第6話 祖父の死んだ日に階段を上って来たものは……
上半分が白く平らになった帽子をかぶったタクシー運転手は、一言も話すことなく、同じく無言の3人を乗せ、海岸線の細い道を祖父の待つ家へと向かった。積丹半島を一周できる道路が開通している現在と違って、岩内から余市、古平、美国というルートとなるため、車で1時間半はかかる。
祖父の家に着く直前には大きな川が流れ、私の住んでいた頃と違ってコンクリートになった永久橋が架かっている。夕日の時間にはまだ早いけれども太陽は水平線に近づいて来ていた。
川を渡る橋まで来た。もう数百メートルも走ると祖父の家に着く。左手に河口、その先に広がる穏やかな海が、傾きかけた陽光をうけてきらめいているのが見えた。父がこの時、時計に目をやり「4時16分か」と独り言を言った。と同時に、左手の河口付近から大きな光がパッと上がってきた。3人はそれに気づき、ほぼ同時に河口に目をやった。ほんの一瞬だったが、もう一度川面に光が走り、橋の下へと向かって消えた。何の光なのか分からないまま、3人は川面に目をやっていたが、すぐに橋を渡りきり、祖父の家の玄関前にタクシーは止まった。
この時にはもうコンクリート敷きになっていた玄関の土間に足を踏み入れると、私たち一家がここに住んでいる頃から頻繁に出入りしていたおばさん達(おばあさん達)がそろって顔をのぞかせた。
「遅かったよ!」
「たった今だったよ。」
臨終を確認した医師が「4時16分でした。」と父に伝えた。私と姉とは顔を見合わせた。それはちょうど、先ほど橋の上で父が時間をつぶやいた、まさにその時刻だった。そして、あの2回の閃光。まさにあの時祖父はなくなったのだった。その日は一日中穏やかな日だった。さっき橋の上で「4時16分」に3人でオレンジの光を見てしまったときも、河口から広がる日本海には波一つもない穏やかさで光を受けそして返していた。「4時16分」と父親が言ったその言葉が頭に強く焼き付いていた私と姉とは、この時、何かわからない別な世界に踏み込んでしまったようにも感じていた。
私は「爺ちゃんっ子」だった。おばさん達もその事をよく知っていて、「ほら、おまえが一番最初に顔を見せてあげなさい!」と、既に両手を胸の上に組み、目を閉じてしまった祖父の傍らに座らせた。「兄さん。孫が来たよ!」と、涙声のおばさんに促された私は、穏やかな顔で目を閉じてしまっていた祖父に(祖父の死に顔に)何も言うことができなかった。こんなに悲しいことが目の前にあっても、涙が出てくるわけでもなく、自分は冷たい心の持ち主なのかも知れないと思っていた。
通夜と葬儀の準備に、母とおばさん達は忙しく動き回った。近所の人たちはみな親戚のような付き合いで、誰彼となくやってきてはお悔やみを言い、葬儀の手伝いに加わった。私たち子どもは邪魔にしかならないので近所の家の二階に集まって、久しぶりにあった友達として近況を話したり、祖父の思い出話をして夜を明かすことになった。
「クボノオッカア」と呼ばれていた、祖父の親類にあたる人の家の二階には、私と姉を含めて子ども達が6人と私の父。そして、クボノオッカアと既に大人になっていたその息子達の、合わせて10人もが一部屋に集まっていた。初夏とは言え、8時を過ぎる頃には外の灯りもなくなり、人通りも全くない。イカやコウナゴの漁に出る船もなく、静かな夜がやって来ていた。
10畳ほどもある部屋にテーブルが1つ置かれ、お茶やおにぎり、お菓子につまみが載せられた。それぞれが思い出すままに話し、そこから派生して秘密のはずの話が全く秘密でなくなりながら、時間が流れる以上に話が流れてどこまでも広がっていった。
話が進むほどに、祖父は素晴らしすぎるほど素晴らしい人で、その息子である父は親不孝者のダメ人間になっていった。この場ではどうしても父がやり玉に挙げられるしかなく、そうすることで祖父の死は少しずつ少しずつその場の皆の胸に定着していった。時間はもう12時に近づいていただろう。
この家の中にいるのは、この部屋の10人だけで、下の部屋は電気が消され玄関の鍵も閉められていた。出入りはこの部屋のすぐ下にある裏口からするようになっていた。そろそろ子ども達が眠くなりはじめ、ちびりちびりと酒を飲んでいた大人達も酔いを感じてきた頃だった。
裏口の引き戸が静かに開く音がした。続いて階段をゆっくりと上がってくる足音が聞こえ、この部屋の前で止まり、音もなく襖が少しだけ開いて止まった。襖はほんの10センチくらい開いて……そのまま動くのを止めてしまった。
