会津のエイと小樽のサメ 明治初期・札幌県小樽郡の逆龍宮

まだ温かい

第1話 出会い

 物心ついた時から両親はいなかったし、その顔を思い出すこともなかった。私は青楼セイロウのお姉さま方に育ててもらったから、漠然と同じ道を進むんだろうなと思ってた。でも、そろそろ大人になる頃になって、澪標ミオツクシお姉さまから実の母について聞かされた。


 自分が何者なのか、少なからず気になってはいたけれど、知ってしまえば何てことはなかった。私は会津アイヅ藩士の娘らしいけど、ふーんって感じだった。小瀬オゼエイという名前に、何にも感じなかった。


 母は私に、藩のために生きることを望んでいたみたいだけど、お姉さまは反対してくれた。小樽オタルにいた会津藩士たちは、私を置いて余市ヨイチに行ってしまったんだから、今更になって義理を感じる必要はないって、言ってくれた。


 だから私は、この青楼・南部屋ナンブヤで暮らそうかと思ったのだけど、お姉さまに怒られてしまった。何の意志もなく女郎ジョロウになるということは、自らの人生を諦めることだって、子供の頃に訳も分からず連れて来られた子たちに、そんな成り立ちを言えるのかって叱ってくれた。


 お姉さまは、男を遊ばせるために生かされていたことを、とても辛かったと教えてくれた。凛としていて美しくて、いっつも自信に溢れていたのに、私のために泣いてくれた。私が見ていたお姉さまの姿は偽物で、身を売るためのまやかしだったんだ。


 お姉さま方が私を護ってくれたから、ある程度自由に生きていられたんだ。普通だったら身寄りのない私は、他の子と同じように女郎にさせられていたはずなのに。


 手習いや算盤ソロバンを真面目に教わっておけばよかった。今更になって、真面目に生きなくちゃと思い始めてきた。お姉さまをがっかりさせたくないって気持ちが、強く湧いていた。


南部屋未通女小年増ナンブヤノオボコヒショウトシマ────小瀬永子オゼエイコ




 明治十六年、西暦1883年。昨年二月の開拓使廃止によって、北海道は新たな時代を迎えていた。エイの恋愛物語は、この年の札幌県は小樽群から始まった。




永子エイコ、永子! 早くこっちへ来なさい」


 テツさんの声だ。南部屋の楼主ロウシュでこの辺りで一番の芸妓ゲイギ。ただここに住んでいるだけの私のことを嫌ってる。早く行かないと。


「はい! 永子です。今行きます!」


 板木の床を蹴って駆けてたら、途中に禿カムロの子を脅かしちゃった。後で謝っておかないとだけど、今はテツさんを怒らせないようにしなくちゃいけない。こんな朝に呼ばれるなんて、きっとろくでもないことに違いないから。


「遅かったじゃないか。でもいいさ、あんたを身請けしたいって話を受けたからね。ただでくれてやるって言っといたよ」

「そんな! 急すぎます! それに、いったいどなたなのですか?」


 あー……しまった。口答えしちゃった。


「急も何もあんたは年増だし、ろくに男も取れないでしょうが! 行けばわかるから、とっとと出ておいき! もう帰ってくるんじゃないよ!」


 やっぱりだよ。女郎として働いていないんだから、仕方ないってわかるけどさ、でも新造シンゾの子らくらいの裏方はやってきたじゃない。そんなに怒らなくてもいいのに。


 とにかく、南部屋に置いてもらっていた以上、楼主の決定には逆らえない。観念して出ていくっきゃない。


「永子、おめでとう」


 澪標お姉さまだ。身請けの送別にしては耳が早いというか、行動するのが早いなあ。


「ありがとうございます。お姉さま。でも、どうしてこのことを?」

「テツさんから話を聞いたからよ。力車リキシャが来るまで時間があるから、ちょっと話しましょう」


 なるほどなあ、確かに、お姉さまが一番私の面倒を見てくれてたから、その私のこととなれば、テツさんも伝えないわけにはいかないか。まあ、そんなことよりも、お世話になったお姉さまと別れるのが辛いや。


「どうしたの? 何だか複雑そうな顔しちゃって」

「いやあ……私が身請けって変な話ですし、何だか実感が湧かないのですけど、お姉さまと離れるのは寂しいなって思って」


「ふふ。私も寂しいわ。それに、テツさんもね」


 お姉さまったら、言うほど寂しそうな顔に見えないし、むしろなんだか嬉しそう……って、えっ? どういうこと?


