第4話
どうしてこんなことにと思いながらもちらりと隣を見れば、ルキアージュの眉間に少しだけ皺が寄っている。
あの限界アパートを見て気分を害したのだろうかと見当違いのことを思っていた。
「あの、吃驚しただろ。あんなボロ屋でも俺的には済めば都でさ」
ことさら明るく言えば、すいとルキアージュの手が伸ばされた。
長い指先が、尚里の目元をそっとなぞる。
「隈があるのがずっと気になっていました。あれが原因ですか?」
「いや、それは……」
「尚里」
男である自分が嫌がらせされるという状態を肯定するのも微妙な気分で黙り込んだけれど、名前をルキアージュが口にして促してくる。
眉を下げ、尚里ははあ、と嘆息して肩をすくめた。
「そう、夜通し郵便受けを開け閉めされてた。多分中を覗いてたんだと思う」
でも大したことないんだと続けたけれど、ルキアージュの。
「やはりそんな状態のあなたを家には返せない」
とキッパリ言われてしまった。
すっかり暗闇になってしまった夜の中、車が向かったのは予想していたとおり尚里が初日にお邪魔したホテルの部屋だった。
「こちらのベッドルームを使ってください」
何故ベッドルームが何個もあるのだと思いながら案内されたのは、グリーンと白で整えられた予想よりも広い部屋とでかいベッドだった。
サイドテーブル以外にはベッドしかない。
こんなに広い部屋は必要なのだろうかと思わず遠い目をしてしまう。
こんな広々とした部屋でリラックスできる気がしない。
「いや……あの」
こんな部屋じゃなくて大丈夫だともごもごと口を開けば何を思ったのか。
「私と同じ部屋が嫌ならもう一部屋用意しますが」
つまりこのスイートだかなんだかわからない、ベッドルームやら応接室やらがあるだだっ広い部屋を尚里のためにもう一部屋借りると。
「ぜんっぜんいい!むしろその辺のソファーで充分だから!」
サッと顔を青くして、尚里は早口でまくし立てた。
そう、ソファーで構わないのだ。
このベッドルームにつくまでに案内された、何個もの部屋にはどれも最上級にふかふかだろうと予想される大きなソファーが、何個もあったのだ。
正直、それで充分だったけれど。
「私と同じベッドに運びますよ」
「ここで寝ます」
大人しくこの大きなベッドで寝る決意を固めた。
「残念」
くすりとルキアージュの唇が笑みの形になる。
豪奢な外見はそれだけで神々しいな、などと思っていると。
「おやすみなさい」
額に柔らかい感触とちゅっ軽いリップ音がした。
「ひょわっ」
キスをされたと気づき、バッと額に手をやりながら後ずさる。
そんな尚里の様子にくすくすと笑いながら、もう一度おやすみと口にしてルキアージュは部屋を出て行った。
パタリと扉が閉められて、脱力してしまった。
もう怒涛の出来事にすっかり疲労困憊だ。
ふらふらとベッドへと近寄り、しばらくためらったあとに靴を脱いでそっと潜り込んだ。
「うっわ、やわらかっ」
あまりの寝心地のよさに驚愕してしまう。
おののきながらも、ベッドの真ん中ではなくギリギリの端っこで丸くなって眠気がくるのを待つ。
正直眠れるか不安だったけれど、慣れない出来事の連続に疲労していたのか、思いのほかあっさりと尚里は眠りの中へと落ちていった。
ふっと意識が浮上した時に、体の下にある布団がいつものような床の固さではなく、ふかふかとしていることに違和感を覚えて尚里は目をこすった。
寝起きはいい方だけれど、この寝心地の良さは何事だとぼんやりしながら体を起こし。
「……おう……」
思わず視界に入った広い部屋にうめいた。
「そういえば家じゃなかった」
起き上がって呆然と呟き、しかしよく眠れたなあと思う。
寝具の心地よさゆえか、それともただ尚里が図太いだけなのか。
とりあえず今何時だと思いながらベッドサイドのテーブルの方を見れば、そこにはアンティーク調の時計が七時十五分と教えてくれる。
どうしようと思いながらも、そっとベッドから出て靴を履く。
「もう起きてるかな」
