会津のエイと小樽のサメ 明治初期・札幌県小樽郡の逆龍宮
まだ温かい
第1話 出会い
物心ついた時から両親はいなかったし、その顔を思い出すこともなかった。私は
自分が何者なのか、少なからず気になってはいたけれど、知ってしまえば何てことはなかった。私は
母は私に、藩のために生きることを望んでいたみたいだけど、お姉さまは反対してくれた。
だから私は、この青楼・
お姉さまは、男を遊ばせるために生かされていたことを、とても辛かったと教えてくれた。凛としていて美しくて、いっつも自信に溢れていたのに、私のために泣いてくれた。私が見ていたお姉さまの姿は偽物で、身を売るためのまやかしだったんだ。
お姉さま方が私を護ってくれたから、ある程度自由に生きていられたんだ。普通だったら身寄りのない私は、他の子と同じように女郎にさせられていたはずなのに。
手習いや
・
明治十六年、西暦1883年。昨年二月の開拓使廃止によって、北海道は新たな時代を迎えていた。エイの恋愛物語は、この年の札幌県は小樽群から始まった。
「
テツさんの声だ。南部屋の
「はい! 永子です。今行きます!」
板木の床を蹴って駆けてたら、途中に
「遅かったじゃないか。でもいいさ、あんたを身請けしたいって話を受けたからね。ただでくれてやるって言っといたよ」
「そんな! 急すぎます! それに、いったいどなたなのですか?」
あー……しまった。口答えしちゃった。
「急も何もあんたは年増だし、ろくに男も取れないでしょうが! 行けばわかるから、とっとと出ておいき! もう帰ってくるんじゃないよ!」
やっぱりだよ。女郎として働いていないんだから、仕方ないってわかるけどさ、でも
とにかく、南部屋に置いてもらっていた以上、楼主の決定には逆らえない。観念して出ていくっきゃない。
「永子、おめでとう」
澪標お姉さまだ。身請けの送別にしては耳が早いというか、行動するのが早いなあ。
「ありがとうございます。お姉さま。でも、どうしてこのことを?」
「テツさんから話を聞いたからよ。
なるほどなあ、確かに、お姉さまが一番私の面倒を見てくれてたから、その私のこととなれば、テツさんも伝えないわけにはいかないか。まあ、そんなことよりも、お世話になったお姉さまと別れるのが辛いや。
「どうしたの? 何だか複雑そうな顔しちゃって」
「いやあ……私が身請けって変な話ですし、何だか実感が湧かないのですけど、お姉さまと離れるのは寂しいなって思って」
「ふふ。私も寂しいわ。それに、テツさんもね」
お姉さまったら、言うほど寂しそうな顔に見えないし、むしろなんだか嬉しそう……って、えっ? どういうこと?
「テツさんが?」
「そうよ。あんな言い方してたけど、本当は貴方のことを心配してるんだから。身請けの話だって、貴方には身代金がないから、お金を取らないって言ってたしね」
何だか意外だな。経営者なだけあってお金にがめついと思ってたのに。それに、あれで照れ隠しをしてたと知っちゃうと、なんかこそばゆい。
「行き先は余市町よ。相手は元会津藩士なんだって。今更どういう風の吹き回しかは分からないけど、真面目に開拓を続けている人たちだから、貴方をまかせられるって考えて、テツさんはお金を取らなかったのかもね」
「そう……ですか。なんか、私が思ってたより随分優しい人なんですね。テツさんって……」
もうずっと怒られてばかりだったから、てっきり嫌われてるものだと思ってたけど、お姉さまに言われてみれば、私のためにやってくれてたのかな。それならそうと言ってくれれば良かったのにな。
「私たちみたいな弱い立場の女をさ、食わせるために仕事をくれてるんだよ。女だけで生きていくために、厳しい物の見方をしてるけどね、本当はすごく優しいんだ」
お姉さまが遠くを見るような、しみじみとした目をしてるんだから、きっと本心から出てきた言葉なんだろうな。信じられないけどなあ。