「テツさんが?」

「そうよ。あんな言い方してたけど、本当は貴方のことを心配してるんだから。身請けの話だって、貴方には身代金がないから、お金を取らないって言ってたしね」


 何だか意外だな。経営者なだけあってお金にがめついと思ってたのに。それに、あれで照れ隠しをしてたと知っちゃうと、なんかこそばゆい。


「行き先は余市町よ。相手は元会津藩士なんだって。今更どういう風の吹き回しかは分からないけど、真面目に開拓を続けている人たちだから、貴方をまかせられるって考えて、テツさんはお金を取らなかったのかもね」

「そう……ですか。なんか、私が思ってたより随分優しい人なんですね。テツさんって……」


 もうずっと怒られてばかりだったから、てっきり嫌われてるものだと思ってたけど、お姉さまに言われてみれば、私のためにやってくれてたのかな。それならそうと言ってくれれば良かったのにな。


「私たちみたいな弱い立場の女をさ、食わせるために仕事をくれてるんだよ。女だけで生きていくために、厳しい物の見方をしてるけどね、本当はすごく優しいんだ」


 お姉さまが遠くを見るような、しみじみとした目をしてるんだから、きっと本心から出てきた言葉なんだろうな。信じられないけどなあ。


「でも、女の子を買ってるよ?」

「テツさんがいなかったら、ろくでもない男たちに買われてたかもね。それに、大した値段も付かずに家族も助からなかったかも」


 そう言われてみれば、そうなのかも。遊郭があるから女衒ゼゲンがのさばると思ってたけど、一度でも女郎屋ができて女衒がいついたら、例え女郎屋がなくなっても人さらいは止まんないか。


 テツさんのこと、今でも良い人とは思えないけど……前ほど嫌な人だとは思えなくなってきちゃったな。この身請けの話だって、ろくに奉公もしてこなかった私が困らないように、まともな人に嫁がせようとしてるわけだもんね。


「そろそろ力車が来るわ。身請けとは言ったけど、お金を取ってない以上は反故ホゴにされてもおかしくないの。縁談のようなものだから、見合いには全力で挑むのよ」

「はい、お姉さま。最後までありがとうござ──」


 お姉さまがぎゅっと抱きしめてくれた。とても落ち着いて、とても良い香りがした。行きたくない気持ちがぐっと沸いたけど、我慢することにする。行ったほうが私のためになるだろうし、お姉さまも安心できるはず。


「……行ってきます」

「うん。おめでとう。それじゃあね」


 小樽に吹く風はどこまでも冷たかったけど、人の心は温かかった。最後にそれを知れて、名残惜しいと思えることは、きっといいことなんだろな。


 人力車の座席は少し硬かったけど、これも私のために用意してもらったものだから、その感触がちょっと嬉しかった。




 住ノ江スミノエ町から発った後しばらくして、塩谷シオヤ村と桃内モモナイ村を通って、忍路オショロ海岸の南に到着してたみたい。私はずっと小樽にいたから土地に明るくないし、車夫シャフに聞いた話だけども。


 二十五年ほど前に小樽と余市の間の道路が開通した時は、細くて土がむき出しの道路だったらしいし、畚部フゴッペ岬の丘陵地帯が岩山の悪路で、慣れた人でも通るのに苦労したみたい。今では小樽と札幌サッポロ間の道路と同じとまではいかないものの、整備された上にトンネルが開通して、人力車が通れるようになったんだって。


