第3話
秋の終わりを象徴するような冷たい風が吹き始めるなか、尚里は相変わらず薄っぺらいシャツ一枚でバイト先へと足を進めていた。
ハッキリ言って寒い。
一応三千円で買った多少分厚い上着を持っているが、今頃から着ていたら冬の寒さに耐えられないと我慢している。
ボサボサのくせ毛が風でくしゃくしゃになるのを気にせずに、尚里は到着したカフェのドアを開いた。
「おはようござ」
「やっと来たー!」
挨拶を告げようとした尚里の声を、心底安堵したと言いたげな黒崎の声が遮った。
なんだなんだとそちらを見やれば。
「なんであんたがここにっ?」
見慣れたカウンターに銀髪をサラリと靡かせた美丈夫。
ルキアージュがスツールに腰かけて、にこりとこちらに笑みを向けていた。
相変わらず神々しさと豪奢な雰囲気がないまぜになっていて眩しい。
ルキアージュの傍らにはフルメルスタが直立不動で立っている。
「仕事を邪魔するのは本意ではないので、お客として来ました」
言い分にあんぐりと口が開いてしまう。
昨日一日だけの不思議な体験と思っていたのに。
「店内に驚きました。我がアルバナハルの写真や記事がこんなにあるなんて」
所狭しと飾られているアルバナハル関連のものは黒崎のコツコツとネットなどで集めた産物だ。
壁際の一角には、昨日尚里が受け取ってきた本と一緒に黒崎のアルバナハルコレクションのファイルなどが並べられている。
「まさかアルバナハル国の人に俺の店に来ていただけるなんて夢のようです。いつかあなた達の国に行ってみるのが夢なんですよ!」
感無量と言わんばかりにまくし立てながら、黒崎が両手を握りしめて目をキラキラさせている。
心なしか頬も興奮で紅潮していた。
「光栄です」
ルキアージュの唇が完璧な角度で笑みを形作る。
「いやあ、こんないい日はないなあ!」
ウキウキとしながらも、呆然と立ちすくんでいる尚里に黒崎は聞いたぞと視線を投げかけてきた。
「お前、花嫁らしいじゃないか」
爆弾発言だ。
まさか黒崎にそんなことを言っていたとは思わず。
「そんなんじゃない!何かの間違いだ」
反射的に言い返していた。
「とまどうのはわかります」
あまり困っているふうでもないルキアージュのなだめる言葉に、とまどいまくるに決まっていると口にしようとしたけれど。
「日本語お上手なんですね」
それより早く黒崎が口を開いた。
けれど、それは自分も疑問に思ったなとふと口をつぐんだ。
「どこに花嫁がいるかわからなかったので、習得できる言語はあらかた習得しました。護衛を兼ねている彼も同様です」
ルキアージュの言葉にフルメルスタへ目線をずらすと、小さく目礼された。
結構な努力がなければ多言語習得なんて無理だろうにと関心していたら、黒崎がひょいと親指で尚里を示した。
「こいつも英語とアルバナハル語はペラペラですよ」
「それは本当ですか?」
透き通った青い瞳を向けられ、尚里は一応とぎこちなく答えた。
バイトを始めた当初から黒崎に英語を習っていたのだけれど、ついでだからといつ使うかもしれないアルバナハル語まで叩き込まれたのだ。
使う機会が巡ってきそうで微妙な気持ちになる尚里だ。
けれどそんな尚里の心中などわからないルキアージュは。
「なんたる僥倖」
カタリと長すぎて持て余していた足で立ちあがり、尚里の方へと歩を進めた。
すぐ目の前に来たルキアージュに、思わず顔面の眩しさに目線をさっと逸らしてしまう。
けれど、昨日されたようにそっと右手を取られた。
「ぜひ一緒に国に来てもらえませんか?」
そのまま手の甲へ口づけをひとつ。
「うわああ!」
思わずバッと手を振り払うと簡単に放してくれた。
思わず左手で口づけられた右手を隠してしまう。
「へ、へんなことするなよ」
思わず声が裏返る。
ルキアージュは一瞬キョトリとした表情を浮かべたけれど、楽しそうに小首をかたむけた。
肩で切り揃えられた銀糸がサラリと揺れる。
「ぜひ旅行にいらしてください」
柔らかい感触の残る右手に狼狽えながらも、ルキアージュの提案に尚里は旅行?と首を傾げた。
「一度国を見て、私を知ってほしいのです。そのうえであなたの信頼を得たい」
思わぬ言葉に尚里が何か言う前に。
「そしてゆくゆくは花嫁として迎えたいのです」
昨日と同じことを言われて、ひえっと口の中で小さく悲鳴が零す。
「スゴイな尚里!」
黒崎が興奮したように鼻息を荒くしているけれど、尚里はそれどころではない。
「花嫁って……!男同士だぞ」
無理だろといわんばかりに言い放ったけれど、ルキアージュは一度まばたいただけだった。
「同性婚は当たり前ですよ」
「す、すすんでる……」