「でも、女の子を買ってるよ?」
「テツさんがいなかったら、ろくでもない男たちに買われてたかもね。それに、大した値段も付かずに家族も助からなかったかも」
そう言われてみれば、そうなのかも。遊郭があるから
テツさんのこと、今でも良い人とは思えないけど……前ほど嫌な人だとは思えなくなってきちゃったな。この身請けの話だって、ろくに奉公もしてこなかった私が困らないように、まともな人に嫁がせようとしてるわけだもんね。
「そろそろ力車が来るわ。身請けとは言ったけど、お金を取ってない以上は
「はい、お姉さま。最後までありがとうござ──」
お姉さまがぎゅっと抱きしめてくれた。とても落ち着いて、とても良い香りがした。行きたくない気持ちがぐっと沸いたけど、我慢することにする。行ったほうが私のためになるだろうし、お姉さまも安心できるはず。
「……行ってきます」
「うん。おめでとう。それじゃあね」
小樽に吹く風はどこまでも冷たかったけど、人の心は温かかった。最後にそれを知れて、名残惜しいと思えることは、きっといいことなんだろな。
人力車の座席は少し硬かったけど、これも私のために用意してもらったものだから、その感触がちょっと嬉しかった。
二十五年ほど前に小樽と余市の間の道路が開通した時は、細くて土がむき出しの道路だったらしいし、
「──そういうわけで、塩谷から道路が舗装されてったんだ。さて、昼飯も食ったし先を急ぎましょうや。この時期じゃ
「ええ、お願いします」
まだちょっとお尻が痛かったけど、暗くなって立ち往生するのは嫌だったし、我慢することにした。
しばらくは穏やかな感じの丘陵道だったけど、
身体が浮いたと思ったら、次の瞬間には海に落ちていたみたいで、できたばかりの擦り傷に塩水が染みて痛かった。海の中は暗くて冷たくて怖かったけど、泳ぎができない私には顔を出す術がなかったから、きっともう死ぬんだって思った。
観念してじたばたするのを止めると不思議と落ち着いてきて、ゆっくりと波に揺さぶられるのが心地よかった。今までで一番、生きた心地がした。息をすることができなくて苦しいはずなのに、それ以上に思い出に浸るのが楽しかった。
「小樽のお姉さま……心配しないでください。エイは無事に嫁ぎましたよ」
誰にも届かないと分かっていたけれど、この嘘が通れば心残りもなかった。泡になった言葉が海面に出て割れて、そのまま空にでも昇って海鳥が喰うかもしれない。馬鹿げたおかしな妄想だけど、そうなってくれたら小樽の誰かには届くかも。
「急に押し掛けるのはやめろ。俺は嫁など取らないんだ」
知らない人の声が聞こえた。私は今、どこにいるんだっけ? 彼はいったいどなたかしら。何を言ってるんだろう。文句なら山神か風の精にでも言って欲しいわ。
「邪険にしないで誰かさん。もうすぐに大人しくなるから」
「誰かさんじゃない。オタナイのサメだ。それをやめろと言ってるんだ」
「やめろと言われたって、どうすることもできやしないわよ」
「ああもう、仕方のない奴だな」
急に波が激しくなったと思ったら、背中の方にドンドンとぶつかる物があって、それがいつの間にか、息のできるところまで押し上げてくれた。着物の帯に何かが潜り込んでくる感触があって、それが浜に向かって進み始めた。
サメさんは私を助けてくれるみたい。嫌々言ってたけど、命の恩人だ。なんだか少し、テツさんに似てる気がしてきたなあ。
「ありがとう、サメさん。私は永子って言います」
今度は返事がなかった。聞こえていないだけ? へそでも曲げているのかも。どうでもいいや、お礼はちゃんと言えたんだし。きっと照れ隠しか、ほんとに相手したくないだけ。
助かったという実感が少しずつ湧いてきて、さっきまで自分が死にかけていたことを思い出すと、また急に怖くなってきた。でも、信じられないくらい疲れてたから、身じろぎ一つできなかった。