「──そういうわけで、塩谷から道路が舗装されてったんだ。さて、昼飯も食ったし先を急ぎましょうや。この時期じゃニシンもやってないから、道草食ってもしょうがないんでね」

「ええ、お願いします」


 まだちょっとお尻が痛かったけど、暗くなって立ち往生するのは嫌だったし、我慢することにした。


 しばらくは穏やかな感じの丘陵道だったけど、蘭島ランシマ村の辺りから見える道の先が険しくて、それが畚部の岩山だってすぐに分かった。畚部トンネルを通り過ぎて畚部村に差し掛かった時、突然海に向けた突風に吹かれた。


 身体が浮いたと思ったら、次の瞬間には海に落ちていたみたいで、できたばかりの擦り傷に塩水が染みて痛かった。海の中は暗くて冷たくて怖かったけど、泳ぎができない私には顔を出す術がなかったから、きっともう死ぬんだって思った。


 観念してじたばたするのを止めると不思議と落ち着いてきて、ゆっくりと波に揺さぶられるのが心地よかった。今までで一番、生きた心地がした。息をすることができなくて苦しいはずなのに、それ以上に思い出に浸るのが楽しかった。


「小樽のお姉さま……心配しないでください。エイは無事に嫁ぎましたよ」


 誰にも届かないと分かっていたけれど、この嘘が通れば心残りもなかった。泡になった言葉が海面に出て割れて、そのまま空にでも昇って海鳥が喰うかもしれない。馬鹿げたおかしな妄想だけど、そうなってくれたら小樽の誰かには届くかも。


「急に押し掛けるのはやめろ。俺は嫁など取らないんだ」


 知らない人の声が聞こえた。私は今、どこにいるんだっけ? 彼はいったいどなたかしら。何を言ってるんだろう。文句なら山神か風の精にでも言って欲しいわ。


「邪険にしないで誰かさん。もうすぐに大人しくなるから」

「誰かさんじゃない。オタナイのサメだ。それをやめろと言ってるんだ」


「やめろと言われたって、どうすることもできやしないわよ」

「ああもう、仕方のない奴だな」


 急に波が激しくなったと思ったら、背中の方にドンドンとぶつかる物があって、それがいつの間にか、息のできるところまで押し上げてくれた。着物の帯に何かが潜り込んでくる感触があって、それが浜に向かって進み始めた。


 サメさんは私を助けてくれるみたい。嫌々言ってたけど、命の恩人だ。なんだか少し、テツさんに似てる気がしてきたなあ。


「ありがとう、サメさん。私は永子って言います」


 今度は返事がなかった。聞こえていないだけ? へそでも曲げているのかも。どうでもいいや、お礼はちゃんと言えたんだし。きっと照れ隠しか、ほんとに相手したくないだけ。


 助かったという実感が少しずつ湧いてきて、さっきまで自分が死にかけていたことを思い出すと、また急に怖くなってきた。でも、信じられないくらい疲れてたから、身じろぎ一つできなかった。


 目を閉じたら、そのまま寝てしまった。


 私の身体は浜にあって、波に打ち上げられた魚みたいになってたらしい。車夫が畚部村の男衆に助けを求めてくれたみたいで、私は中野さんという方の家で介抱してもらっていた。


 中野さんとその奥さんが、命だけでも助かって良かったと言ってくれたけど、私が顔を向けると目を逸らした。


「ああ、その、なんだ……今日はここでゆっくりしていきなよ」

「ちょっと、あんた……っ! ねえ、怖かったでしょう? 落ち着いたら粥でも炊いてあげるから、よく温まっときなよ」


 お言葉に甘えさせてもらうことにしたけど、身体が温まるほどに全身が痛んだ。それでも五体満足でいられたみたいだし、サメさんには感謝しかない。後で中野さん夫妻にも、ちゃんとお礼を言わなくちゃ。


