世界の果てとアメリカン・ダイナー

祐里

小惑星探査機と火星探査機


「実際、そこはだったの」

 十本の指がショウ・ケースの中に整然と並んでいるのを点検するように、彼女はテーブルに広げた自分の手を眺めながら言う。

「世界に果てなんてあるのかな」

「あるわ。砂漠に似ているところで、砂もあるのよ」

 ひどく乾いた喉にビールを流し込んで、僕は彼女の大ぶりのイヤリングを見つめた。つるりとした金属の質感は、貧乏な国のスラム街でストリート・チルドレンの少年が磨いた金持ちの靴の表面と同じくらいつややかだ。

「らくだに会えるといいんだけど」

「あなたの冗談がおもしろいかおもしろくないかは別にして」

 お仕着せの笑顔にならないよう注意深く動かされた表情は、結果的に僕をほんの少しだけ傷付けた。

「あなたがいると思えば、それはきちんとし、のよ」

 彼女のとくべつ素敵な形の良い耳は、ちゃんと彼女の顔の両端におさまっている。こんなふうに深夜のアメリカン・ダイナーでまずいビールを飲みながら、ある種の芸術品のようなその耳を見るのも悪くない。

「めえ」

「めえ」

 彼女はリラックスしているようだった。こんなにビールを飲むことができたのは久しぶりだと言い、するするとワンピースを脱ぎ、僕と寝た。


 僕と彼女が初めて出会ったのは、大学生のときにアルバイトとして働いていたレコード・ショップだった。雨の降る寒い日にふらりとやってきた彼女は、フェイリム・マクレガーのレコードを探していると僕に告げた。

 僕はそのときとてもむしゃくしゃしていて(むしゃくしゃしていた原因が何だったのかは忘れてしまった)、彼女に対して礼儀正しい態度をとることができなかった。だが彼女は僕の気持ち(そもそもアルバイトに人間らしい気持ちは必要なのだろうか?)などおかまいなしに、「ねえ」と話しかけてきた。

「あなた、今日これから空いてる?」

「このアルバイトが終われば」

 彼女は「そう」と言ったきり口をつぐんだ。ときどき何かを言おうとしてわずかに唇が開き、閉じられ、また開いた。辛抱強く待っていると彼女はしばらく経ってから「ごめんなさい」と言った。

「うまく言葉にできないの」

「ビールを飲めば言葉なんてすぐに出てくるんじゃないかな」

「そうかもしれないわね」

 そのようにして、僕らはとくべつ仲の良い男女というわけでもなく、とくべつ体の相性のよい男女というわけでもなく、わざわざ集めなくても勝手に入ってくるオイル・マネーを用いて各国へのアプローチを図り、結果として別の国の石油価格暴落に巻き込まれた哀れな中東の国と日本のように、出会っては別れ、別れては出会うことになった。


 僕がそのとき住んでいたのは、外国人が多く出歩く街だった。白人も黒人も、少し肌の浅黒い東南アジア系の人々もいた。彼らは一様に英語を話し、大量のフライド・ポテトとコカ・コーラを消費した。彼らが誰一人としていなくなったら、きっとじゃがいも農家は困っただろう。

 そんな外国人が多く集まる繁華街のピザ・ショップには、僕らのような日本人もいた。僕らはそこによく通い、よくコカ・コーラを飲み、よくピーナッツを消費した。フライド・ポテトではなくピーナッツであることが誇りだと思いこんでいた。

「やつら、とにかくビッグなんだ」と、友人――友人だと、僕は思っていた――の男は興奮して言った。

「ビッグなことが、それほどいいとは思わないけど」

「そうかい? きみはまるで修行僧のようだな」

 ビッグであることを否定したかったわけではないが、ゲイである彼の価値観は、僕にはうまく理解できなかった。

「だって、射精できればいいんだろう?」

「やれやれ」と彼は頭を振った。「そんなこと、やってみないとわからないよ」

 彼がまたピーナッツをつまんで口に入れる。僕も同じ皿からピーナッツを取り口に入れたが、魚の目玉の味しかしない。コカ・コーラを飲みすぎたせいかもしれない。

 沈黙。

「小学生のときにさ」

「小学生?」

 唐突に話題が変わり、おうむ返しに尋ねる。

「家の近くに、インターナショナル・スクールがあったんだ」

「それで?」

「そこには様々な人種の子供たちが通っていて、様々な言葉が話されていた」

 彼はピーナッツを際限なく口に放り込む。人類のためだと言いながら何でもかんでも宇宙へ放り込んでいる巨大な航空宇宙開発局のように。

「僕の合理的な考えは、彼らによって培われたんだ」

「合理的というのは、どうしてもときにはらくだ相手でもいいということだね?」

「きみはつまらない男だな。らくだなんて、背に乗ったり荷物を乗せたりする以外に使い道はないよ」

 沈黙。

「簡単さ」と彼は言った。

「ここの床を全て、厚さ十センチのピーナッツで埋めればいい」

 こうして宇宙に放り込まれた小惑星探査機はやぶさは、イトカワに到着した。


 僕が気付いたときには遅かったのかもしれない。彼女への連絡が、いつの間にか取れなくなっていたのだ。僕の心は空虚で埋まった。ある種の拷問のように、それは僕を蝕み、損ない、蹂躙した。

