第2話

 翌日は、くあと何度もあくびを零しながら尚里はバイト前に、普段は絶対に近づかない高級店の並ぶ通りを歩いていた。

 ペラペラの三枚千円のシャツで歩くには恥ずかしいけれど、黒崎からのお使いを頼まれたのだ。

 何でもアルバナハルの本が新刊として出たらしく、予約をしているらしい。

 言われていた本屋につくと、そこは木組みのモダンな建物で尚里は入りにくいなあと素直に思った。

 けれどバイトの時間もあるし、さっさと受け取って出ようと勇気を出して入口のガラス扉をくぐった。

 店内は赤茶色の絨毯が敷かれていたりジャズが流れていたりと、富裕層向けの空間だと肌でビシビシと感じる。

 救いは店内にいる客はゆったりと図書館のような雰囲気で本を見ており尚里のことなど気にしていない事だ。

 分厚いハードカバーや専門書、千円を超えるアート系の雑誌などが空間の雰囲気を損なうことなく並べられている。

 カウンターに行き、黒崎から預かっていた控えの紙を渡すと、薄い本を渡された。

 表紙を見れば、美しいスカイブルーの海の写真だ。

 黒崎が言うには国内向けの本らしいが、わざわざアルバナハルから取り寄せたらしい。

 趣味の語学でアルバナハル語と英語が堪能な黒崎に、何故か尚里もその二言語を叩きこまれたりしている。

 レジカウンターから離れて表紙をマジマジと見ていると、ざわざわとジャズの流れる店内が騒がしいことに気付いた。

 なんだろうと顔を上げると、カツカツと焦燥感のある靴音が響いている。

 急いでる人でもいるのかなとそちらを見やり、尚里は驚きで目を見張った。

 そこには長身の男が長い足をせわし気に動かしてこちらへと歩いて来ている。

 その見た目に、尚里は思わず感嘆の溜息が出た。

 なめらかな褐色の肌に、肩口で切り揃えられた銀髪がサラリと揺れている。

 まったくの曇りのない煌めく青い瞳がこちらを向いていることに、思わずドキリと尚里は動きが止まってしまった。

 まるで芸術品のような神々しさと、豪奢な外見の雰囲気を混ぜ合わせたような不思議な雰囲気だった。

 こちらの方に用があるのかとススと通路の端へと下がる。

 けれど、二十代前半に見える上等なスリピースのスーツを着こなしている男は。


「やっと……見つけた!」


 尚里の目の前へと歩いてきて、ピタリと足を止めた。


「え……」


 いきなり目の前まで来たその男を見上げると、その瞳が甘さを含んでしんなりとたわむ。


「アルバナハルに興味があるのですか?」

「え……と」


 急に話しかけられて、尚里はとまどった。

 明らかに日本人ではない男から、甘いテノールが日本語を紡いだことに驚いてしまう。

 なんなんだこの人とおそるおそる見上げれば、男はにっこりと甘く微笑んだ。

 なあ、あれって、まさか、とざわざわしていた店内がその男へと集中していることに気付く。

 そこで気が付いた。

 最近この色彩の人間を見たような気がすると。


「やっと会えた、私の花嫁」


 けれどその考えは四散した。


「ひえっ」


 目の前の男が優雅な手つきで本を持っていない方の左手をゆっくりと手に取り、その彫像のようなウェーブを描いている唇で口づけたからだ。


「な、なにすんだ!」


 思わず声を上げるけれど、男はにっこりと笑みを浮かべたままその場でスーツが汚れるのも気にすることなく片膝をついた。


「いけません!」


 突然響いた制止の声と、男がうやうやしく尚里の左手の甲を自分の額に押し当てたのは同時だった。

 そこでハッと気づく。

 そういえば、不明瞭な画面だったけれど昨日見たアルバナハルの軍事司令官という男の色彩を思い出す。

 褐色の肌に銀髪の男だった。


「え、まさか……」


 まさかまさかと、おそるおそる口を開くけれどその先を続けられないでいると、男がスラリと立ち上がった。

 圧倒的な身長差に見上げると、尚里の手を取ったまま男が形の良い唇を動かした。


「申し遅れました。アルバナハル軍事最高司令官をしているルキアージュ・イシリス・ナレージャロと申します」


 やはり予想通りの肩書名を告げられて、尚里はピシリと固まった。

 何故こんな日本にいるのかとか、何故尚里の手を取っているのかとか疑問は沸いてくるけれど、困惑するばかりだ。

 思わず眉が下がってしまう。


「あなたの名は?」


 手を取られていることが気になって、そちらとルキアージュと名乗った男の顔を行ったり来たりと見ていると、ルキアージュがきゅっと手に力を入れてきた。


「教えてください」


 なんで名前なんか聞かれるのだろうと疑問がよぎるが、なんだか教えなければ手は放してもらえそうにない。


「暁尚里、です」

「なおり……尚里ですね」