目を閉じたら、そのまま寝てしまった。
私の身体は浜にあって、波に打ち上げられた魚みたいになってたらしい。車夫が畚部村の男衆に助けを求めてくれたみたいで、私は中野さんという方の家で介抱してもらっていた。
中野さんとその奥さんが、命だけでも助かって良かったと言ってくれたけど、私が顔を向けると目を逸らした。
「ああ、その、なんだ……今日はここでゆっくりしていきなよ」
「ちょっと、あんた……っ! ねえ、怖かったでしょう? 落ち着いたら粥でも炊いてあげるから、よく温まっときなよ」
お言葉に甘えさせてもらうことにしたけど、身体が温まるほどに全身が痛んだ。それでも五体満足でいられたみたいだし、サメさんには感謝しかない。後で中野さん夫妻にも、ちゃんとお礼を言わなくちゃ。
「娘さんよ……」
ふと暗い声がかかった。車夫の声だ。
「なんですか?」
「俺は一足先に余市に行くとするよ。先方様にワケを話しとくし、余市から迎えを寄こすからさ」
まあ、言い訳がましいけど当然か。この人にだって生活があるから、ここで足止めなんて困るだろうし、この事故の被害者と言っていいもん。ましてや見合いに行く娘に何かあったとして、その責任を取れるような身分でもないだろうしなあ。
「わかりました。具合が良ければ明日にでも発ちたいですから、迎えはすぐにお願いしますね」
「ああ……」
そんな悲しそうな顔をされても困る。誰が悪いってわけでもないんだから、きっとこれは同情だよ。なんだか急に自分が可哀そうな奴に思えてきた。やめてよね。
戸の閉まる音がしてから、ちょっとしたら口論が聞こえてきた。外で中野さんの奥さんと揉めているらしい。
「あんたあの娘に何したんだい! 良からぬ企みでも持ってたんじゃないかい!」
「違う! 違う! 俺はただ運んでただけだよ。急に突風があったんだって!」
「だったらその申し開きを、向こうさんにしておやりなよ!」
「だから先に行くって言ってんだろ! 迎えの奴にも伝えとけば良いんだ!」
車輪の転がる音がして、車夫が発ったのが分かった。あの人は嘘を言ってないから、後で私のほうから言っておかないとな。はあ、別に自分じゃそんなに辛いとも思ってないんだけどなあ。
「まったく。自分の仕事を放り出すような男だよ、余計な勘繰りされたらどうすんだい。あの娘が哀れったらないよ……」
「哀れ、ね……」
私ってそんなに哀れかな? それほど何とも思っていないほうがおかしいのかも。でも、塞ぎ込むよりいいと思うんだけどな。中野さんの奥さんには悪気がないんだろうけど、嫌な気持ちにさせられちゃったなあ。
今日に出会ったばかりだから、お互いのことを良く知らなくて、心配は心配だけど他人にする心配というか、相手の心を思うんじゃなくて、自分の気持ちで推し量って決め付けてる。だから、私にとってはすごく残酷な言葉だった。
良かれと思ってやってくれてることに嫌悪する自分こそ、ほんとにみじめな奴なんだなって感じてきちゃった。それが一番心に苦しい。
「聞きたくなかったなあ……もう、お家に帰りたいなあ……」
でもダメ。お姉さまをがっかりさせたくない。だからもう弱音は吐きたくない。けれど、今はちょっと泣いていたい。
朝に目が覚めると、まず背中が痛かった。じんじんする。後、口のまわりがひりひりして、これも痒いんだか痛いんだか、どっちつかずで両方だから、いらいらさせられた。
起き上がるのには申し分なくて、二本足で立つこともできたから、思ってた通り出発できそうな状態だった。
「ほんとにもう大丈夫なのかい? 痛くないかい?」
「母さん、ここにゃお医者様もいないんだから、動けるうちに行かせたほうがいいだろうよ」
