2.彼女との距離感
……リズさんはいつも人に対して牙を剥いていて、何かとトラブルを起こすことが多かった。
「あいつ、今リズの悪口を言った!噛み殺す!」
「わあ!リズさん待って待って!」
そして、何かあったら俺が止めに入るという構図が出来上がってしまった。
だが個人的には、リズさんに非はそこまでないと思ってる。すぐ攻撃的になるリズさんも良くないところはあるかも知れないけど、最初に挑発したり陰口を言ったりするのは、俺たち人間のクラスメイトの方なんだから。
「おいおいお前ら!みっともねえだろ!」
「そうだよ!心ない言葉は止めて!」
そうしたいじわるなクラスメイトには、俺の友人の広一と、学級委員長の七瀬 由香里さんが叱るというのも、在り来たりな構図だった。
そんな事件が何度か重ねられていくと、次第にクラスの中での相関図ができていく。リズさんを庇う側の、俺と広一、七瀬さん。そしてリズさんを嫌っているのが何人か、それから無関心であるのが何人かという状況だった。
そういう状況であることを考慮した先生は、10月15日に、クラスの席替えを行った。 リズさんを一番窓際の後ろの席にし、その右隣には俺を置いた。そして、彼女のひとつ前の席が学級委員長の七瀬さんで、その右隣が広一だった。
「……シンイチ、これ、よく分からない」
リズさんは授業中に、俺へ分からない問題を尋ねてくることが多かった。特に彼女は数学が苦手で、席をつけた状態でずっと教え続けるという状況もざらにあった。
「あ、えっとね、これは二進数と言って、2を10として扱うんだ」
「2を10?でも、2は2だぞ?」
「うん、その扱いをね、二進数では変えるんだ」
「なんで?なんで変える?2は2なのに?よく分からない!」
リズさんは顔をしかめて、歯をぎーっと噛み締めた。何か不愉快なことがあると、彼女はそうして歯を噛み締める。
「大丈夫大丈夫、ゆっくり考えたらきっと解けるから」
「そうか?」
「うん、君ならできるよ」
「……分かった、頑張る」
そう言って、リズさんは口を閉じて、うーんうーんと唸っていた。
リズさんはなぜか分からないけど、俺の言うことは比較的聴いてくれる。他の人は喋りかけようとするだけで「うるさい!向こうへ行け!」と怒鳴るのに、俺が近づく分にはなにも言わない。
『お前、仲間の臭いする』
(仲間、つまりギルの臭い……か)
亡くなった愛犬の臭いが、身体にまだ染み付いていて、それで彼女は俺に親近感を覚えていくれている。 俺とリズさんは、偶然にもそんな関係性を構築していた。
「……よし、今日は100メートル走を記録する」
曇天の下、俺たち二年一組は体操服を着てグラウンドに出ており、先生の話を三角座りをしながら聞いていた。
「この記録は、今度の体育祭でのリレー選手を決める時に使われる。つまり、ここで速かったやつが、体育祭のリレーに出場できるというわけだ」
先生がそういう説明をしている間、俺の隣に座るリズさんがぼそぼそと耳打ちしてきた。
「シンイチ、体育祭ってなんだ?」
「あ、体育祭っていうのはね、みんなで運動能力を競い合う大会のことだよ」
「競い合う?」
「そう。脚が速い人は誰か?綱引きが上手いチームはどこか?って、そういう競い合いをするんだ」
「それ、なんのため?神様のためか?」
「え?いやいや、別にそんな仰々しいものじゃないよ。みんなで楽しみながら競い合おうっていうだけのものだから」
