あなたと私のくじ引き婚

@asohtask

第1話

「ただいま」

 家に帰ると、だいたいともさんがソファの前でパソコンを睨んでいる。

「お帰り。お風呂先に行って。ご飯あっためる」

「おう」

 午後八時半。このあたりの夕食にしては遅い時間だ。別にこの時間に帰ってくる仕事をしているわけではなく、残業で遅くなっただけ。定時は五時過ぎで、六時過ぎからは残業タイム。それを二時間もやってきた俺は、褒められてしかるべきだと毎回思うが、未だかつて一度も褒められたことがない。

 俺はしがない測量士補だ。高校を卒業後、地元の土木会社に就職して十年以上、ひたすら機械をかついで山から海から駆けずり回ってきた。高校は名前を書けば入れるような偏差値底辺に近いところだったから——田舎の高校なんてだいたいそんなもんだろう——、測量士補の試験をパスするだけでも精一杯だったし、測量士なんていつ受かるんだレベル。

 そんな俺を横からあっさり抜き去っていったのが、今、夕飯を用意している朝さんだ。

 朝さんは全くの畑違いから入ってきた中途社員で、地元に戻ってこいと言われたから東京から帰ってきた人だ。本人の希望もあって測量部に入って、本人の希望で女性では珍しい現場作業員——つまり俺たちと同じ仕事——をやっていた。今は設計部にいて、現場に出る機会は減った。

せっかく取った測量士がもったいないから、絶賛測量部に戻す交渉中だ。でも、測量士なんていう合格率十パーセント前後の試験に一発合格するような天才を設計が安易に手放すわけがない。交渉は長期戦にもつれ込んでいる。

 ところで「なぜ件の朝さんがうちにいるか」だが、何を隠そう、去年の年始に結婚したからだ。なぜ結婚したか——というより、なぜ結婚できたかって? それは俺たちが通称「くじ引き婚」と言われる少子化対策に巻き込まれたからだ。

 くじ引き婚ていうのは、各市町村に籍がある25歳から35歳の未婚の男女を対象に、くじ引きでカップルを成立させ、一年以内に結婚させるシステムのことだ。くじ引き婚のカップルに選ばれると郵便で通知が来る。相手を知っているかは二の次、指定の時間に市庁舎に来るよう指示され、結婚相手と対面することになる。

 もちろん、逃げようはある。カップルが発表されるのは毎年七月一日であり、翌年の年末まで準備期間がある。その約一年半の間に自分が好きな相手と結婚してしまえば良いのだ。それでくじ引き婚はご破算になる。

 もしも準備期間を終えるまでに別な婚姻が成立しなければ、くじ引き婚の相手と元旦に結婚が成立する。

 くじ引き婚の良いところといえば、本来金が掛かる妊娠出産、子供の教育費——学校教育だけだが——、医療費は全て無料になることだ。くじ引き婚でなくても中学卒業までの教育費と医療費は無料だし、三人目からはくじ引き婚と同様の待遇を受けられる。でも一人目からそういう待遇を受けられる上に、保育園の優先入園や市町村によっては制服代も無料になるなど、子供が欲しいなら破格の待遇だと言って良い。

 まぁ、子供が欲しいなら、だけど。

 当たり前だけど、よく知らない相手と結婚なんてしたくない。子供なんてもってのほか、てカップルがたくさん出た。だからくじ引き混んで致し方なく結婚したカップルは、世間の同情もあって、浮気しても咎められることはあまりない。むしろ良い相手を見つけて離婚、一年以内に再婚すれば周囲から心から祝福される。

 流石の俺も相手が朝さんだと知ったときは絶対に無理って思った。ほら、偏差値って、十違うと全然話し合わないっていうよね。たぶん俺たちはそれ以上違う。だから理論上、一緒にいたいなんて思わないわけ。実際に仕事の話はけっこうするけど、趣味はほぼ被らないから長く話したこともない。

 悪あがきで婚活したけど、結婚を急いでるときって上手くいかないもんだよね。朝さんは特定の相手はいないみたいだったけど、結婚を回避しようと躍起になることもなく、「諦めたら?」とよく言われた。

 最終的にタイムリミットが来て、婚姻届を出すこともなく結婚が成立。双方の親は、同居の準備やら結婚式の準備やらをいそいそと始めたけれど、そこは朝さんが待ったをかけた。同居はするが結婚式はしないときっぱり言い放ち、ウェディングドレスでの写真も拒否した。これに関しては主に俺の親から泣きつかれたから、やむなく撮ったけれども。

 そんなわけで結婚式も新婚旅行も行ってません。そのうえ朝さんは、同居が始まったその日に「結婚したい人ができたら離婚するから、いつでも言って」なんて言い出す始末。いや、まぁ、有り難いですけど。あなたが他の男と結婚する努力をしてくれたら俺はフリーでいられたんですよ! でも、ありがとう!