中野さんの奥さんはよっぽど心配性だったみたいだけど、旦那さんは現実的と言うか、流れてきた娘を近くに置いておくのが嫌みたい。狭い村だから、あっという間に噂が広がるだろうし、面倒なことを避けたいんだろうな。
「もう平気です。ありがとうございました」
ここにいたって余計な心配をかけ続けるだけだし、私も嫌な思いをするだけ。身請け人も私の到着を、今か今かと待ってくれてるだろうし、発たない理由がないよね。
昼頃になってようやく人力車が来てくれた。村の真ん中で中野さんの名前を呼んでたので、旦那さんが慌てた様子で止めに行ってた。中野さんの商店前に車が止まると、村中からの視線を集めてた。
「じゃ、お願いします」
「はいよ」
余市から交代でやってきた車夫は、前の人より若かった。たぶん無理を言われて断れなかった若手なんだろうなあ。ほんと、私のせいで皆が困ることになったみたいで、申し訳ないというか、悔しいと言うか……気が沈むなあ。
畚部橋を超えて村を出た後、しばらく進んで
登川を越えた所で、車夫が二つの川について話してくれた。
「この本道に並行してるのも登川だ。
鮭の身は小樽でも良く見たけど、鮭漁師の人が南部屋に来るところは見かけなかったな。それより海運業者か鰊漁師が多かったと思う。むしろほとんどその人らか、その人たちのために走り回ってるお役人さんかな。
「あっ、上ヨイチってのは幕府の頃の呼び名だ。余市川の東が上ヨイチ、目の前に見えてるのがそう。最近になって果樹の栽培を始めたらしい」
ああ、やけに山が切り開かれてると思ったら、果樹の栽培のためだったのね。それにしても幕府の頃か、もし父が生きていたとしたら……もっと早くにここに住んでいたのかな。
「そういえば、上……ってことは、下もあるんですか?」
「ああ、あるよ。上ヨイチの対岸が下ヨイチ。今じゃどっちも余市町だけど、本陣がある下ヨイチのほうが本当の余市町って感じだな」
「下ヨイチのほうが栄えてるんですね。やっぱり川があるからかしら」
「いや、余市川は上ヨイチのだ。昔は上ヨイチのが鮭が取れて偉かったらしいが、余市港で鰊を取るようになってからは、立場が逆転したんだと」
ふうん……魚にはそんなに詳しくないけど、鰊って言われて魚を食べたことないかも。テツさんは鰊が嫌いだったのかな?
「ニシンってそんなにおいしいのね」
「ええ? そりゃまあ、不味くはねえけど……鮭のほうがよっぽど美味いだろ。土人もこの時期になると採りに来てるしな」
ええ? どういうことだろ……量が取れるってことなのかしら。今度鰊って魚がどういうのか見てみたいな。後、生きてる鮭も。
「ああ、ちょうどそこに土人がいるな。
すすけた白地に紺色の模様が入った服を着た二人組の男だ。確かに、あんまり見たことない服装の人たちだなあ。着物とは違うみたいだけど、どことなく似ているような気もする。
ただ、南部屋で似たような服をたまーに見かけたかも。そっちはもっと赤茶けた服を着てたような……確かテツさんはアイヌとか呼んでたかな。薬だか染料だかを持ってくる人たちだったはず。
「ご先祖様と戦争してた奴らだ。
それはごもっとも。やっぱり面倒に感じてたのね。まあ、正直に言ってくれるだけ私は気が楽だけど。
「奴らに言わせたらヨイチは余市川のことだから、地名で言えばイヨチらしい。昔はこの辺りにいくつか土人の集落があったみたいだが、今は北の山のほうに押し込まれてる」
かわいそうに。北の山って言うと、たぶん下ヨイチのほうのことを言ってるのかな。まさか、あんな切り立った山の方から来てるの? ほとんど畚部の岩山と変わらないように見えるんだけど。
「あそこじゃヌチ川くらいしかないんだが、そんなに鮭が採れないからな。ただまあ、昔みたいな縄張り争いはなくなったから、こうやってこっちの川に来たんだろ」
そっか、大変そうに思えたけど、余市町じゃ鰊に夢中だから、鮭を採りやすくなったんだ。おまけにこれから果樹畑が増えていくなら、鮭漁が競合するのも減りそうね。