扉の方まで来て、そっと開く。
ベッドルームからは短い廊下を挟んで応接室だった。
ホテルの一室なのに廊下があるってどういうことだと思いながら、応接室に続く扉を開いた。
「おはようございます、尚里」
ソファーに座って書類らしき紙を見ていたルキアージュが立ち上がってこちらへとやってきた。
「おはよう」
「よく眠れましたか?」
窓から入る朝日に反射して銀髪が天使の輪を作っている。
大雑把な尚里のくせ毛とはもの凄い違いだ。
朝から神々しいなと思いながら頷くと、髪をさらりと撫でられた。
「ひえ」
一歩思わず後ずさる。
「お風呂の準備が出来ているので、どうぞ」
そういえば疲れ切っていて、昨日はシャワーも食事もせず寝たのだったと思い出す。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
こくりと頷きバスルームへと向かうと、やはりそこも広かった。
どこまで広いのだこの部屋はと、思わず恐れおののいてしまう。
服を脱いで浴室へ入ると、そこにはなみなみと湯の貼られた楕円型の広いバスタブがあった。
湯舟から立ち上がる湯気に、浴室内がすっかり温められている。
体と髪を洗ってしまうと、尚里はおそるおそる湯舟に浸かった。
「ああー」
思わず親父くさい声が出る。
家を出てから湯舟に入るのは初めてだ。
久しぶりの癒しに、尚里は体の力を抜いた。
お高そうなボディソープやシャンプーなどのおかげで、肌はしっとりとしている。
「しっかし、これ明日もここにいなきゃなのかな」
正直遠慮したいと思ったけれど、昨日の様子では帰らせてくれそうにないなあと思う。
思わず口元まで湯に浸かってブクブクと泡を立ててしまった。
まあ、何とかなるだろうと大雑把な結論に達すると、尚里はバスタブから上がり浴室を出た。
ふかふかのタオルで体を拭いたところではたと気づいた。
尚里の着ていた服や靴がない。
その代わり、白いザックリとしたセーターと茶色のズボン、チャコール色の紐靴が置いてあった。
ご丁寧に新品の下着まで。
「え……これ着ろってこと……?」
絶対これ高いだろと迷ったけれど、素っ裸やタオル一枚で出るわけにもいかないので、おそるおそる着替えた。
案の定、肌触りは最高だった。
汚したらどうしようなんて考えながら応接室に戻ると。
「似合っていますよ尚里」
この服を用意したであろう男がまばゆいくらいの笑顔で出迎えてくれた。
「あの、この服」
「何も持ってこなかったでしょう。とりあえず必要最低限は用意しました。ワードローブに残りは入れてあります」
これだけじゃないのかよとは尚里の脳裏をよぎった言葉だ。
「俺の服は?」
「クリーニングに出してあります」
ほっと一安心だ。
数少ない洋服の行方に安堵して。
「あの、服とか用意しなくても大丈夫なんだけど」
家に帰れば、数着しかないが一応洋服はあるのだ。
「気にしないでください、私が用意したいのです。初めてあった時から思いましたが、この季節に対してあなたは薄着過ぎます」
「うぐぅ」
痛い所を突かれた。
冬服は高いおかげで春先に買った長袖のシャツを着まわしているので薄着なのは当たり前だ。
しかし。
「あの、俺こんな服、金が……」
「あなたに金銭を要求なんてしませんよ。私がしたくてしているのですから」
ハッキリ言われてしまった。
「いやでも」
なおも言いつのろうとしたけれど。
「それよりお腹が空いたでしょう?朝食を食べましょう」
空きっ腹をつねに抱えている尚里には、魅力的な提案だ。
そっと手を取られて流れるように朝食の用意されている部屋へとエスコートされてしまった。
そこは初めて尚里がこの部屋に来た時にお茶をした部屋だった。
テーブルセットの上にはクロワッサンやスープ、マッシュポテトの添えられたオムレツなどと、朝からなかなか豪勢だ。
エスコートのままにテーブルにつくと、ルキアージュも尚里の向かいに腰を落とした。
「さあ、どうぞ」
