一頁目 花火をまた来年




 家の外から、ドンドンと間隔を開けて鈍い音が鳴っていた。夏になると近隣の施設で和太鼓の練習が行われるので、どうせまたその練習かと思った。それにしては夏祭りシーズンが過ぎている。じゃあ遠くで雷か、と再びパソコンに向き合いなおしたところで、もしかして、と気づいた。


 天候は文句なし。近隣は静かで、環境も文句なし。しかし、窓を開けてみても、どうにも見えない。ほんのり風の中に火薬のにおいがしたので、きっと間違いない。急に胸から肩が膨らんだ。先走る高揚を垂れ流したまま、急いで家を飛び出てみた。




 玄関先に出たところで、湿った夜空に花火が打ち上がるのが見えた。5階からの景色は良好で、視界を半分狭める屋根に目を瞑れば特等席ともいえる。でもそれがテレビのような枠組みに思えて、どうも勿体無い。勢い良く一階に駆け降りて、打ち上がる花火をきれいに見上げられる場所を探しに出かけた。胸がとくんとくんと高鳴った。


 家の前の路地を曲がって、その先の細道を進むと、空を見上げるお母さんと子どもがいた。左手にあった家からドタバタとスリッパを引っ掛けたお父さんが出てきた。「ここなら見えるよ」と呼ばれ、家族がひとつの塊になる。聞き耳を立てて、家族でない私もそっとついて行ってみる。




多分もう終わるよ。ほら、バチバチたくさん上がっているでしょう。たまやって言っておかんと。

 花火を見ると、母はよくそう言っていた。大抵スタートに間に合わないのが我が家だった。何度か夏祭りに出かけた時は、ちょうど見えない場所で足止めを食らっていて、終わり間際にようやく華々しい姿を目に収めることができる。車を運転する人がいなくなってからは、遠くで音が聞こえ始めたら、二階にある和室の窓辺に移動して、家々の隙間から見える花火を覗いた。それくらい、特に思い入れのない、花火だ。でも母は必ず、「たまや」と空に飛ばした。数少ない楽しみが、ここにあったのかもしれない。


 「バチバチいってるからもう終わるかも」と赤子を抱え直しながら、お母さんはお父さんを呼び込んだ。あぁ、そういえばバチバチといえば、もう終わるんだっけ。いま、華々しい打ち上げ花火のフィナーレを知らない家族と見ている。色鮮やかで、すんと打ち上がってはぶわりと広がる。落ちていく火花が、少し切なかった。




 微動だにしない子どもは、えらいものだ。ところが、どうやら怖いから静かにしていたらしい。遠いとはいえ大きな音で火薬のにおいもする。でも泣きはしないのだから、とても強い子だ。「怖かったな」と怪しているお母さんの顔が、嬉しそうで可愛かった。


 知らない間に近隣の人が集まっていて、花火が終わるとともに挨拶に勤しむ人たち。すごかったね、と笑い合う、自然発生なコミュニケーション。こういう場面に出会うたび、喉元がぐぐっと詰まって、素敵だなとか寂しいなとか羨ましいなとか、いろんなものが胸から湧き出ていく。やさしい空間は、温かい反面、ちくちくと痛むことがある。そんな自分は醜いと、たびたび思っている。


 一言二言話した人々は、「また来年ね」と別れていく。花火は次に会う約束になるのか。きっと今年のうちに何度も顔を合わせるんだろうけど、またこの場所で、同じように見上げようねと、花火のもとで待ち合わせるのだ。日も時間も、場所も定かでない。でもそれは、たしかな約束だった。




 最後まで泣き声ひとつあげなかったあの子は、来年もまた怖がっているのだろうか。もしかしたらちょっと成長して、もう花火ひとつに怖がることはなくなってしまうのかもしれない。そしたらお父さんやお母さんたちは、たくましい成長に喜びを感じながら、怖がって泣きそうにしていた子どもの姿が恋しくなったりするのかもしれない。

 今日見たあの人たちの顔は、またひとつ歳を重ねて素敵になるだろうけれど、今見たこの顔が揃うことはもうない。それがちょっとだけ切ない。今日あったあの人たちは、明日以降この辺りですれ違ったとしても、同じ顔ではない。




「最後の花火に今年もなったな」


 ふと頭に浮かんだのは、テレビ番組の後ろで、CMの合間で、夏になると流れてくるフジファブリックだった。「若者のすべて」というタイトルを、どう思いついたのだろう。“今年最後の花火”が若い頃の美しい思い出なのだとしたら、ちょっぴり羨ましい。でもきっと、何年経っても思い出してしまうのは、花火じゃなくてきっと、花火を見ていた誰かなのかもしれない。

 


 「会ったら言えるかな」って思うこと、今になってたくさん増えたな。ちょっと値の張るものを食べに行こう、遊びに行こうとか、どんな日々を経て私を産むことになったのかとか、そういう類から、花火を見て「たまや」っていうのは恥ずかしいことに思えてたけれど、今なら一緒に言えるかもしれないな、とかわざわざ言わなくていいことまで。そういう取るに足らない会話を、瞼の裏に思い浮かべてしまいそうになって、やめた。




 すぐに家に帰るのが惜しくて、コンビニでアイスコーヒーを買って夜を散歩した。よくわかってはいないけれど、夏はなんだか、「また来年ね」が多い。それがなんだかくすぐったい。花火はきっとまた来年も、どこかで、いやそこら中で、華々しく打ち上がるのだろう。それを見上げる人たちの、重荷のない小さな約束たちが、散った花火のようにきらきらとここへ降り注ぐ。


「たまや」


 母の声がどこかの窓辺から聞こえた気がした。






花火をまた来年/行く宛のない人々 2024.10.04

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