第3話 翠煙

 年の瀬が檜と匂った。


 その日は世間ではクリスマスイブだった。相も変わらず翠衣さんと僕は店員としてこのカフェで過ごしている。

「どう?こちら側の人間になった感想は」

「こちら側?」

 お昼時を過ぎて手が空いたタイミングで翠衣さんは僕に話しかけてきた。

「見てあそこのカップル」

 目線の先には幸せそうな顔を浮かべる男女。僕は最近までその顔に至るほどの幸せを知らなかった。

「架くんは彼女とかいたことあるの?」

 そういえば翠衣さんとはなんだかんだ恋愛の話をしたことがない。

「いえ、残念ながら」

「そっか。残念ながら私も」

「意外ですね」

「そう?」

「だってモテそうじゃないですか」

 翠衣さんは声を出して笑った。また聞けた。僕は彼女の笑い声が好きだ。

「架くんはそう思ってくれてるんだね、ありがとう」

 それから店内の様子をしばらく見てまた翠衣さんは話し始めた。

「クリスマスって世の中的には一大イベントじゃん?私がもし恋人いたら多分凄く時間かけてコーディネート考えたり、メイクしたりすると思うの。架くんもきっとオシャレしたり良いレストラン予約したりするよね」

 それまで自分に恋人がいる画を思い描くことが出来なかった。でも今は少しだけ想像出来る。

「ここのカフェ、二階は予約限定の席でしょ。特別な日にここを利用してくれる人がいるってことなんだよね。それってすごく尊いことだと思うの。自分の特別な日を成立させるために全然知らない他人が協力してるんだよ。皆大体一緒に来る人のことしか見てないけど、実はそもそも私たちがいなければあのカップルが一緒に食事をすることができないの」

 確かに僕たちは自分たちが楽しんでいる時はそのことに夢中になっている。別にそれが悪いという訳では無い。でもそれを成立させるための誰かがいることは間違えのない事実だ。

「つまり楽しい時間の裏には、それを支える誰かがいるってこと。私はそれを忘れずに生きていきたいなって思うの」

「僕たちの特別な日は誰かの普通な日によって支えられている、ですか」

 当たり前のことのはずなのに、その事実は僕に大きな衝撃を与えた。昔から何かイベントや行事がある度にその中心に入れない自分を恥ずかしく思い落ち込んだものだった。どうすればもっとあの子のように全力で楽しめるか、皆と話せるかなどとばかり考えていた。その前提を成立させるために動く人のことは考えの外にあった。

「あ、噂をすれば」

 扉を開ける音がする。大人びた雰囲気を醸し出す男女が入ってきた。

「いらっしゃいませ。御予約のお客様でしょうか」

 翠衣さんは太陽のような笑顔と透き通った声で彼らを二階へ案内した。その後ろ姿を見て特別な場に立ち会える喜びを実感した。翠衣さんの言う通りそれは本当に尊い時間だった。


 あっという間にクリスマスは終わった。クリスマス仕様の店内はいつも通りの控えめな装飾に、僕たちの制服も普段の茶色を基調としたものに戻った。気乗りしなかったこのキャンペーンも終わってみれば非日常を味わえる楽しい期間だったし、何より翠衣さんと近づけたのはこの期間のおかげだ。

 

 それからほとんど毎日のように店に通い続け、すっかり慣れてしまった仕事をこなして、また帰り道を歩いた。しかし毎日会っていたクリスマス期間が嘘のように思えるほど翠衣さんとシフトが被らなくなった。何も変わらない日々の中ただ時間だけが過ぎて年末のシフトが近づいていく。翠衣さんのことを思い出す回数も自然に増えていった。


 大晦日、結局クリスマス以来一度も翠衣さんと会えないまま今年最後の日が訪れた。夕方六時から明日の朝六時まで入っていた。

「お疲れ様です」

「お、来たねえ救世主。今日は頼んだよ〜」

「はい」

 最近店長の佐藤さんの雰囲気が明るい気がする。何年かぶりのフリーな年末年始で気分がいいのかもしれない。佐藤さんは仕事納めだ〜。などと言いながら店内の掃除を一通りやり直していた。それを終えるともうやり残したことはないといった表情で「じゃ、あとはよろしく!」と元気に言って事務所へ入っていった。今から独りの年越しまで五時間と少し。もう慣れたものだと思っていたが今日に限ってはその長い時間が僕を苦しめるような気がした。

 その瞬間だった。

「お疲れ様〜、久しぶりだねえ」

 透き通っていた。空いた口が塞がらない。

「あれ言ってなかったっけ?私今年も入るって」

「いや、聞いてないです。先に言ってくださいよ」

 また翠衣さんは声を出して笑った。ちょっと待っててね、と言って更衣室へ入っていった。翠衣さんと入れ替わるように更衣室から出てきた佐藤さんは「良いお年を〜」と言い残して店を出た。