 ある日、僕がパスタを茹でながら口笛でシューベルトの魔王を吹いていると、僕の社会と繋がった糸を断ち切るように電話が鳴った。電話のベルの音はいつもと同じだ。だがそれは明確な悪意と、僕と数少ない仕事関係の人たちとのつながりを切るという意思をもっていた。

 楽しい運動会ではしゃぎまわる子供たちの中に突然巨大なミサイルが落ちてきたかのように、電話のベルは僕の心に深く傷を作った。あと三分三十二秒で茹で上がるパスタを気にしながら、僕は電話に出た。「もしもし」

「あなた、あのアメリカン・ダイナーにもう行かない方がいいわよ。空白になったから」

 知らない声だ。落ち着いていて、だけれども心理の表層部分をかき乱そうとする女の声。

「空白? なんのことだかわからないな」

「もう、あのアメリカン・ダイナーはの。あなたがと思いさえすれば、のに」

「悪いんだけど、今パスタを茹でているんだ」

「砂漠にも砂なんて、最初からなかったのよ。もちろんらくだもいなかった」

「ひどいじゃないか。きみは一体何を――」

 言葉を口から出すとすぐに虚無の空間へと消えていくようだ。頭にきて、僕は電話を切った。パスタは少々伸びてしまい、腕をふるって作った熱々のパスタソースをかけても僕の舌を喜ばせることはなかった。


 僕は気になってあのアメリカン・ダイナーへ行ってみた。電車で二駅、そこから歩いて十分だ。きちんと覚えている。

 そうして記憶を頼りにたどり着いたのは、アメリカン・ダイナーではなく立派なフレンチ・レストランだった。きちんと手入れされたきれいな庭を守ろうと大仰に黒光りしている門は、まるで初めて診察を受ける患者の保険証をじろじろと見る町医者の受付の女性のようだ。

「空白になったから」と電話の女は言った。「行かない方がいいわよ」と。

 後ろから伸びてきた男の手が僕の首を締めたのは、そのわずか一秒後だった。


「らくだには、背に乗ったり荷物を乗せたりする以外の使い道などない」

 首を締められ咳き込んでいる相手に向かって放つ第一声がそれかと思うと頭にくるが、僕は話すことができない。まるでスーパー・マーケットで無料で配られている薄っぺらなビニール袋をかぶせられたかのように、周囲との空気が遮断されているように思える。

 真っ暗闇の中ひどく体が冷え、背中側で縛られている手は誰も使わなくなり粗大ごみとして出された子供用の学習机のように動きを止めて温度を放棄している。

「パナマ海峡を渡ってもそれは変わらない」

 いくらか咳き込んでいると、首から上には血液が戻ってきたようだ。唇が温かみを感じ始めた。

「彼女はどこに」

「おまえがいると思えば、きちんと

「わかったから、この手を縛っているものをほどいてくれないか」

「おまえがわかっているかいないかは、問題ではない」

「手が冷たくて動かないんだ」

「ここで与えられる選択は二つ。冷たいか、ひどく冷たいかだ」

 彼――といっても差し支えないだろう、姿は見えないが男の声だ――は、電話の女よりは話が通じるようだ。

「空虚は冷たい」

「そうだ。おまえは空白や空虚に慣れすぎた」

「僕は殺されるのかな。コーヒー・スプーンをへし折るみたいに」

「我々もそこまで馬鹿ではない。すべて忘れろ。おまえの頭は空白になる」

「パスタを茹でていただけなんだけど」

 あるいは、僕が迂闊だったのだろう。砂漠とらくだの話などしなければ。おもしろくない(僕自身はおもしろいと思っているのだけれど)冗談を言ったりしなければ。

「約束しろ。これからパスタを茹でるときにシューベルトの魔王を口笛で吹いたりしないと」

「約束するよ」

 僕の頭の空白は、このようにして作られた。そこにはパンドラの匣も虹の橋も、難病に効く画期的な薬も存在しなかった。


 その後、僕は仕事をやめた。以来、ときどき深く暗い井戸がなつかしくなることがある。光などまったく存在しない、本当の闇で覆われた井戸の底が。? とにかくなつかしいのだ。理由はよくわからない。

 なにもない、あるいは厚さ十センチのピーナッツで埋められた井戸の底に無邪気に石を放り投げるように、僕はまた砂漠とらくだの話をしてしまうだろう。

 そのたびに思うのだ。いくつかの国が放った火星探査機はきっと、火星もしくは火星以外のどこかで探査されているのだろうと。

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世界の果てとアメリカン・ダイナー 祐里 @yukie_miumiu

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