車夫は色々と話しをしながら道を進んでいて、小舟の並んだのどかな漁村の風景がとても綺麗だった。余市川にぶつかると、一旦車を降りて船に乗ることになった。
「渡し舟だ。ここで渡っておいたほうが楽でいい」
産まれて初めて船にも乗れたけど、はっきり言って全然良くない。地に足が付かないというか、落ち着けないし揺さぶられて気持ちが悪い。
「吐くなら外にしてくんな」
船に乗っていたのは少しの間だったけど、降りたらもう感動だった。ちゃんと両足で立てることが、こんなに素晴らしいことだったとは。
「はやく座ってくれ。この後は山道を登って山田村に向かう。庭に真っ赤な実を付けた木が成ってる家が目印だ。一緒に探してくれ」
「それはいいけど……おかしいわ。前の人は先に行って連絡しておくって言ってたのに」
「そんなことだろうと思ってたよ。まあ、期待しないでくれ。年寄はやり口がセコいからな」
あーあ、ろくでもない。うっすらだけど期待してたんだけどなあ。でもまあ、赤なんてそうそう見ない色だし、すぐわかるはず。
「見付けた。あの家だろ」
車夫が指差した先は……あ、本当だ。真っ赤だ。
「綺麗ね」
「ああ……」
何よ。さっきまでは色々と喋ってくれてたのに。今更そんな無口になるなんて。
「それじゃあ、俺はここまでだ。帰りも必要なら、この道を降りて運上屋の近くで人を探しな」
さっきまでの観光気分が一気に吹っ飛んで、なんだかすごく緊張してきた。目の前にあるのは、何の変哲もない木造の家。私はその戸を叩くだけ。なんてことないじゃない。なのに、なんでこんなに不安なんだろう。
「ごめんください」
「はい?」
女性の声だ。おかしいな、来るべき家を間違えたかな?
「南部屋の永子です。身請けをして頂きました」
家の中から何かが倒れるような、ものすごい音が聞こえた。続いてさっきの女の人の怒ったような声。
「あなた、どういうことなのですか?」
「ちゃんと話すから、今は待ってくれ。お客様を待たせているだろう」
戸が開くと、品のある女性が迎えてくれた。でも、すぐにすごい悲鳴が上がって、後ろから旦那さんがやってきた。
「あっ、あっ! 口裂け! 物の怪の類か!?」
「違います……永子です。どうしたのですか?」
返事もなく戸が閉まると、中から閂のようなものを掛ける音がした。どうやら私は歓迎されていないらしい。呼び立てておいてこの仕打ちはひどいじゃない。
ただまあ、畚部村でのことで薄々気づいてはいたのよね。今まで会って来た人たちはそんなに驚かなかったから、きっと気のせいだと思うようにしてたんだけど……私はもう、目に見えて傷物になってたんだわ。
これじゃ見合いどころじゃない。誰も私をもらってくれない。それに、こんなに恐れられるような姿で小樽に戻るわけにもいかない。もし、お姉さまにまで拒絶されてしまったら、その時はもう……そんなの嫌だ。
これからどうしよう……ただじっと、赤い木の実を眺めることしかできない。
「あなた……」
「ああ、私はなんてことを……」
「どういうことなのか、教えてくださいますね?」
「ああ……小瀬の生き残りの子を覚えているだろう……タルナイの女郎屋が移転していて、なかなか見つけられなかったが、まだあの町にいたのだ──」
ああ、ひっそりと夫婦の声が聞こえてくる。聞いちゃいけない話だと思う。でも、ここから動く気力がない。
「──楼主に尋ねてみたら、金はいらないから持って行けと言われた。だが、私にはお前がいるし、いっそ養子にでもしようかと考えていたのだが……いずれにせよ今更な話だから、本人の意志を聞こうと思っていたのだ」
「……私があんな声を上げてしまったから……ああ……」
夫婦のすすり泣き。また迷惑をかけてしまった。きっとこの先もこうなるんだろう。先があればだけど。