 翠衣さんが年越しのシフトに入っているとは思いもしなかった。そもそも去年の話を聞く限り一人で入るものだと思い込んでいた。着替え終わった翠衣さんがやってくる。

「何で言ってくれなかったんですか」

「サプライズしようと思ってさ。だって普通に教えても面白くないでしょ?」

「確かにそうですけど」

 サプライズのためならそれは大成功だ。僕はこの一週間の空白も相まって今翠衣さんに会えたことが際限なく嬉しかった。その透き通った声が耳に入ってきた時全身が歓喜に満ちていくのを感じた。

「驚いた?」

「はい、それはもうお陰様で」

 翠衣さんはやったと言ってわざとらしくガッツポーズをする。結局翠衣さんが笑っているなら何でもいいと思った。


 店内は概ね翠衣さんがこの間言っていた通りの様子をしていた。客は五、六人ほどで、それぞれ独立して座っている。檜が仄かに香る店内は大晦日でも落ち着いた時間が流れていた。

 しかし今日は去年とは違った。翠衣さんの提案で年越しの演出をすることにしたのだ。佐藤さんからは二つ返事で快諾されたらしい。

 夜十時を過ぎたあたりから普段の業務を行いながら、その演出の準備を始めた。客は何が起こるのかと少し関心を示しつつ自分の時間を過ごしている。本を読んでいる人もいれば、パソコンで仕事をしている人、スマホで動画を見ている人など様々だった。同じカフェにいながら別の世界にいるような人達、彼らとの繋がりはテーブルの上のコーヒーや食事だけだった。


 そしてついに年が変わる一分前、もう新しい客が入店してくることもおそらくない。それぞれ別の世界にいた数人の客達もそわそわし始めた様子だった。

「こんばんは!本日は大晦日という大切な日に当店へお越しいただきありがとうございます!」

 静寂と檜の香りが溶け合った店内に翠衣さんの明るい声が響き渡った。それはまるで次の年への灯火のようで、導かれるように客が全員僕たち二人に注目した。

「皆さんこちらをお持ちください!」

 翠衣さんの言葉に合わせて僕は一人一人にクラッカーを渡した。全員に渡し終えるともう今年はあと少ししか残っていなかった。

「今年も一年お世話になりました!それではカウントダウンをお願いします!十!九!八!……」

 店全体が一つになっていた。さっきまで黙りこくっていた人達が同じ言葉を発している。そしてその中心に翠衣さんと僕がいる。きっとこの十秒間はこのカフェの歴史に残る十秒間となるに違いない。そう思った。

「三!二!一……」

 次の瞬間クラッカーが数発続けて鳴った。

「あけましておめでとうございます!今年も何卒よろしくお願いします!」

 翠衣さんと二人で客に頭を下げる。小人数だったが拍手が起こった。ふと翠衣さんと目が合う。彼女は少しはにかんでいたがすぐ満面の笑みに変わった。僕も釣られて頬が上がる。拍手が収まると年越し演出の成功に僕たちは手を取り合った。

「引き続きごゆっくりどうぞ〜」

 翠衣さんの挨拶で客たちはまばらにそれぞれの世界に戻っていくのだった。その様子を見届けながら後片付けに取り掛かる。

「次はここじゃなくてもっと素敵な場所で過ごしたいね」

 耳元でそう呟かれた。

 "次"、"素敵な場所"、本当に存在するのか分からない二つの言葉を愛おしく思った。でも翠衣さんが言ったならきっとそれは実現するのだろうとも思った。


 長いようで短い僕たちの年越し夜勤が、終わった。

「二人ともお疲れ〜」

 時刻は朝八時。元旦のこの時間から出勤するのもなかなか大変だなと思いつつ、活気に満ちている早坂さんたちにバトンを渡した。

「カケル〜どうだった?」

「え、そうですね…。特別な経験ができた気がします」

「そうかそうか!それは良かった」

 ははは、と元気に笑う早坂さんを見て安心した。早坂さんには入ってすぐの時からずっと気にかけてもらっていた。だからその言葉が、よく頑張ったな。と自分の成長を認めてくれているようで嬉しかった。

 最初は何も考えずに受け入れた年越し夜勤だが、やってよかったと心から思うことが出来た。翠衣さんがいたからそれは特別なものになったのだ。

「野上さんもお疲れ様、ゆっくり休んでね」

「はい、ありがとうございます」

 早坂さんの労いに対して翠衣さんは新年に相応しい太陽のような笑顔で答えた。

「それじゃ、あとは俺たちに任せとけ」

 早坂さんともう一人の従業員に挨拶をして、僕たちは事務所に入った。

 