「娘さんよ……」


 ふと暗い声がかかった。車夫の声だ。


「なんですか?」

「俺は一足先に余市に行くとするよ。先方様にワケを話しとくし、余市から迎えを寄こすからさ」


 まあ、言い訳がましいけど当然か。この人にだって生活があるから、ここで足止めなんて困るだろうし、この事故の被害者と言っていいもん。ましてや見合いに行く娘に何かあったとして、その責任を取れるような身分でもないだろうしなあ。


「わかりました。具合が良ければ明日にでも発ちたいですから、迎えはすぐにお願いしますね」

「ああ……」


 そんな悲しそうな顔をされても困る。誰が悪いってわけでもないんだから、きっとこれは同情だよ。なんだか急に自分が可哀そうな奴に思えてきた。やめてよね。


 戸の閉まる音がしてから、ちょっとしたら口論が聞こえてきた。外で中野さんの奥さんと揉めているらしい。


「あんたあの娘に何したんだい! 良からぬ企みでも持ってたんじゃないかい!」

「違う! 違う! 俺はただ運んでただけだよ。急に突風があったんだって!」


「だったらその申し開きを、向こうさんにしておやりなよ!」

「だから先に行くって言ってんだろ! 迎えの奴にも伝えとけば良いんだ!」


 車輪の転がる音がして、車夫が発ったのが分かった。あの人は嘘を言ってないから、後で私のほうから言っておかないとな。はあ、別に自分じゃそんなに辛いとも思ってないんだけどなあ。


「まったく。自分の仕事を放り出すような男だよ、余計な勘繰りされたらどうすんだい。あの娘が哀れったらないよ……」


「哀れ、ね……」


 私ってそんなに哀れかな? それほど何とも思っていないほうがおかしいのかも。でも、塞ぎ込むよりいいと思うんだけどな。中野さんの奥さんには悪気がないんだろうけど、嫌な気持ちにさせられちゃったなあ。


 今日に出会ったばかりだから、お互いのことを良く知らなくて、心配は心配だけど他人にする心配というか、相手の心を思うんじゃなくて、自分の気持ちで推し量って決め付けてる。だから、私にとってはすごく残酷な言葉だった。


 良かれと思ってやってくれてることに嫌悪する自分こそ、ほんとにみじめな奴なんだなって感じてきちゃった。それが一番心に苦しい。


「聞きたくなかったなあ……もう、お家に帰りたいなあ……」


 でもダメ。お姉さまをがっかりさせたくない。だからもう弱音は吐きたくない。けれど、今はちょっと泣いていたい。




 朝に目が覚めると、まず背中が痛かった。じんじんする。後、口のまわりがひりひりして、これも痒いんだか痛いんだか、どっちつかずで両方だから、いらいらさせられた。


 起き上がるのには申し分なくて、二本足で立つこともできたから、思ってた通り出発できそうな状態だった。


「ほんとにもう大丈夫なのかい? 痛くないかい?」

「母さん、ここにゃお医者様もいないんだから、動けるうちに行かせたほうがいいだろうよ」


 中野さんの奥さんはよっぽど心配性だったみたいだけど、旦那さんは現実的と言うか、流れてきた娘を近くに置いておくのが嫌みたい。狭い村だから、あっという間に噂が広がるだろうし、面倒なことを避けたいんだろうな。


「もう平気です。ありがとうございました」


 ここにいたって余計な心配をかけ続けるだけだし、私も嫌な思いをするだけ。身請け人も私の到着を、今か今かと待ってくれてるだろうし、発たない理由がないよね。


 昼頃になってようやく人力車が来てくれた。村の真ん中で中野さんの名前を呼んでたので、旦那さんが慌てた様子で止めに行ってた。中野さんの商店前に車が止まると、村中からの視線を集めてた。


「じゃ、お願いします」

「はいよ」


 余市から交代でやってきた車夫は、前の人より若かった。たぶん無理を言われて断れなかった若手なんだろうなあ。ほんと、私のせいで皆が困ることになったみたいで、申し訳ないというか、悔しいと言うか……気が沈むなあ。