「……いただきます」
ここまで用意されて断ることは尚里には無理だった。
おそるおそるナイフとフォークを取りオムレツにそっと切り込みを入れると、とろとろと柔らかい卵が半熟部分をふるふると震わせている。
じゅるりと口の中に唾液が溢れるのを自覚しながら、そのほかほかふわふわのオムレツを口に運んだ。
「おいひい」
「それはよかったです」
じーんと味わっていると、ルキアージュがにこりと満足気に笑ってコーヒーカップを持ち上げた。
それをちらりと見て、うーんと内心首をひねる。
ルキアージュは自分を心を持たないと言っていたけれど、尚里にとってはよく笑う男だなという印象だ。
なんだか尚里を見ているときは、いつも唇がウェーブを描いて笑っている。
「お食事中失礼いたします」
付け合わせの温野菜のブロッコリーにフォークを刺したところで、部屋にいなかったフルメルスタの声と共にノックが響いた。
「入れ」
ルキアージュの言葉に扉が開く。
ルキアージュがまだ白いシャツにスラックスというラフないでたちに比べて、入ってきたのは相変わらず黒スーツのフルメルスタだ。
「尚里様、今日のスケジュールを黒崎さんに確認しました」
様づけ!と内心驚きながらも。
「今日は九時半から仕事だけど……」
まだ充分に時間があるので油断していたけれど。
「時間変更?」
「いえ、今日は休みだとおっしゃられました」
「え!」
そんなはずはない。
思わず声を上げたら、フォークに刺さっていたブロッコリーが皿の上に落ちた。
「イシリスをもてなしてさしあげろとの伝言です」
「い、言いそう」
ひくりと口端が引きつった。
「わかった。下がれ」
ルキアージュの言葉に一礼すると、それ以上何も言わずにフルメルスタは部屋を出ていってしまった。
あとには、呆然とフォークを持ったままの尚里がいる。
ギギギと首をルキアージュに向ければ、そこにはこてりと小首を傾けるルキアージュ。
「もてなすって何すれば……」
いいんだと、むしろ持て成されている立場の尚里が呆然と呟けば。
「あなたの事を知りたいです」
カップをソーサーに置いたルキアージュが甘やかに口を開いた。
「俺の事って言われても……ええー……」
「いつからあのカフェで働いているのですか?」
困っていると、ルキアージュが質問をしてくる。
そんなことでいいのかと思いながら。
「高校入ってからずっとだよ。俺の家族、誰とも血がつながってないから居辛くって」
再びブロッコリーをフォークでトンと刺す。
「えっと、ルキ、アージュさんの家族は?男を花嫁とか反対されるんじゃないの?」
言いなれない名前に噛んでしまうと。
「ルキでかまいません」
と言われたので、お言葉に甘えてルキと呼ぶことにした。
「花嫁が男だろうが女だろうが、反対されることはありませんよ」
「えぇ、だって親的には複雑じゃないかと思うんだけど」
「両親はいませんよ。イシリスと呼ばれる子供は産まれたことが確認され次第、神殿引き取りでそこで育ちます」
「え、そうなの?」
「はい。銀髪に青い目の子供はいつどこで生まれるかわかりませんが、産まれればすでに私の記憶があるので、普通の赤ん坊とはやはり少し違いますから」
苦笑するルキアージュは、そのあと十三で軍に入隊しましたと続けた。
「それは……悪い、なんて言ったらいいか」
親の愛情というものがまったくないという事だ。
そんな境遇に、なんと返していいやらと思っているとルキアージュは苦笑を浮かべた。
「かまいません、毎回のことです」
毎回。
前世の記憶があるという彼の言葉には、寂しいとかそういった感情はいっさい感じさせなかった。
それがなんとも言えない気持ちになってしまって、フォークの先にあるブロッコリーを小さく齧る。
「前世ってどんな感じ?」
今でも半信半疑だけれど、多分本当のことなのだろうと尚里は思う。
そんな嘘をついてまで尚里を騙す意味もメリットもないはずだ。
「そうですね、映画を見ているようです」