「お疲れ様でした」

「お疲れ様、年越し楽しかったでしょ?」

「はい、翠衣さんのおかげで」

 ふふ、と笑って彼女は少し間を空けて言った。

「私も架くんのおかげで楽しかったよ」

 面と向かって言われるとなんだか恥ずかしかった。呆気に取られているうちに翠衣さんは先着替えてくるね、と言って更衣室へ入っていく。しばらくして翠衣さんが出てくると交代で僕も着替えた。一緒にシフトに入った時はいつもこの順番だった。今日も外で翠衣さんが待っている。だから更衣室のドアは優しく開けよう。

 

 お互い帰り支度が終わると一緒に店を出た。

「うわあ、すごい」

 翠衣さんが感嘆を漏らす。

 空一面が鮮やかな水色に染まっていて、道路の脇に積もった雪は日光を鋭く反射していた。歩道は凍っていて、遠くにはスケートのように滑って遊ぶ子どもたちが見えた。僕たちの白い息は遥か上空へ向かって昇り、やがて澄み切った空気と混ざっていく。元旦がこんなに美しい景色を持っているなんて初めて知った。


 それから翠衣さんの家で新年らしいことをしようという話になった。途中のスーパーに寄って豪勢な食事や福笑い、羽子板のおもちゃなどを揃え、気合い十分だった。

「なんか子どもみたいだね」

 家に向かう途中でもう僕たちは可笑しくて声を出して笑ってしまっていた。こんなに袋いっぱいに買い物をしたのはいつぶりだろうか。期待を沢山詰め込んでいたあの頃とはもう何もかもが違う。でも今はきっとはち切れそうなくらいの幸せがこの袋に詰まっているのだと思った。


「どうぞ」

「お邪魔します」

 玄関に入ると控えめな柑橘系の香りが僕を包んだ。綺麗に揃えられた靴、一本しか刺さっていない傘立て。目に入るもの全てが透き通るような翠衣さんの家を象徴している。

「彼女いたことない架くんはもしかして女子の家も初めてなのかな?」

 いたずらな笑顔に僕はそうですよ、と開き直ることしかできなかった。

「あれ、でも彼氏いたことない翠衣さんこそ男子を家に上げるの初めてですよね?」

「いやあ、それはどうかな?」

「え、」

「冗談だって、そんな訳ないでしょ」

 この手の揺さぶりも翠衣さんの言葉だと一瞬でも信じそうになる。だって彼女のことを好きになる人は沢山いるだろうから。本当は恋愛の一つや二つあったと言われても驚かない。

「ちょっと、私そんな軽い人に見える?」

 露骨に安心する僕を見て翠衣さんは半ば呆れた声色で言った。

「いや、そういうことでは」

 慌てて否定する。しかし翠衣さんはそんな僕を気にも留めない様子で。

「ほら、折角買ったんだからご馳走食べよう?」

「そうですね」

 テーブルを埋め尽くすほどの料理たち。正月に定番のおせちは勿論のこと、お寿司やピザ、ケーキなどすっかりパーティー気分で勢いに任せて買った品々が広がっている。全て並べるだけで一苦労だった。

「ねえ」

 翠衣さんが言いたいことは分かっている。おそらく僕も同じことを考えていた。

「ちょっと買いすぎ、ましたかね」

「うん、結構ね」

 十秒ほど沈黙が流れた。この大量の食材たちをどうしようかと考えて固まっていた。しかし解決策は一つしかない。

「よし、架くん」

「はい」

 嵐の前の静けさがあった。

 

 全部食べ切るぞぉ!と大声を出した時は何事かと思った。普段の透き通った声はどこに行ってしまったのかと思うほど力強い声だった。

「返事!」

「はい!」

 それからは目の前の食事を食べることに精一杯だった。簡単に許容量を上回ってしまいぐったりしていると翠衣さんが横から喝を入れてきた。

 食べては限界に達し、また食べてはお腹を抱えてを繰り返した。翠衣さんも言葉には出さないが流石に苦しそうだった。テーブルに乗っている食事の量と連動するように彼女の喝も段々減ってくる。最初の子どものようだった僕たちはどこかに消え去ってしまった。

 なんとか全てを食べ終えた頃にはお互い何も言葉を発せないほど極限状態を迎えていた。

「……ごちそう、さまでした」

 しばらくは喋ることもできなかったので翠衣さんのスマホで正月特番の番組をただ見漁っていた。名前も知らないタレント同士がゲームをして楽しんでいた。翠衣さんもほとんどテレビは見ないようで僕たちは面白さが全く理解できない身内ノリで場が湧いている様子を画面越しに呆然と眺めていた。