 畚部橋を超えて村を出た後、しばらく進んでノボリ川を越えれば余市町みたい。ただ、余市町は元々二つあった場所が一つになってできたみたいで、町を縦断する余市川によって東西に分かれてるらしい。


 登川を越えた所で、車夫が二つの川について話してくれた。


「この本道に並行してるのも登川だ。カミヨイチを囲うようにして、二手に分かれて余市川と合流してる。だから毎年春になると雪解けで氾濫すんだ。でも、余市川ほどじゃないにしても、まあまあ鮭が取れるんだ」


 鮭の身は小樽でも良く見たけど、鮭漁師の人が南部屋に来るところは見かけなかったな。それより海運業者か鰊漁師が多かったと思う。むしろほとんどその人らか、その人たちのために走り回ってるお役人さんかな。


「あっ、上ヨイチってのは幕府の頃の呼び名だ。余市川の東が上ヨイチ、目の前に見えてるのがそう。最近になって果樹の栽培を始めたらしい」


 ああ、やけに山が切り開かれてると思ったら、果樹の栽培のためだったのね。それにしても幕府の頃か、もし父が生きていたとしたら……もっと早くにここに住んでいたのかな。


「そういえば、上……ってことは、下もあるんですか?」

「ああ、あるよ。上ヨイチの対岸が下ヨイチ。今じゃどっちも余市町だけど、本陣がある下ヨイチのほうが本当の余市町って感じだな」


「下ヨイチのほうが栄えてるんですね。やっぱり川があるからかしら」

「いや、余市川は上ヨイチのだ。昔は上ヨイチのが鮭が取れて偉かったらしいが、余市港で鰊を取るようになってからは、立場が逆転したんだと」


 ふうん……魚にはそんなに詳しくないけど、鰊って言われて魚を食べたことないかも。テツさんは鰊が嫌いだったのかな?


「ニシンってそんなにおいしいのね」

「ええ? そりゃまあ、不味くはねえけど……鮭のほうがよっぽど美味いだろ。土人もこの時期になると採りに来てるしな」


 ええ? どういうことだろ……量が取れるってことなのかしら。今度鰊って魚がどういうのか見てみたいな。後、生きてる鮭も。


「ああ、ちょうどそこに土人がいるな。トロ川で満足に鮭が採れなかったのかも知れねえ」


 すすけた白地に紺色の模様が入った服を着た二人組の男だ。確かに、あんまり見たことない服装の人たちだなあ。着物とは違うみたいだけど、どことなく似ているような気もする。


 ただ、南部屋で似たような服をたまーに見かけたかも。そっちはもっと赤茶けた服を着てたような……確かテツさんはアイヌとか呼んでたかな。薬だか染料だかを持ってくる人たちだったはず。


「ご先祖様と戦争してた奴らだ。樺太カラフトのほうまで繋がりがあるんだと。あんまりじろじろ見てやんないでくれよな。厄介ごとに巻き込まれるのは、もうごめんなんだ」


 それはごもっとも。やっぱり面倒に感じてたのね。まあ、正直に言ってくれるだけ私は気が楽だけど。


「奴らに言わせたらヨイチは余市川のことだから、地名で言えばイヨチらしい。昔はこの辺りにいくつか土人の集落があったみたいだが、今は北の山のほうに押し込まれてる」


 かわいそうに。北の山って言うと、たぶん下ヨイチのほうのことを言ってるのかな。まさか、あんな切り立った山の方から来てるの? ほとんど畚部の岩山と変わらないように見えるんだけど。


