンジ色を睨んだ。きらりきらりと緑に光る風の中、黒く滲む鳥の影が足元を飛んでいく。

 地上ははるかに遠く、夕日を受けて光る芝生は黄金色の海にも見える。

「……高い」

 小さな体を空中に連れ去ろうと吹く強い風。その中にまたきらりと光る緑の閃きを見、少女ルビィは己の才覚を再認識した。

 ここは朝と夜の狭間に敷かれた、魔女による魔女のための聖域__夕べの国。明けることも更けることもないこの世界の空には、日は昇らないし星は降らない。

 人の世から匿われ、また妖精たちが暮らす夜の国からも隠されたここで、ルビィは一番新しい魔女の卵だ。

「高さも、風の強さも申し分ない。きっと……いいえ、絶対に上手くいくわ」

 光に褪せる桃髪の本来の色は、異形を思わせる赤。キッと見開いた瞳はどんな果実より濃くて深いピジョンブラッドルビーの煌めき。

 魔女を魔女たらしめる力の源。血液と同じ場所を流れる冷たい魔力は、血より赤く透明度が高い。同じ年頃の少女の誰より、その身体に多くの魔力を溜め込んでいるルビィは、今回の挑戦を何も無謀なことと思わなかった。

 足元で通り過ぎようとした鳥の群れがなにやら喧嘩をしている。くるくると混じり合う軌跡、鋭い爪に蹴立てられ舞い散る羽が、風に乗ってルビィの顔の横をするりと通り抜けていく。

 それは小さく、ふと目を離せばもう見つけることはできない。

 取るに足らない、と少女はすぐに追うのを止めた。この挑戦の先に待つ栄光と、手に入れる筈の鷲獅子の羽は、地上から見上げていたって見逃しようもない巨大なものであるのだから。

 硝子の塔の中腹、建物の三割を占める書庫の中に、夜の国に生息する幻想生物についてしたためた図鑑がある。その中の風の章、一番最初の頁に載っている空を自由に駆け巡る風の王こそ、ルビィが手に入れたいものだ。

 才あるものが風に勇気を示す時、その異形はどこに居ても世界の果てから駆けつける。

 勇気を示す__それ以外の召喚方法はどの書架のどんな書物を漁ってもでてこなかった。完璧に閉じられたこの国で、伝説扱いの化け物であるのだから当然だ。勇者は伝説を恐れない。また伝説も、人側の準備を待ってくれないのだ。

「__怯むな」

 震える身体を叱咤する。丈の短い制服のブレザーが、盛り上がった肩に押されて歪に皺を寄せた。

「怯むな、今更! こんなことで! お母さんと同じ偉大な魔女になるんでしょう! あの人はこんなことじゃ死なない!」

 丸っこい靴のつま先が揺れるのを制止する。鳥かごを模した硝子の塔のてっぺんは緩やかに傾斜していたから、ルビィは今にでも真っ逆さまに落っこちてしまいそうだった。

「……勇気を、示す」

 飛行魔法の限界高度ぎりぎりを攻めても追いつかないこの高所から、身一つで飛び降りることは勇気足り得るだろうか。

「あたしは、手にする」

 物語の一頁でしかない風の王は、果たしてルビィに振り向くだろうか。呼吸が乱れる。

「お母さんのような、魔女に……!」

 そうしてルビィは鳥かごの屋根を蹴る。真っ赤な髪が、硬いブレザーの背が、細身の黒いスカートがバタバタと風を受けて荒ぶった。ふくらはぎまでを覆うソックスでは、小さな膝頭を上空の風の冷たさから守れない。

「さあ、__“こたえて”!」

 落ちていくルビィはありったけの魔力を込めて世界に命じた。コン、とひとつ光の輪が白からピンクへ色を変えながら橙の空に広がっていく。さながら穏やかな水面に投じられた一石のよう。風はきらきらと虹色に遊んだが、空の変化はそれきりだった。

 なすすべもなく、まだ箒に触れたこともない小さな少女は硝子の塔のすぐそばを落ちていく。



 胸に抱くのは母の言葉一つ。いつだってそれがルビィの原動力だった。もう声しか覚えていない母。彼女の手の温かさを、抱きしめられた時の気持ちを、ルビィも覚えていたかった。

 史上最も優秀で、恐ろしく、美しかったとされる魔女。夕べの国の歴史に深く刻まれたその名前を、シンシャ・アムブロシアという。

 まだ世界を分ける境界線が曖昧で、どこの国にも妖精たちが溢れていた頃。数字にしておよそ五百年も前のこと。両腕に一度だけ姉とルビィとを抱いた母は、何かのために夕べの国を捨て姿を消した。自分の代わりに、二人の姉妹を置き去りにして。