 まるで甘い飴を転がすように名前を口にされ、尚里は居心地が悪い。

 何故、名前など聞かれたのだろうと思う。


「突然ですみません。あなたに大切なことを伝えたい。時間を戴けませんか?」


 本当に突然だ。


「いや、俺バイトに……」


 ようやくそれだけを口にすると。


「ではバイト先までご一緒しても?」


 いいわけが無い。

 ブンブンと扇風機のように首を振ると、ルキアージュは少しだけ眉を下げて尚里を見下ろした。


「では私の滞在しているホテルまでいらしてくださいませんか?警戒しないでください。私があなたに危害を加えることは万に一つもありません」


 とろけるような眼差しに熱く見つめられて、どうしようと口を引き結んでしまう。

 けれど、この様子では本気でついて来そうだと思うとおそるおそる尚里は頷いた。


「ありがとうございます」


 宝石のような青い瞳が、チカリと光りを反射して煌めいた。


「フルメルスタ」

「はっ」


 名前なのだろう。

 ルキアージュの声に、黒いスーツを身に着けた赤い短髪を後ろだけ長く伸ばして結んでいる男が一礼した。

 肌の色はルキアージュと同じく褐色で、二人の年齢はそんなに離れているようには見えない。

 鋭く返事をした声に、さきほど「いけません」と聞こえた声と同じだと気づく。

 どうやらフルメルスタと呼ばれたこの男もアルバナハル人なのだろうかと、疑問が脳裏をよぎった。

 名前を呼ばれたフルメルスタはスマホでどこかに連絡をしている。


「では行きましょう」


 ついと握られている手をそのままにエスコートされだして、尚里はとまどっていた。

 いつ離してくれるんだろうと思うけれど、フルメルスタを伴ってすぐ近くのクラシカルな外観のホテルに連れて行かれた。

 エレベーターに乗ったときも手を取られたままで。


「ひぇぇ」


 エレベーターから降りた廊下の先。

 フルメルスタが開いた両開きの扉を開けると、そこは広々とした大理石の空間が広がっていた。

 その広さに思わず小さく悲鳴が出る。

 限界アパートに住む尚里にとっては別世界だ。

 エスコートされるままリビングルームらしき部屋に通された。

 濃緑色の絨毯が歩く音をふかりと吸い込んでいく。

 クリーム色の壁には絵画が飾られ、部屋の真ん中にテーブルセットがある。

 そこまで歩いて来ると、ようやく手を離されほっと一息をついた。

 椅子を当然のように引かれたのでおずおずと座ると、ふんわりとしたクッションが恐ろしく座り心地がよかった。

 白いテーブルクロスの上には、白に青い小花柄のティーセットとケーキやマカロンの乗った三段皿が並べられていた。

 もしかしてフルメルスタが連絡をいれていたのは、これを準備するためだろうかとおもわず思う。

 目の前の椅子にルキアージュが腰を下ろしたけれど、フルメルスタは扉の前に立っていて座る気配がない。

 チラチラとそちらを見るけれどフルメルスタと目が合う事はなく。


「彼の事は気にしないでください。あれが職務なのです」

「はあ」


 ボディーガード的なものだろうか。


「えっと……」


 どう口火を切ったらいいか言いあぐねていると。


「どこから説明しましょうか」


 先ほどフルメルスタが紅茶を注いだカップをルキアージュは持ち上げた。

 こくりと一口飲んだことに、まずは落ち着こうと尚里も彼にならってカップを手に取ろうとしたけれど、繊細な作りのそれを落としたらと考えたら怖くなって結局やめた。


「そうですね、尚里はどのくらいアルバナハルのことを知っていますか?」

「マナを使える人が多いってことくらいしか」

「そうですね」


 尚里の言葉に頷くと同時に、三段皿に乗っていたチョコレートケーキがふわりと宙に浮いた。

 目を見張ってそのケーキを凝視していると、それは形が崩れることなくそっと尚里の前にある皿に降り立った。


「今のは風のマナを使いました」

「凄い凄い!」


 尚里は声を上げてそのケーキをためすがめつ見やった。

 どう見ても普通のチョコレートケーキだ。

 ルキアージュは手すら動かしていなかったのに。


「国民の四割は大なり小なりマナが使えます」

「そんなに?」


 驚いた。

 地球の人口でマナを使えるものは六割くらいしかいないと言われている。

 そのうちの半分以上がアルバナハルの人間だということだ。


「どんなマナを使えるかは人それぞれ違います。私が今使ったのは風のマナです」


 だからケーキが浮いたのかと関心してしまう尚里だ。


「我々アルバナハルの人間は、この国を作ったと言われている女神ナレージャロを信仰しています。ナレージャロは生きとし生けるすべての自然に宿り、大地を潤していると考えられています」