「あそこじゃヌチ川くらいしかないんだが、そんなに鮭が採れないからな。ただまあ、昔みたいな縄張り争いはなくなったから、こうやってこっちの川に来たんだろ」


 そっか、大変そうに思えたけど、余市町じゃ鰊に夢中だから、鮭を採りやすくなったんだ。おまけにこれから果樹畑が増えていくなら、鮭漁が競合するのも減りそうね。


 車夫は色々と話しをしながら道を進んでいて、小舟の並んだのどかな漁村の風景がとても綺麗だった。余市川にぶつかると、一旦車を降りて船に乗ることになった。


「渡し舟だ。ここで渡っておいたほうが楽でいい」


 産まれて初めて船にも乗れたけど、はっきり言って全然良くない。地に足が付かないというか、落ち着けないし揺さぶられて気持ちが悪い。


「吐くなら外にしてくんな」


 船頭センドウは薄情、私は吐くジョ。はあ、お姉さまほどうまくできないわ。言葉遊びって、思いの外難しい。


 船に乗っていたのは少しの間だったけど、降りたらもう感動だった。ちゃんと両足で立てることが、こんなに素晴らしいことだったとは。


「はやく座ってくれ。この後は山道を登って山田村に向かう。庭に真っ赤な実を付けた木が成ってる家が目印だ。一緒に探してくれ」


「それはいいけど……おかしいわ。前の人は先に行って連絡しておくって言ってたのに」

「そんなことだろうと思ってたよ。まあ、期待しないでくれ。年寄はやり口がセコいからな」


 あーあ、ろくでもない。うっすらだけど期待してたんだけどなあ。でもまあ、赤なんてそうそう見ない色だし、すぐわかるはず。


「見付けた。あの家だろ」


 車夫が指差した先は……あ、本当だ。真っ赤だ。


「綺麗ね」

「ああ……」


 何よ。さっきまでは色々と喋ってくれてたのに。今更そんな無口になるなんて。


「それじゃあ、俺はここまでだ。帰りも必要なら、この道を降りて運上屋の近くで人を探しな」


 さっきまでの観光気分が一気に吹っ飛んで、なんだかすごく緊張してきた。目の前にあるのは、何の変哲もない木造の家。私はその戸を叩くだけ。なんてことないじゃない。なのに、なんでこんなに不安なんだろう。




「ごめんください」

「はい?」


 女性の声だ。おかしいな、来るべき家を間違えたかな?


「南部屋の永子です。身請けをして頂きました」


 家の中から何かが倒れるような、ものすごい音が聞こえた。続いてさっきの女の人の怒ったような声。


「あなた、どういうことなのですか?」

「ちゃんと話すから、今は待ってくれ。お客様を待たせているだろう」


 戸が開くと、品のある女性が迎えてくれた。でも、すぐにすごい悲鳴が上がって、後ろから旦那さんがやってきた。


「あっ、あっ! 口裂け! 物の怪の類か!?」

「違います……永子です。どうしたのですか?」


 返事もなく戸が閉まると、中から閂のようなものを掛ける音がした。どうやら私は歓迎されていないらしい。呼び立てておいてこの仕打ちはひどいじゃない。


 ただまあ、畚部村でのことで薄々気づいてはいたのよね。今まで会って来た人たちはそんなに驚かなかったから、きっと気のせいだと思うようにしてたんだけど……私はもう、目に見えて傷物になってたんだわ。


 これじゃ見合いどころじゃない。誰も私をもらってくれない。それに、こんなに恐れられるような姿で小樽に戻るわけにもいかない。もし、お姉さまにまで拒絶されてしまったら、その時はもう……そんなの嫌だ。


 これからどうしよう……ただじっと、赤い木の実を眺めることしかできない。


「あなた……」

「ああ、私はなんてことを……」


「どういうことなのか、教えてくださいますね?」

「ああ……小瀬の生き残りの子を覚えているだろう……タルナイの女郎屋が移転していて、なかなか見つけられなかったが、まだあの町にいたのだ──」


 ああ、ひっそりと夫婦の声が聞こえてくる。聞いちゃいけない話だと思う。でも、ここから動く気力がない。


「──楼主に尋ねてみたら、金はいらないから持って行けと言われた。だが、私にはお前がいるし、いっそ養子にでもしようかと考えていたのだが……いずれにせよ今更な話だから、本人の意志を聞こうと思っていたのだ」