「トッチャン、もう寝に来たのが?」
と、クボノオッカアが襖の向こうに声をかけた。足の悪いクボノオッカアの代わりに祖父の家で葬儀の準備をしていた「トッチャン」が寝るために帰って来たと思ったのだ。
すぐに襖がひらいて「トッチャン」が入ってくるだろうと、10人の目はちょっとだけ開いたまま止まってしまった入り口の襖に向かった。そして、その10人の予想は見事に外れてしまった。いくら待っても襖はそれ以上開かなかったのである。
「トッチャンなしたの?」
目の周りを少し赤くした上の息子が言った。
部屋の中には一瞬沈黙が訪れ、襖の向こうも沈黙のまま。答えはなかった。
明朝早くの仕事で、漁具を軽トラックで運ばなければならないため、酒を飲まずにいた二番目の息子が襖を開け、階段を下りていった。少しして戻ってきた彼が、陽に焼けた顔を皆に見せた。
「誰もいねわ!」
緊張気味に言ったその言葉が皆をさらに不安な思いにさせた。
「トッチャン、下でねまってんでねのが?」とクボノオッカア。
「いやあ、裏口の鍵も閉まってるし、下には誰もいね!」
玄関の鍵はねじ込み式で、内側からしか開けられないようになっていた。結局、誰も入ってきた形跡はないのである。しかし、ここにいる10人の誰もが同じ音を聞き、間違いなく階段を上り、この部屋の襖の前まで「誰か」が上がってきたのだ。そして、襖にわずかな隙間だけ開けて……。
私は胸のあたりに冷たさを感じ始め、眠そうにしていた姉や、そのほかの子どもたちの目が丸く見開かれていた。私の父がコップの酒に口を付けた。
クボノオッカアが急に明るい顔になって、「じっちゃんだわ!」と、父に向かっていった。
クボノオッカアは夕べも夢の中で祖父と話をしたこと、このごろは毎日祖父の夢を見ていたことを話した。そして、「コウチャンは……」と、父に向かって笑顔のままで言った。
「コウチャンは夢みながったべや?」
父はまたコップの酒に口を付け、ゴクリと音をさせて飲み干した。
みんなが集まってるから祖父が楽しくなってこの場にやって来ていると、クボノオッカは言う。子ども達の目が少し柔らかくなっていた。逆に、私はこの部屋のどこかに祖父の魂がいるのだと感じ、窓のあたりや襖のあたりが気になって仕方なかった。背の高かった祖父が上から自分のことを見下ろしているのかも知れない。天井のシミまでが気になってしまった。
この夜は、そのまま10人で朝を迎えた。隣の部屋で寝てしまった子ども達がほとんどだったが、唯一、私だけは一晩中祖父の魂と一緒に文字通りの「通夜」となった。クボノオッカアは、一晩中私の父をこきおろし続け、父と一緒に一晩飲み明かした一番上の息子は、ろれつの回らない口で
「じっちゃん、悪いのはぜんぶ、コウチャンだでな……」
と、繰り返しながらテーブルに伏して眠ってしまった。
「じっちゃん、いがったな!みんな、あずまったもんな……」
そう言って、クボノオッカアは夢見るような顔をしながらも、初めて涙を見せた。何十年もの間、ずうっと近くに暮らしてきた血縁の一人が、もう二度と会えない人となってしまった。その深い悲しみが伝わってきた。誰よりも一番悲しんでいたのは、クボノオッカアだったのだと、この時初めて感じることになった。
祖父の死んだ日、その夜に階段を上ってきたのは……。
それは、私たちが小さな村で共に暮らしてきた「仲間」として互いに持っていた思い。互いの存在を自分の一部として感じてきたこと。そして、その存在が自分の人生の中で、大きな大きな意味を持っていたのだと、あらためて感じさせられたこと。それこそが「人の魂」だったのだ。
祖父の死んだ日、その夜に階段を上ってきたのは……。
それは、亡くなった祖父の魂ではなく、私たちみんなの祖父への思いだったのかもしれない。
いつの日かまた祖父の畑を見に行こうと思うのだが、あの頃の思いが書き換えられてしまうのが恐ろしい。自然が人間の活動とともに衰退していく話は幾度となく耳にし、各地の現状を目にしてきた。けれども自分に一番関わりの深いこの地が、あの頃と大きく変化しているのを見ることが悲しくてならない。年をとるということはこういうことなのだろうか。
完
※このお語はすべて事実に基づいていますが、作中一部の人物名や時間的な前後関 係は創作されたものであり、フィクションとなっています。
「祖父の死んだ日に階段を上ってきたものは」 @kitamitio
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