「あれ?ナレージャロって」


 さきほどルキアージュが名乗った時にナレージャロと口にしていた。

 子孫か何かだろうかと疑問に思っていると。


「私の名前、イシリスは愛し子という意味です。ナレージャロの御子であり、最初の国王の傍で国を作るときに絶大なマナで助けた人神と言われています」


 そして、とルキアージュは自分の目の際をトンと指先で押した。


「赤髪に茶色い瞳でしか生まれてこないアルバナハルの人間のなかで唯一、銀髪で青い目の人間が生まれます」

「つまり、そのイシリスって呼ばれた人の子孫ってこと?」


 ことりと首を傾げる。


「正確には違います」

「いけません、イシリス!」


 フルメルスタが声を大きく上げた。

 その顔には焦燥が浮かんでいる。

 尚里がなんだなんだとおもっているなか、ヒタリとルキアージュがフルメルスタを一瞥する。


「……失礼しました」 


フルメルスタが眉根を寄せて納得していなさそうな表情で押し黙る。

 ルキアージュが目線を尚里に向けると、まっすぐにその青い瞳が尚里の黒い瞳を貫いた。


「私には記憶があります。前世というやつですね」

「……前世?」

「ええ、それが何人分も。生まれて生きて死ぬまでの記憶がです」


 尚里は思わず胡散臭そうな眼差しをルキアージュに向けた。

 マナなんて超常力のある世界だ。

 前世と言われて一概に嘘だとも言えないが、信じることも出来ない。

 けれど、目の前の男はそんな尚里の表情などどこ吹く風で上機嫌に笑っている。


「国家機密ですので他言無用でお願いします」


 フルメルスタが言い放った言葉にピシリと固まった。

 バッとそちらを向くと、いかにも冗談なんて言わなさそうな顔が渋い表情で尚里を見やる。

 フルメルスタの様子を見る限り、簡単に嘘だろうと笑うことも出来なかった。


「国家機密って……」

「ええ」

「何で俺に言うんだよ!」


 思いもしないほど大きな声が意図知らず出てしまった。

 国家機密が本当ならアルバナハルの人間でもない、小さな東国の底辺貧乏人に言っていい話ではない。

 あわわと尚里が口を震わせると。


「あなただからです」


 思いもかけない言葉が返ってきた。


「へ?」


 呆けた声に、しかしルキアージュは何か眩しい物を見る眼差しを尚里に注いでいる。


「何百何千の夜を超えてあなたを、魂の片割れである花嫁を探していたんです」

「はなよめ」


 口の中でその言葉を転がすと、ようやく脳にその意味が届いた。


「花嫁って……まさか俺?」


 まさかと思いながら自分をわなわなと指さすと。


「ええ、私の愛しい片割れです」


 とんでもなく眩しい笑顔で頷かれた。


「う、そだ、あ」

「間違いなく、花嫁です」


 キッパリ。

 あまりにハッキリと断言されて、尚里はぐるぐると視界が回ったような錯覚に襲われた。


「お、俺行かなきゃ!」


 ガタンと音を立てて立ち上がる。

 まさかこのまま出してもらえないのではと思ったけれど。


「わかりました」


 ルキアージュがフルメルスタへと目配せひとつ。

 フルメルスタは背後にあった扉を開いて、キッチリと頭を下げた。