 そんな感じで恋人期間ゼロの影響か、特に興味もないからか、男女二人で住んでいるのにこれといって進展はなし。本当にただの同居。国が求めたものはこういうものじゃないはずだけど、結婚したらその気になるなんて浅はかだぜ。現実に浮気が横行してるしな。

 俺が風呂を済ませてリビングに戻ると、朝さんはまだパソコンを睨んでいた。でもテーブルにはちゃんと夕飯が並んでいた。

「鯖の味噌煮だ」

「冷凍のだけど。そろそろ食べないと凍みちゃうから」

とはいえ、レンコンのきんぴらとほうれん草のおひたしは朝さんが作ったものだろう。

「あるだけありがたいです」

「さよか」

 朝さんは立ち上がってキッチンに入っていった。カチッと火をつける音がしたから、味噌汁に火を入れたんだろう。俺もキッチンに入ってご飯茶碗を出した。

「あ、ねぇ、明日、混ぜご飯で良い? 五目ご飯食べたい」

「別に良いよ。おかず少なくて済むし」

「じゃ、五目ご飯」

 朝さんが何かを食べたいというのは珍しい。普段は作りたいだけ作ったら、気分が乗るまで食べない。ついでに食べたい物を作るとは限らないから「食べたかったんじゃないの?」と聞くと「そういうわけじゃない」が返ってくる率も高い。作る物が不味かったためしがないから、俺としては何を作ってくれても構わないんだけど。

「朝さん、飯」

「私はいい」

「いや、食えよ」

 今日は気が乗らないのか、俺の分の味噌汁をお椀に分けるとキッチンを出て行ってしまった。俺は朝さんの分までご飯をよそってテーブルに置いた。

「深夜に腹減ったって言うじゃん」

食えと若干声低めに言えば、朝さんは嫌そうな顔でテーブルに着いた。

「作業したい気持ちは分かるけど、遅くまで起きてんでしょ? 飯食う時間をケチんなよ」

 渋々といった体で「いただきます」と手を合わせたのを見て、俺も手を合わせた。

 朝さんが食事を面倒くさがる理由はやりたいことがあるからだ。飯よりも遊ぶよりも作業。それは仕事に限らず、趣味で書いてる小説とかイラスト制作とか、たぶん資格の勉強とかも入ってる。とにかく何かやり出すと止められない質。その集中をぶった切ってまで飯を食うっていう発想がこの人にはない。

「さっき何やってたん?」

 無言で飯を食うのは耐えられないから、仕方なく口を開いた。

「キャラの誕生日が近いから絵描いてた」

あ、そういう……。

「絵なんて描かないつもりだったのに、フォロワーさんに乗せられてしまった……」

 朝さんが同人活動をやっているタイプの人だってことは把握しているが、SNSのフォロワーがそれなりにいるらしいことは最近知った。所謂BLなんて俺は興味もへったくれもないから——朝さんが書いているものがBLかどうかは知らない——、朝さんからそっち系の話が出る度に話を広げるべきか迷ってしまう。そのあたりは朝さんも気付いていて、積極的に広げようとしてこないことにホッとしている。

「あ、誕生日といえば」

「ん?」

「明日、コンちゃんの誕プレ買いに出掛けるから一日いない」

 「コンちゃん」は営業事務の女性社員で、朝さんとも年が近くて仲が良い。朝さんはタカさんに感化されたのか、誕生日を知っているとプレゼントを贈ることが多いようで、去年は悠人が朝さんから誕プレ貰ったって騒いでいた。子供が生まれた年でもあったから、出産祝いもまとめて貰ったって言ってたな。

 と、ここで、俺は何も貰ったことがないってことに気がついた。それに俺も朝さんの誕生日を知らない。

「朝さん」

「なに?」

「誕生日って本人に聞いてんの?」

「は?」

 朝さんはご飯を口に入れようとした体勢で動きを止め「何言ってんだこいつ」と言わんばかりの顔をした。

「まぁ、誕生日の話題になったら、聞くこともあるけど」

メッセに設定してる人は出てくるじゃん? と首を傾げた。俺はメッセージアプリにそういう機能があることを知らなかった。

「ホーム画面の友だちリストに出てくるよ」

「ほんまや……」

 スマフォを取りだして確認した俺は、普段ホーム画面なんぞ見ないと画面を睨んだ。

「普段はホームなんて見ないけど、たまたまタップしちゃったとかで開いたときに、誕生日近い人が出て知るってのが多いかな。誕生日登録してない人のはそもそも出ないから、自分で登録してない人のは出てこないんだけどね」