「そうなの?」
「ええ」
ルキアージュは右手で片肘をついた。
つまらないですよと口にして。
「知識とマナがあるので、大体同じことの繰り返しです。神殿で育ち、軍に入る」
尚里はルキアージュの応えに目をぱちくりとさせた。
「違う人生っていうか、違う仕事とかしたいって思わないの?」
普通は毎回違うことをしようと思うのではないのだろうかと思ったけれど。
「特には。言ったでしょう、私は人形のようなものだったと」
「表情豊かだと思うけど」
つねににこにこと笑っている男が人形のようなものだと言われても、ハッキリ言って疑ってしまう。
思わず半眼になってしまうと。
「あなたに会えたから」
ふいにフォークを持っている手をその大きな手が包み込んだ。
そしてその手を引き寄せると。
「ふわっ」
手の甲に口づけられて、思わずブロッコリーの刺さったフォークがガチャンとけたたましい音を立てて、テーブルに落ちた。
「幾年の記憶があろうと、感情の起伏も表情の豊かさもありませんでした」
「……そんなにたくさんの記憶、疲れない?」
「疲れる?」
意味がわからないという顔をするルキアージュだ。
「ん、なんていうか、頭のなか混乱しないかなって。嫌な事とかもあるだろうし」
思わぬ言葉だったのか、ルキアージュは目を何度かまばたかせた。
「さっきも言ったとおり、映画みたいなものなので」
「ふうん」
なら大丈夫なんだと独り言ちると。
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
甘やかにルキアージュが微笑んだ。
「心配したわけじゃないから」
その視線に耐えられず、ふいと顔をそむけるとルキアージュがとうとう声をあげてふふ、と笑った。
「違うって」
「はい」
いまだに笑うルキアージュをじろりと睨むと、男は尚里の手を離して立ち上がった。
なんだろうと目で追いかけると、尚里の方へと近づいた。
かと思えば片膝をつき、尚里の右手を取ってその甲に額をつける。
「あなたの言葉は恵みの雨のようだ。乾いた私の心に優しく沁み込む」
甘やかなテノールにボッと頬が熱くなった。
そんな口説き文句のような言葉、恥ずかしくて仕方がない。
あわあわしながらも、平静になろうと尚里の手の甲を額に押し当てるルキアージュに疑問を口にした。
「最初にもしてたけど、それなに」
会った瞬間にされたそのポーズは何か意味があるのだろうかと問いかければ、ルキアージュは顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「我が国の服従と忠誠の証です」
「簡単にしちゃ駄目なやつじゃん!」
服従って!
忠誠って!
どうりでフルメルスタが最初に会った時に止めていたわけだ。
あわわと赤い頬がサーッともの凄い勢いで青くなっていく尚里だけれど。
「簡単ではないですよ。心からそう思っています」
立ち上がったルキアージュが、ふわりと尚里の頬に唇を寄せた。
思わず固まると、今度は鼻にちゅっとキスをされる。
そして唇にキスをしようとするので、慌てて尚里は両手でみずからの唇を隠した。
ルキアージュが小さく笑い、前髪超しの額にキスをされる。
「愛してます」
びくりと尚里の肩がはねた。
そんなことを言われても、と思う。
「会ったばかりなのに?」
むうと睨めば、苦笑がひとつ。
「ええ、それでも尚里の、あなたの存在が愛しくてかわいくて仕方ありません」
「……格好いいがいい」
あまりの情熱的な言葉に何も頭に浮かばず、言えたのはやっとのことでひとつだけだった。
「それは失礼しました」
とろけるような眼差しで見つめられて、落ち着かない。
そしてはたとキスに抵抗感がなかったことに驚いた。
さすがに唇は死守したけれど。
これはよくないと、こほんと咳払いをして尚里は話題を無理矢理変えた。
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