ガクリと肩が落ちる。
それならば性別など関係ないだろうけれど、それでいいのだろうか。
女の方がいいんじゃあとかグルグルしていると、黒崎が苦笑を浮かべた。
「今日はもう帰っていいから」
「いや、でも」
今日の夜番は尚里だ。
片付けをして店を閉めなければ。
そんな尚里の気持ちを見透かしたように、黒崎は顎髭に手を当てた。
「今日は臨時休業だ。俺も閣下にお聞きしたアルバナハルのことを、ゆっくりまとめたいからな」
「ああそう……」
そっちが理由かと、嘆息する尚里だった。
「送ります」
当然のように口にしたルキアージュの言葉に、フルメルスタが店を出ていく。
送るということは車の用意でもしに行ったのだろう。
「いや、いらない」
キッパリと言い切る。
曖昧な返事をしていては流されるおそれがあると確固たる意思で拒絶した。
しかし。
「もう少し一緒にいたいのです」
糖蜜みたいな眼差しで見つめられて、尚里は簡単に動揺した。
愛され慣れてない自分にとって、この男は毒だと頭の隅で警報が鳴り響く。
けれど、行きましょうと背中に手を添えられエスコートをする男にあうあうと口を開閉するばかりで、結局カフェの前の道路へつけられた黒塗りの高級車に乗り込んでしまっていた。
肩越しに振り返ると、閉まっていくカフェのドアの隙間から親指をグッと立てた黒崎が見えて、若干イラッとした尚里だ。
車の後部座席に腰を落ち着けて、フルメルスタに住所を告げると滑らかに車体が滑りだした。
等間隔にある見慣れた赤く紅葉している木々が窓の外を流れていく。
ちらりと横を見れば、にこにこと機嫌が良さそうにルキアージュが見つめている。
居心地が悪い。
「えーっと……」
「はい」
沈黙に耐えられず口を開くと、甘いテノールが優しく答えた。
「花嫁ってなんか政治的価値でもあるのか?というか、何を基準に俺なわけ?なんにも利用価値ないぞ」
顎を引いて唇を尖らせると、ルキアージュが吐息で面白げに笑った。
今の内容に笑う要素があっただろうかと思う。
「私がイシリスという女神ナレージャロの愛し子だと言いましたね」
「うん」
「イシリスはナレージャロの絶大な加護のマナを持つ代わりに心を持たない御子という意味でもあります」
心を持たない。
言われた言葉を反芻して、尚里は思わず半眼になった。
「そんな風には見えないけど」
からかわれているのだろうか。
ほとんど笑顔で機嫌良さそうにしているではないか。
作り笑いと言うには向けられる眼差しの熱量が多すぎて、それはないだろうと思う。
「あなたに会えたからですよ」
「は?」
「前世の記憶が何代もあるなかでも、今生の私はマナの力がずば抜けています」
それが関係あるのだろうか。
首を捻ると、ルキアージュが瞳をしんなりさせる。
「だから成人してからあなたの気配を初めて感じ取りました。消えてときおり掴める気配に何度手を伸ばしたかわかりません。仕事の傍ら海外を飛び回りました。日本に来たのは今回が初めてです」
なかなかに情熱的な言葉に、自分のことを言われているのだが尚里には現実味がなくてどこか他人事だった。
「そんな世界中飛び回ってまで会いたいもの?」
わからないと肩をすくめると、シートの上に置いていた右手に少し低い体温が乗せられた。
びくりと思わず肩が跳ねる。
そっと重ねられた手に、どうしていいやらととまどってしまう。
「あなたを初めて目に入れたときはあまりの愛しさに泣きそうになりましたよ」
くすり。
尚里のとまどいを宥めようとかルキアージュが少しおどけたように、小首を傾げる。
「あなたの気配を感じたとき、私はナレージャロの愛し子イシリスではなく、私という人間になれました。あなたのおかげです」
「俺は……そんなたいそうなもんじゃない」
母親に捨てられて父親にも再婚相手にも疎ましがられて、バイト三昧だったから友達もいない。
ただのつまらない男だ。
「あんたの花嫁とかいうのにも、なる気はない」
ふいと顔を逸らして言い放つ。
ルキアージュの手の下から自分の手も引き抜いた。
ぬくもりが離れたせいか、少し物足りなく感じてしまう。
それでもルキアージュの表情が気になってちらりと、面倒くさがって散髪していない前髪のあいだから彼の方を見た。
そこには、途方に暮れた迷子の子供のような表情があった。
罪悪感が沸いた。
何か言わなければ。
でも何を言ったらいいかわからない。
「指定された場所へ到着しました」
流れた沈黙のなか運転に徹して黙っていたフルメルスタの言葉に、尚里は慌てて窓の外へと目をやった。
そこはアパートまであと少しというところだ。