「便利な世の中だな」

「そうね」

 俺はメッセに誕生日を登録していないし、聞かれたこともない。だからたぶん、この人は俺の誕生日は知らないんだろう。プレゼントとかお祝いの言葉が欲しいわけじゃないけど、夫婦でお互いの誕生日知らないって、ちょっと不味くないか? それこそ形だけの夫婦だから知らなくても問題ないのか? いや、でもさ、形だけっつっても……。

「時間あったら一緒に行かない?」

 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、朝さんはのんびりそんなことを言った。

「あぁ……明日は釣りに行こうかなと思ってた」

「そっか。じゃ、朝早いんだね」

 朝さんはどこか残念そうな雰囲気で頷いた。

「なんか重い物買う予定だった?」

「なんで?」

「荷物持ち必要なのかなと思って。でかい車の方が良いとか」

 朝さんはまたもや「何言ってんだこいつ」という顔で俺を見返した。

「そんな失礼なことせんわ」

「あ、そう?」

「それにそんなもん買ったって、コンちゃんが持って帰れなかったら意味ないじゃん」

 確かにそうである。買い物の目的は近藤さんの誕生日プレゼントを買うことだ。近藤さんは女の子って感じの体型だから、男と一緒に現場作業をする朝さんが持てなければ絶対運べないし持てないだろう。

「他になんかあった?」

 鯖を咀嚼しながら問えば、朝さんはとても言いにくそうに

啓臣ひろおみくんと出かけたことなかったなと思っただけ」

と言った。

「それは俺と出かけたいってこと?」

 よせば良いのに、つい言及してしまった。こういうとき、朝さんは目を逸らして否定することが多い。いつもならば誘いを取り消してくれる大チャンスだ。でも今回は誕生日のことでモヤモヤしていたから、ほんの少しだけ自分の予定を後回しにしても良いかなと思っていた。

 でも言い方が良くなかった。

「まぁ……そう、だけど……。ただの思いつきだから、明日じゃなくてもいいよ」

 「釣りに行けば?」というニュアンスの返答をされてしまった。それに加えて、俺自身の欲目かどうかはわからないが、なんだかがっかりしているように見えて、いよいよ前言撤回したくなった。

「まだ明日の天気見てないから、一緒に出掛けるってことで良いよ」

 天気は会社を出るときにチェックしてきた。天気は快晴でほぼ無風。絶好の釣り日和。こんな好条件、なかなか巡ってこない。

 初めて垣間見た俺への関心てのもあって——今まで日常生活で必要なこと以外聞かれたことがない——、釣りへ注ぐはずの熱量がすっかり移ってしまった。

 俺は朝さんを女性として意識したことはあまりない。背が高めで化粧っ気はないし、スカートをはいている場面も見たことがない。それにいっつも眠そうだ。どっかその辺にいる中性的な同性にも見える。

 俺と話すときはやる気なさそうな低音で、他の人と話すときは若干トーンが上がる。ぼーっとしているときに話しかけると一人称「俺」になってるときもある。そんな人に「女性」を求めるのは些か酷だと思わないか?

 これが前述の「特に興味もない」理由だったりするわけだけど、結婚している以上、親や親戚からは何かと求められるのも事実で、近い将来「興味」を持たなければならないんだろう。興味なんてなくても良いのかもしれませんけども。結果が伴えば。

 夕飯を食べながら明日の作戦会議をして、その日は解散になった。寝室は別々だから、夕飯が終わると俺は自室に引っ込み、朝さんはリビングに残る。なんかこれもなぁとは思っているところだけど現状、これがベストだから仕方がない。

 俺はベッドに上がって、ゲームの電源を入れた。


  +++


 私は時計を見てため息をついた。午前九時。昨日の話だと、家を出る時間だ。

 昨日は描きかけだったイラストのペン入れまで終わらせて、五目ご飯の炊飯予約までして寝た。いつもより一時間くらい早く寝たから一時間くらい早く起きてしまって、ご飯が炊けるまでの間、色塗り作業をしていた。

 土曜の朝は私も啓臣ひろおみくんもあまり早くない。それこそ予定がなければ午前中は寝ているくらいだ。出掛ける用事があれば一時間前には起きて支度をするのが通例だけど、啓臣くんは八時になっても起きてこなかった。一応、起こしにいってはみたけど、呼んでも揺すってもだめな感じで諦めた。

 仕方ないから朝ご飯は一人で食べた。啓臣くんの分はおにぎり。五目ご飯だからおかずが要らないのが良い。

 八時半にもう一度起こしにいった。でも結果は同じ。出る支度をしている間に起きてくるかな、と一縷の希望を持ってみたけど、結局、私は三度目の失敗をして彼の部屋の扉を閉めた。

 ソファに座って膝に頬杖をつき、パソコンの時計を睨む。作業したい気持ちはあるが、啓臣くんが起きてきたらキリが悪くてもやめなきゃいけない。

 正直それは勘弁だ。いや、色塗りの続きだからキリが良いとかないかな?