「神様のためじゃない?うーん、そうなのか」
リズさんはよく分からないと言った様子で、首を傾げていた。
「……………………」
俺はこの時、リズさんの服を見て、なんとなく違和感を覚えていた。 白をベースに、肩から腕にかけて赤いラインが細く入っている、普通の体操服なのだが、なんでだろ……?なーんかおかしいような……。
「よし、それじゃあ今から始めるぞ。三人ずつ記録していくからな」
先生がそう言って、最初の三人の名前を呼んだ。
「えー、明石、犬神、植木。まずその三人が出ろ」
「あ、リズさん、呼ばれたよ」
「グルルル!あいつ!リズのこと犬神って呼んだ!」
「あー!リズさん落ち着いて落ち着いて!後から俺が先生に言っておくから!」
「グウウウ……!」
俺がそう言うと、リズさんは渋々矛をおさめてくれた。ムスッとした表情のまま、彼女はすっと四つん這いになろうとした。
「ん?あ、そうだ」
リズさんは何やら独り言を呟くと、四つん這いだったのを止めて、二本足で立っていた。
「シンイチ、これでいいか?」
「え?」
「前にシンイチ、四つん這い止めろって言った。これでいいのか?」
そう、以前まで彼女は、常時四つん這いで行動していた。だがそれだと、スカートの中が丸見えになってしまうことが多かったので、「リズさんが嫌じゃなければ二本足で」とお願いしていたのだ。
「う、うん。ありがとリズさん。二本足、きつくない?」
「思ったより、平気。でも、ちょっと変な感じ」
「そっか、できる範囲で大丈夫だからね」
「わかった」
そうしてリズさんは、明石くんと植木くんに続き、100メートル走のラインまで歩いていった。 100メートルのゴール地点では、三人の陸上部がストップウォッチを持ち、リズさんたちが走ってくるのを待っていた。
(あ……リズさん)
この時、俺はリズの体操服になぜ違和感を持っていたのか理解した。 リズさん、体操服が前後ろ反対だ……。後で教えてあげなきゃなあ……。
「それじゃ、行くぞ。位置について。よー……」
「あ!シンイチー!」
先生が掛け声をかけようとしたのを遮って、リズさんが俺の名前を呼んだ。
「走るのは、二本足やだ!四つがいいー!」
彼女の要望を聞いた俺は、大声で名指しされた気恥ずかしさを胸に抱えたまま、彼女へこう返した。
「う、うん!いいよ四つでー!リズさんの走りやすいやり方でやってー!」
「わかったー!」
そうして彼女は、手をビタッと地面につけて、四つん這いになった。
「……もういいな?犬神」
「犬神じゃない!リズ!」
「わ、わかったわかった。いいな、『よーいドン!』って言ったら走れよ」
先生は咳払いをひとつしてから、改めて掛け声をした。
「それじゃ位置について、よーい……ドン!」
シャッ!!!
……砂煙を上げながら、リズさんは走った。
ぐんぐんぐんぐん前を走り続けて、明石くんも植木くんもあっさり置いてきぼりにしていた。
「えっ!?速っ!!」
クラスメイトの誰かがそう叫んだ。そして、「速っ!!」の「は」と「や」の間で、リズさんは既にゴールしていた。
ズザザザザー!!
地面にブレーキの足跡をつけて、リズさんは止まった。 記録係の陸上部は、目を大きく見開いて、ストップウォッチを凝視していた。
「は、8秒24……!?」
えええええええええ!?