 あまりにあっさり帰してくれる様子に、からかわれたのではないかと思いながら、尚里は慌ててその扉をくぐってバタバタと出ていく。

 最後にチラリと肩越しに振り返ると、テーブルに頬杖をついたルキアージュがひらりと手を振っていた。

 花嫁とか言いながらも、ただの道楽で声をかけてきたのではないかと、あまりにも簡単な別れに逆に尚里の方が不完全燃焼だ。

 自分には分不相応なホテルを出ると、ようやく一息。

 何だったんだほんとにと歩き出しながらも。


「まあ、もう会う事はないだろ」


 肩の荷が降りた気持ちで尚里はバイト先のカフェへと急いだ。

 チリリンと普段に比べたら気忙しいドアベルの音を響かせてカフェの店内へ入ると、尚里はほうと息を吐いた。

 漂うコーヒーの豆の匂いに、先ほどまでの出来事が遠ざかっていく気がする。


「おう尚里、バイト前に悪かったな」


 カウンターの中から朗らかに声をかけてきた黒崎に、いつもの日常の光景だと尚里は腹の底から息を吐いた。


「はいこれ、頼まれてた本です」

「ありがとな」


 カウンター越しに本を渡すと、黒崎が礼を言いながらほくほく顔でそれを受け取る。

 中身をパラパラと眺める彼の表情は、尚里とは真逆のご機嫌だ。


「どうした?」


 思わず先ほどのルキアージュを思い出し、わずかに眉を顰める。


「その国の偉い人が花嫁探してるって言ってましたよね」

「そうそう、外交以外にも精力的に各国を回ってるらしい。行動派だよな」


 たしかに行動派ではあった。

 初対面の尚里をホテルに連れて行く程度には。

 それにしてもと思う。

 マナを見たのは初めてだった。


(あれはちょっと凄かったな)


 あんな力を持った人が四割もいるとは驚きだ。


「アルバナハルって宗教も盛んなんですか?」


 ルキアージュの言葉を思い出しながら、尚里は顎に指を当てた。

 彼の言い方を聞く限り、女神とやらを信仰していてルキアージュはその愛し子だという。

 はっきり言って胡散臭かった。


「ああ、女神ナレージャロってのを信仰してる。国民みんな信仰心の厚い国だぞ」

「そうなんだ……」

「軍事司令官は御子さんでもあるらしい。支持率高いんだぞ」


 はあと生返事を返しつつ尚里はルキアージュの言っていた言葉をそのまま話す黒崎に、からかわれてるんじゃなかったのだろうかと不安になる。


「その人の名前ってもしかして、ルキアージュとか言います?」

「あれ、俺教えたっけ?そうだよ、ルキアージュ・イシリス・ナレージャロ。御子はつねにこの名前らしい。家督制じゃないらしくてな、毎回バラバラの家柄から排出されてるそうなんだよ。凄いよなあ」


 うんうんと知識を話すのが楽しそうな黒崎の言葉は途中から耳を素通りしていた。

 尚里が聞いた国家機密とやらが本当なら、ルキアージュはつねにその名前で御子をしているということになる。


(そういえば、二人とも日本語上手だったな)


ペラペラと喋る黒崎を尻目に、そんなことを考えながらその日尚里は何度も溜息を吐いたのだった。

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