たぶん今また尋ねれば、あの夫婦は迎え入れてくれると思う。でも、あんな風に驚かれるくらいなんだから、私が近くにいたらきっと相当な無理になる。気を遣わせてまでいたくない。
全てはあの時、海に落ちてから。きっとこれが、私の運命。思えば私を助けてくれたあの方は、きっと海の神様か何かだったのかも。だとすればもう、私に起きたことはその御業か何かなんだわ。
「せっかく助けて頂いた命ですが、特に使えることがありそうにないです……」
お返ししよう。あそこに戻ろう。お金もないから一人で行くしかない。とても危険なことだけど、今の私をさらおうなんてもの好きはいないでしょう。
野宿を挟んで三日。飲まず食わずで限界ながら、再び畚部の地にやってまいりましたとさ。さて、この物語の結末は果たして、めでたしめでたしなのかしら。
全ては私の気の持ちよう次第かな? 今ならわかるけど、私はお姉さまのことばっかり考えてたから、自分がどうなろうとそんなに気にしないね。それがやっぱり変だなって、気づけたから良し。
畚部岬からの眺めは最高ね。一思いに行きましょう。
今度は自分の意志で、海の中に飛び込んだ。
「神様、先日はありがとうございました。頂いた命を返しに参りました」
誰からの返事もなかったけれど、ふと目を開いてみると
「貴方が神様? 私を食べるの?」
不意に目の前が真っ暗になって、最期の時が来たんだなって感じた。
「いいや、食べはしない……」
意識を手放す直前に聞こえた声は、私を助けてくれた人のものだった。
夜、潮が引いた後の岬のすぐ下で、私は横になっていた。その私の顔を覗き込む人がいて、その人は私に膝枕をしてくれていた。
切れ長の鋭い目と、大きな口。端正な顔立ちをした男性だった。およそ私が今まで見てきた男たちの中で、一番の美貌の持ち主だった。だから、一目見て神様だと分かった。
「否定……されませんでしたね。サメさんは、神様なのですね」
「そのようなたいそうなものではない……」
もう十分たいそうなんですけどね。
「また、助けて頂きましたね。でも、もういいのです。お命お返しします」
「前にもやめろと言っただろう。今度は自ら飛び込むのを見た。いったい、何がいいと言うんだ」
「生きることです。この身ではもう、やっていけないのです」
「それは……その顔の傷のせいなのか?」
「はい。この顔では誰も娶ってはくれませんから」
サメさん? どうしてそんな辛そうな顔をされるのですか?
「あの時……嫁ぐだなんだと言っていたのは、そういうことだったのか」
うん? 気付いていなかったのかしら。何か勘違いしていたとか? でも、だからって何も変わらないですよね。
「その傷がなければ、お前は生きていられたのか?」
「恐らくは……はい」
「俺のせいで、お前は死ぬというのか……」
「違います。あれは事故でしたから」
「違わないさ。あれは俺がやったんだ。その責任をとらなくては」
そこまで言うならそうなのかも。だとして、起こってしまったことは起こってしまったことなんだから、なかったことにはできませんよね。神様の責任の取り方って、いったいどうやるんでしょう。
「お前が生きていられるように、希望を与えてやらなくては」
「では、具体的にどんなものを頂けるのですか?」
「そうだな、何か欲しい物はないか?」
ふふっ。いいことを思い付いちゃった。
「欲しいものがあります」
「いいだろう。それを与えよう」
言質頂きました。遠慮はしませんよ。
「私を貴方の妻にしてください。そうすれば一人じゃありません。生きていくことができるのです」
「それは……そんなことでか?」
はい。それはもう。
「貴方が付けてくださった傷が、私の生きる意味になるのです」
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