 ぐるぐる考えた末、「買い物は今日じゃなくてもよくない?」という結論に達した。せっかくメイクしたけど、たまに練習したと思えばいいや。啓臣くんが起きてきて、買い物行こうとなったらまた着替えれば良いし。自室に戻って部屋着に着替えた。

「おはよう……」

「おはよう」

 私はパソコンから目を逸らさずに挨拶を返した。もうすぐお昼。ほぼいつもの週末だ。声が掠れているから、起き抜けで顔を出したんだろう。全く慌てていないところを察するに「釣りに行かない」と決めたから、今日の予定をすっかり忘れているのでは。昨日はなんか楽しみにしてそうだったのに。がっかりです。

「出掛ける準備してさ、お昼、外に行こうよ。なんも作ってない」

「あー……そうね」

 これは絶対頭からすっ飛んでいる。私は大きく息を吐き出した。

 描き上がってしまったイラストを投稿して、せっかく作ったおにぎりを炊飯器に戻した。このまま置いておくと「起きるの待ってました」て気付かれる。忘れてるならいっそのことずっと忘れててくれ。

 化粧はしててもしてなくてもきっと分からないだろうから、オフするのも面倒でそのままにした。適当にオシャレすぎず、作業着過ぎない服にして、バッグも可愛すぎないのに詰め替えた。

 昔の歌に「今日の私はかわいいのよ」なんて歌詞があったけど、私には無縁だな。そんなことを思って気合いを入れてみても、最終的に用事がぽしゃって着替え直しちゃったりする。以前にも似たようなことあった。

 結婚したてで、お互いに「結婚したんだ」てまだ意識してるくらいの時期、せっかくだからちょっと高めのレストランにご飯食べに行こう、ってことになって、ちょっと良い服を出したりしたのに、後輩との予定とブッキングしてた。こっちの予定の方が後だったから、先約を優先してってことで、啓臣くんの代わりにコンちゃんと行ったんだっけな。コンちゃんがもの凄く怒ってて、宥めるの大変だったっけ。

 啓臣くんは「腹減った……」なんてぼやきながら頭を掻いている。ほんまに忘れとんな、こいつ。

 結婚してから諦めることばかりだ。なりゆきで成立した結婚だから、啓臣くんとしても私の相手は面倒くさいんだと思う。だったら早く彼女作って離婚してくれたら良いのに。くじ引き婚の対象年齢内で離婚すると再び候補者になってしまうけど、離婚して三年はインターバルを設けることになっているし、初婚が優先されるから、啓臣くんと離婚したとして私が再婚する率は低いしね。その方がお互いのためだと思う。

「準備できた?」

 ショルダーバッグを斜めがけしてリビングに戻った。啓臣くんは私の格好を見て何度か瞬きしたけれど、特に琴線に触れることはなかったらしく、「じゃ、行くか」って欠伸を噛み殺しながら玄関に向かった。

 車に乗り込んでからどこに行きたいか聞かれたから、近場のファストフード店を挙げた。

「マックでいいの? マック行く格好じゃなくね?」

 啓臣くんはキメすぎじゃない? と言いたいんだろうな。

「このあと予定あるし。着替えんのめんどくさいじゃん」

「あ、そういう。そんなら別に一緒に昼飯じゃなくてもよかったんじゃね?」

「あぁ……、そうだねぇ」

そういうところだ。そういうところ。

 一気にやる気を失った。私は信号で止まったところでドアを開けた。

「いやいや、帰るならUターンするよ」

「いいよ。うちに着いたらすぐ出るし、このままご飯行きなよ」

 青だよ、と視線を送ってドアを閉めた。啓臣くんはまだ何か言いたげだったけど、後続車もいるからアクセルを踏んだ。左折できないT字路だ。戻ってくるにしても少し時間かかるかな。