「見て! あれ、初等部の子じゃない?」

「やだ、危ないわ」

「飛ぶ気? 箒もなしに!」

 午後の運動を終え、硝子の塔から四方に伸びる回廊を歩いていたオリハは、不意に届いたどよめきに金の髪をサッと揺らして声の出どころを突き止めた。数人、回廊の窓から身を乗り出した下級生の少女たちがなにやら外を指差している。

「……どいて、ごめんね。ごめんなさい通して。あの、あなたたち何を騒いでいるの」

 上級生の証であるローブを揺らし、上品な足取りで寄ってくるオリハ__上級寮の監督生に、少女の一人は戸惑いながら窓の外を指して言った。

「多分一番下の子の誰かだと思うんですが……」

「あ、あたし先生呼んできます!」

 誘われるまま窓から外を覗いたオリハは、傾けた身体をガバッと戻すや、急いで壁に立てかけてあった箒を蹴って倒した。

「窓から離れて!」

 言うが早いか、急浮上する箒に飛び乗り、姿勢を低くして細い隙間を通り抜ける。飛行魔法の訓練では危険だからと禁止されていた急な起動、屋内での箒の使用。それらをぶっちぎって、彼女が御せる最高速度で塔の上の少女を目指す。

 誰がどんなことをしでかしているのか、その青い目を瞠らずともすぐに分かった。遠く離れていてもあの鮮やかな赤髪は見紛うことなき彼女の妹だ。

「ルビィー!」

 肺が引き絞られるほど叫んで、オリハは彼女が思いとどまるのを祈った。

「ああ、もう……馬鹿な子!」

 が、しかし。願いむなしく、ルビィは塔から飛び降りた。意識を失っているのか、それとも無事でいる気がないのか、風を受けだらりと伸ばされた四肢は身を守るために縮こまろうともしない。

 長い髪の毛が風に絡まり、頭皮を剥ぎ取らんばかりに後ろへ引く。目を開けられるぎりぎりのところで速度を保っているから、乾いた粘膜に生理的な涙が沁みてチリチリと痛んだ。口の中が乾く。鼻の穴に氷を突っ込まれたような心地さえする。手は驚くほど冷たいのに、滲む汗が箒の操作を困難にした。

「ギャッ」

「ぐ、ぅ……っ!」

 すんでのところでオリハの伸ばした手がルビィのブレザーの背を捕まえる。小さな体にかかる負荷を緩める余裕すらなかった。ガクン! と体全体を揺さぶられた妹が、肺を圧迫されたせいでよわよわと咳き込む音も聞こえない。

「ルビィあなた、なんてことするの……!」

 ガンガンと、頭の中で血液の巡る音だけが鳴り響いていた。震える手で妹の身体を前に乗せる。死ぬような目にあってさえ、妹は初めて乗る箒の上で正しくバランスをとってみせた。腹立たしいくらいの才能だ。オリハの頭がクラクラした。

「邪魔しないで! 風の試練を受けて鷲獅子グリフォンと契約する筈だったのに!」

 振り向いてからの第一声。命の恩人であるはずのオリハに向けられたのはそんな声だ。魔女を魔女たらしめる赤い瞳、母にそっくりな色合いが強くオリハを睨んでいる。

「……っ、馬鹿! 箒の扱いは最低でも中等部からよ。使い魔なんてまだ早いわ!」

 オリハが、この温厚で賢い女生徒が声を荒げるのはごくごく稀なことだ。上級生の彼女から見ても__実妹に対する贔屓はあれど__ルビィは非凡な才に溢れ優秀な下級生である。けれど、それでも。

「命を捨てるような、あなたのそれは勇気ではなく無謀と言うの! わかったら前を向きなさい!」

 それでも、歴史に名を刻むような魔女に比べれば、やはり少女は子供の域を出ない。

 上空で言い合いをする姉妹に、教師の使い魔である大きな烏が近づいた。誰の遣わしたものか、怒鳴り合いをやめ振り向くオリハの目に、深い青のブローチが映る。未だ見たことのない夜の色、深海の闇をひとすくい攫ってきたようなその宝石は、夕べの国で最も高位の魔女が身につけるに値する。

「学園中に声が届いていますよ、はしたない」

「学長先生……」

 烏の喉から吐き出された厳格そうな老女の声に、オリハは青褪め、ルビィは不貞腐れてそっぽを向いた。沈黙が降り、風と烏の羽音だけが響く。

「二人とも、今すぐ学長室においでなさい。ただの説教では済みませんよ」

 ギロリとつぶらな瞳を光らせて、大烏は素早く翼を畳み、滑空して明後日の方向に飛んでいった。


 

 

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