クラスメイトたちから感嘆の声が上がる中、リズさんは「何をそんなに驚いてるんだか」という顔をしながら、ぎこちない二本足で俺の隣へと帰ってきた。
「お、お帰り、リズさん」
「人間、遅い。あんな速さで競い合うのか?」
「き、君に比べたら、誰だってそうなるよ……。100メートルの世界記録は、9秒58なんだから……」
「人間の世界、狭い」
「ははは……」
リズさんのストレートな物言いに、俺は乾いた笑いが出てしまった。
「あ、そうだリズさん。体操服、前後ろ反対だよ」
「ん、体操服?」
「そうそう」
リズさんは「そっか」と言って、おもむろに上を脱ごうとした。 その時、彼女の胸の下半分までがうっかり見えてしまった。
なんと彼女は、下着をつけていなかった。
「わーーーー!!ダメダメダメ!!こ、ここじゃなくて、誰もいないところで着替えよ!?」
「なんで?」
「な、なんでって……そ、その……」
「変なシンイチ。でも、シンイチがそう言うなら、止める」
そうして、彼女は脱ぐのを止めてくれた。俺はバクバクと揺れる心臓を押さえながら、熱くなった顔が冷めるのを待った。
「上山くん」
その時、俺の前に座っていた委員長の七瀬さんが、俺の名前を呼んだ。
「上山くん、先生から呼ばれてるよ」
「おーい上山ー!次お前だぞー!早くしろー!」
「あ、本当だ。ありがと七瀬さん」
そう言って、俺はその場で立ち上がった。
「シンイチ、お前も走る?」
「うん、ちょっと行ってくるねリズさん」
「リズも一緒。一緒に走る」
「いやいや、リズさんはもういいんだよ。すぐに帰ってくるから、ここで待ってて」
「……わかった」
そうして、俺は先生の元へと小走りで向かった。 みんなと同じように100メートルを走り、記録を出す。ちなみに俺は13秒39だった。
「やるな上山、帰宅部にしては結構速いじゃん」
陸上部の記録係からそう褒められて、俺は「ははは、ありがと」と礼を返した。
また元の場所へ戻り、腰を下ろして「ふー」と息を吐く。
「上山くん、すごいね!足速いんだね」
前に座っている七瀬さんが、満面の笑みで俺にそう言ってくれた。俺はちょっと照れ臭くなりながらも、「ありがと」と答えた。
「飼ってた犬とよく走りに行ってたからさ、足だけはちょっと自信あるんだ」
「へー!上山くんって犬飼ってるんだね!何犬なの?」
「昔、だけどね。当時飼ってたのはシベリアンハスキーだよ」
「シベリアンハスキーって、あのちょっと狼っぽいやつ?」
「そうそう、それだよ」
「いいなあ!私も犬飼いたいんだけど、マンションなんだよね~。羨まし~!」
「ははは……」 と、そんな風に七瀬さんと談話しながら、俺はギルのことを思い出していた。 そうだ、ギルはすごく足が速くて、追い付くのに苦労したんだよなあ。でも仲良くなってからは、ギルの方が速さを合わせてくれるようになったっけ。
「……………………」
いなくなってしまった愛犬のことを思って、俺が少ししんみりしてしまっていた時。
俺の右肩がズシッ!と重くなって、思わず身体が傾いてしまった。 なんだ?と思ってそちらを見てみると、リズさんがのしかかっていたのだった。
「グルルル……!」
そしてリズさんは、七瀬さんに向かって威嚇していた。牙を見せて、唸り声まで上げていた。
「リ、リズ、さん?」
「シンイチに近づくな!リズ、許さない!」
「ご、ごめんなさいリズちゃん……!」
七瀬さんは慌てて彼女に謝った。俺はリズさんに「まあまあ落ち着いて」と言って、なだめようとした。 リズさんはキッとこちらを睨んで、「シンイチ」と言った。
「な、なに?リズさん」
「かぷっ」
「え?」
リズさんは俺の右腕を、甘く噛んだ。
決して痛くない。ただチクチクと噛まれている感触があるだけだ。
「……………………」
俺はこのリズさんの行動が、昔飼っていたギルの姿とダブっていた。 ギルも時々こうして、俺の腕を甘噛みしてきた。これは、構って欲しい時のサインなのだ。
学校から帰ってきた時とか、俺がゲームしてたりすると、こうして「自分を観ろ!」というように噛んでくる。
「……………………」
リズさんがギルと同じ気持ちなのかは分からないけど、もしかするとそうなのかなと思い、俺は彼女の頭を撫でた。 すると、リズさんは噛むのを止めて、俺に向かって満面の笑みを見せてくれた。 そして、俺の首筋や腕をくんくんと嗅いで、「シンイチ、いい臭い」と言っていた。彼女の尻尾は、パタパタと揺れていた。
(……なんだか、すっかり懐かれちゃったなあ)
俺はそんなことを心の中で呟きながら、彼女の頭を撫でるのだった。
次の更新予定
2024年9月20日 20:00
転校生の獣人ちゃんは俺にだけ懐いてる 崖の上のジェントルメン @gentlemenofgakenoue
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