 大股で歩いてアパートに戻った。履いてきたのがミュールだったから、大股早歩きは辛かった。せめてバックバンドがついたサンダルにすれば良かった。

 車に乗り込んでエンジンをかけ、窓を全開にした。スマフォを見ると、啓臣くんからの着信が入っていた。

「もしもし」

「啓臣だけど」

「なんでしょ」

「今日、買い物行くって言ってたよね?」

 焦った声が聞こえてきた。啓臣くんのことだからあの先のコンビニあたりで電話してるんだろう。私はクラッチを踏んでシフトをローに入れた。

「うん。もう出ちゃうよ?」

「ごめん、頭から抜けてた」

「良いよ、別に。ここのところ遅かったし、疲れてたんでしょ」

 ブレーキペダルを踏み込み、電動パーキングを押し込んだ。朝釣りに行かないと決めたから、早朝に起きる必要もなくて気が緩んだのだろう。それでいい。私は四時間待った。

「戻るから待っててください」

「えぇ……」

「午後の予定って買い物でしょ? 一緒に行かせてください」

でも渾身のお願いが来たので、致し方なく待つことにした。

「靴、履き替えよ」

 青いミュールを玄関にそろえて置いて、歩きやすいサンダルにした。服と合わないわけじゃないけど、さっきまで履いていたミュールよりだいぶカジュアルで、若干子供っぽい。歩きやすさ重視の、ヒールがほぼないデザインだ。

「君を履いて出掛けるのは来年かなぁ」

 ミュールに一声かけて腰を伸ばしたら、勢いよく玄関が開いた。

「お、おかえり」

「もうちょっと待ってて。着替えるから。あと五分だけ待ってて」

 ドタバタと自室に駆け込む啓臣くんをぽかんと見送った。

「なんやねん」

 とりあえずツッコんでおいて、まっすぐキッチンに向かった。五目ご飯のおにぎりを二つ作り直して海苔を巻く。啓臣くんのお昼ご飯だ。

「お待たせしました!」

 ドアの開け閉めは静かにしようね。心の中で呟いて、ラップにくるんだおにぎりを啓臣くんに渡した。

「お昼。ご飯寄らないでまっすぐ行くから、隣で食べてて」

 何か言いたそうな啓臣くんを無視して家を出た。自分の車に乗り込んでエンジンをかけた。洗車したいな、なんてぼんやり考えながら啓臣くんが助手席に乗るのを待つ。良い天気なんだ、これが。

 カチリとシートベルトを締める音を合図に、私はアクセルを踏んだ。

「おにぎり、ありがとう」

ぺりぺりとラップを外す合間に声が聞こえた。

「残しておくの、勿体ないからね」

ともさんは食ったの? 昨日、食べたいって言ってたけど」

「朝、食べたよ」

 平日と同じ時間に起きたのでな。

「朝……」

「たくさん寝れてよかったやん」

 表情筋がほぼ仕事をしないタイプだから、怒っているように見えるかもしれないけど、別に怒ってはいない。言ったままのことを考えている。

「本当にすみませんでした……」

「別にええよ」

 少し走って、市外に出たところでコンビニに寄った。いつも持ってくる水筒を持ってこなかったからお水が欲しかった。

「朝さん、コーヒー」

 啓臣くんがカップコーヒーを持って来た。どうやらお詫びらしい。このコンビニの一番高いドリップコーヒーだった。

「ありがとう」

 ここのコーヒー好きだから一気に幸せ気分になった私だったけど、口を付けて言葉を失った。

「啓臣くんこれ、ガムシロ入れたでしょ?」

「え?」

 甘い液体を一切受け付けない私は、甘味料が入ったコーヒーは飲まない。それを知っている彼が、わざわざスティックシュガーなんて入れるはずがない。これはガムシロだ。ミルクと間違ってガムシロを入れたに違いない。

 私は口の中に広がった甘さを眉を寄せてやり過ごした。

「液面、黒いし」

「えぇ……ごめん。俺飲むわ」

「いいよ。せっかく買ってきてくれたし。砂糖みたいに溶け残らないから大丈夫」

 最高の強がりを言ってしまった。でも予定をすっぽかして凹んでいる彼に、厚意で買ってきてくれたコーヒーを突っ返すのはなんか違う。私は努めて平静を取り繕い、ちびちびと甘い液体をすすった。

 啓臣くんは隣で「今日は良いところがない」と、ドアに寄りかかって絶望的な顔をしている。

 それもそうだ。せっかく天気の良い休日、朝釣りの予定を変えてまで出掛けることにしたのに、すっかり忘れて昼まで寝ていて、呆れた私の機嫌を取ろうとして逆に劇毒物を渡してしまったのだから。

 どんよりしてしまった車内を明るくしようなんて思わない私は、歌ってしまわないようにオーディオのプレイリストからチェロのデュオを選んで再生ボタンを押した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたと私のくじ引き婚 @asohtask

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