「……私があんな声を上げてしまったから……ああ……」


 夫婦のすすり泣き。また迷惑をかけてしまった。きっとこの先もこうなるんだろう。先があればだけど。


 たぶん今また尋ねれば、あの夫婦は迎え入れてくれると思う。でも、あんな風に驚かれるくらいなんだから、私が近くにいたらきっと相当な無理になる。気を遣わせてまでいたくない。


 全てはあの時、海に落ちてから。きっとこれが、私の運命。思えば私を助けてくれたあの方は、きっと海の神様か何かだったのかも。だとすればもう、私に起きたことはその御業か何かなんだわ。


「せっかく助けて頂いた命ですが、特に使えることがありそうにないです……」


 お返ししよう。あそこに戻ろう。お金もないから一人で行くしかない。とても危険なことだけど、今の私をさらおうなんてもの好きはいないでしょう。


 野宿を挟んで三日。飲まず食わずで限界ながら、再び畚部の地にやってまいりましたとさ。さて、この物語の結末は果たして、めでたしめでたしなのかしら。


 全ては私の気の持ちよう次第かな? 今ならわかるけど、私はお姉さまのことばっかり考えてたから、自分がどうなろうとそんなに気にしないね。それがやっぱり変だなって、気づけたから良し。


 畚部岬からの眺めは最高ね。一思いに行きましょう。


 今度は自分の意志で、海の中に飛び込んだ。


「神様、先日はありがとうございました。頂いた命を返しに参りました」


 誰からの返事もなかったけれど、ふと目を開いてみるとフカがいた。口を閉じているようだったけど、鋭い目をこちらに向けていて、いつでも丸かじりにされそうだった。そのつもりがないのであれば、何かを考えているようにも見えた。


「貴方が神様? 私を食べるの?」


 不意に目の前が真っ暗になって、最期の時が来たんだなって感じた。


「いいや、食べはしない……」


 意識を手放す直前に聞こえた声は、私を助けてくれた人のものだった。


 夜、潮が引いた後の岬のすぐ下で、私は横になっていた。その私の顔を覗き込む人がいて、その人は私に膝枕をしてくれていた。


 切れ長の鋭い目と、大きな口。端正な顔立ちをした男性だった。およそ私が今まで見てきた男たちの中で、一番の美貌の持ち主だった。だから、一目見て神様だと分かった。


「否定……されませんでしたね。サメさんは、神様なのですね」

「そのようなたいそうなものではない……」


 もう十分たいそうなんですけどね。


「また、助けて頂きましたね。でも、もういいのです。お命お返しします」

「前にもやめろと言っただろう。今度は自ら飛び込むのを見た。いったい、何がいいと言うんだ」


「生きることです。この身ではもう、やっていけないのです」

「それは……その顔の傷のせいなのか?」


「はい。この顔では誰も娶ってはくれませんから」


 サメさん? どうしてそんな辛そうな顔をされるのですか?


「あの時……嫁ぐだなんだと言っていたのは、そういうことだったのか」


 うん? 気付いていなかったのかしら。何か勘違いしていたとか? でも、だからって何も変わらないですよね。


「その傷がなければ、お前は生きていられたのか?」


「恐らくは……はい」


「俺のせいで、お前は死ぬというのか……」

「違います。あれは事故でしたから」


「違わないさ。あれは俺がやったんだ。その責任をとらなくては」


 そこまで言うならそうなのかも。だとして、起こってしまったことは起こってしまったことなんだから、なかったことにはできませんよね。神様の責任の取り方って、いったいどうやるんでしょう。


「お前が生きていられるように、希望を与えてやらなくては」

「では、具体的にどんなものを頂けるのですか?」


「そうだな、何か欲しい物はないか?」


 ふふっ。いいことを思い付いちゃった。


「欲しいものがあります」

「いいだろう。それを与えよう」


 言質頂きました。遠慮はしませんよ。


「私を貴方の妻にしてください。そうすれば一人じゃありません。生きていくことができるのです」

「それは……そんなことでか?」


 はい。それはもう。


「貴方が付けてくださった傷が、私の生きる意味になるのです」

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