「えっと、じゃあ、送ってくれてありがとう」
「家はどこです?路地裏しかありませんが」
おずおずと礼を言えば、ルキアージュが眉根を寄せた。
まあここで降りたらどこに行くんだと思われはするだろう。
人一人が通れるくらいの路地しかないのだから。
「この先にあるんだ。車は入れないから、ここでいい」
「家の前まで送ります」
「いいから!」
あんな限界アパートを見られたくはない。
声を上げて、慌ててドアを開けて外へ飛び出した時だ。
カシャリ。
シャッターのきれる音と同時に、眩しい光がその場で瞬いた。
「尚里!」
一瞬の光にあっけにとられていると、車から飛び出したルキアージュに肩を抱かれていた。
「フルメルスタ!」
「はっ」
ルキアージュの鋭い声が響いたと思えば、いつのまにか運転席から飛び出していたフルメルスタがフラッシュの光った方へと臨戦態勢をとっている。
そして、右手にボッと赤い炎が現れた。
照らされた一面のなか、反対側へ続く路地へと影が走っていく。
炎を片手にフルメルスタが駆けだそうとしたけれど。
「うわー!だめだめだめ!火はまずいって」
尚里がひええと悲鳴を上げた。
制止の声に、一瞬フルメルスタの動きが止まる。
「大丈夫!ほんっと大丈夫だから!」
「イシリス、いかがしますか」
尚里のあまりの剣幕に、結局ルキアージュはフルメルスタへ小さく首を振った。
頷いたフルメルスタの手から炎が消える。
あれもマナだろう。
とんでもない力もあったものだと、内心尚里はこの場が収まったことにほっとした。
そこでようやくルキアージュが不満そうに眉間に皺を作っていることに気付いた。
不機嫌そうな顔も絵になるが眉間に皺はよろしくないのではと思っていると、ぐいと右手を取られた。
「家の前まで送ります。この奥ですね」
「いやだから、いいって」
「何か不都合でもあるのですか?」
おそらく写真を撮られたのだろうということよりも、この男にあの倒壊寸前の自宅を見られる方が気になってしまう尚里だ。
「フルメルスタ、お前はここで待機を」
「わかりました」
フルメルスタが頷くなり、行きましょうと尚里は手を取られたまま、路地の奥へと進むルキアージュの背中を追いかけた。
そして歩くあいだあーとかうーとか胸中でうめいたけれど、ルキアージュの足は止まるはずもなく。
果たして現れたオンボロアパートに、眼前まで来たルキアージュはぴたりと立ち止まり絶句していた。
そりゃあそうだろう。
男の生活水準を考えれば天と地ほどの落差があるのだ。
「あの……もうここまでで」
いたたまれずにおそるおそる声をかけると、しかしルキアージュはある一点をじっと見ていた。
「あの?」
「あなたの部屋は一番右ですか?」
「え?うん」
突然の質問にとまどいながら答えれば、尚里の手を離してずんずんとルキアージュが尚里の部屋の扉へと歩いて行った。
「ちょっちょっと」
慌てて追いかけると、尚里の部屋の前。
そこには、大量の袋から出されたコンドームが散らばっていた。
不幸中の幸いか、使用したものではないようだが、それでも不快なものに変わりはない。
尚里が唇を引き結んでいると、眉を寄せたルキアージュが振り返った。
尚里の顔は、どこか青い。
「これに心当たりは?」
「あー……」
言いづらそうに視線を彷徨わせたが、尚里と呼ばれおずおずと口を開いた。
「なんか……嫌がらせというか、ストーカーというか……」
煮え切らない返答を口にしたとき、キィと扉が音を立ててうっすら開いた。
すぐさまルキアージュが警戒して尚里を背にかばったが、人の出てくる気配はない。
「またか……」
はあと溜息を吐いた尚里に、ルキアージュの眉根が寄った。
「鍵が緩いんで、よく勝手に開けられるんだ」
「……警察には?」
「特に取られて困るものもないから」
大雑把なことを口にすると、ルキアージュは長い溜息を吐きだした。
「狙われているのにそんな悠長なことを言っている場合ですか」
「狙われてるって言っても俺は男だし、どうってことない」
ため息交じりの言葉に言い返すと、しかしルキアージュの青い瞳が真剣に尚里の顔を見返してチカリと光を弾く。
「こんなセキュリティの何もないところにあなたを置いておけません。私のいるホテルに移動してもらいます」
「はっ?」
「貴重品などは置いてないと言いましたね」
言うが早いが、ルキアージュは尚里の腰をぐっと引き寄せて抱き上げる。
そしてフルメルスタが待機している場所まで戻ると、そのまま車の中に押し込まれてしまった。
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