 三十分ほど経った頃、隣で翠衣さんが大きなあくびをした。僕にもそれが移ってくる。

「やばい、私眠いかも」

「僕もめちゃくちゃ眠いです」

 いくら新年とはいえ夜勤明けだ。もう丸一日以上寝ていない。そこにご馳走が追い討ちをかけて僕たちは胃も身体もすっかり疲れ果てていた。

 もう無理〜と言って翠衣さんはそのまま絨毯の上で仰向けになった。僕も同じように上を向いて倒れる。顔を横に向けるとそこには僕を見る翠衣さんの顔があった。一瞬真顔で見つめ合った後お互いに少し口角を上げる。

 ん、と言葉にならない言葉で手を差し出してくる翠衣さん。僕はその手をゆっくりと取る。また少し笑い合ったのも束の間翠衣さんは眠りについてしまった。

 その寝顔を見ながら蕩けるように僕の目も閉じていく。


 冬は寂しい季節だ。世間は華やかな聖夜や年越しに盛り上がるが、そうした大半の人々を外側から支える人もいる。イベントを提供する側と消費する側の距離が一番離れる季節、それが冬なのだ。

 でも支える人の存在に気づいた瞬間、冬は暖かい季節に変わる。誰かのおかげで自分がいる。生きているだけで沢山の人と繋がっている。だから、暖かい。

 

 僕がずっと探していたのはこういうことだったのかもしれない。何者かにならなければいけないんじゃなくて、誰かの人生の手助けをできている自分。誰もが他の誰かのおかげで人生を歩むことができていて、自分はきっと誰かの人生の役に少しは立っている。そういう助け合いができたらいい。

 そして何よりもずっと一緒にいたい、次も二人で年を越したい。そんな人が隣にいるということ。それだけで何にも替えられない幸せだと思った。


 * *

 

 次の日、二人で初詣に行った。年越し明けの僕たちは何だか年始らしさを無性に求めすぎているような気がする。今まで世間と離れた過ごし方をしてきたから味わいたくなってしまうのだろうか。

 僕も翠衣さんもこの地域の神社には初めて参拝する。特別名の知れた神社では無いが、この周辺の人々は皆新年になるとこぞって訪れるのだという。神社が開門する朝八時前に神社に着いたにもかかわらず既に百人以上の列が出来ていた。

「この地域にこんな多くの人がいるんだね」

「ほんとですね」

 僕たちはその列に並び、気長に参拝の順番が来るのを待つことにした。

「昨日私たち結局何時に寝たんだっけ?」

「たしか翠衣さんの家に着いたのが十時とかで、ご馳走食べて……、昼の一時か二時くらいには寝てたんじゃないですかね」

「それから一回も起きてない?」

「……ですね」

「もう架くん疲れ溜まりすぎでしょ」

「翠衣さんは起きてたんですか?」

「何回かはね、それでまたすぐ眠くなったりしちゃってさ」

「起こしてくれればよかったのに」

「架くんの寝顔初めて見るなあと思って」

「いや、恥ずかしすぎますから」

「大丈夫!記憶に刻んでおいたからもう忘れないよ」

「全く大丈夫じゃないです!」

 翠衣さんは一際大きな声で笑ったが、周りの人が一斉にこちらを向いたのに気づいてすぐ声を潜めた。

 神社が開門してからは思った以上に列の進みが早く、ものの十分ほどで鳥居をくぐることができた。お参りや御朱印を押してもらう他にやることのない境内では皆立ち止まることもなく短い滞在時間で帰っていくのであった。例に倣って僕たちも手を清めお賽銭を投げるとそれぞれお参りをした。

 翠衣さんが笑顔で過ごせるように、祈った。その時はそれだけしか祈ることが無かった。事前にもっと考えておけばよかったと思った。

 お参りを終えると、まだ翠衣さんは何かを祈っている様子だったので脇に逸れて待つことにした。


「あら、辻本くん。元気してる?」

 聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。振り向くとそこには山崎さんが立っていた。

「あ、お久しぶりです。山崎さん」

「ちゃんと名前覚えてるのね」

 山崎さんは居酒屋にいた頃と何も変わりのない表情で言った。

「辻本くんは初詣なんて来る人じゃないと思ってたわ」

「実は初めてで」

「一人で?」

「いえ、あそこの彼女と」

「へえ、意外ね」

 山崎さんが何を思ったのかは分からなかった。でも悪い顔はしていなかった。

「山崎さんは誰と?」

「家族とに決まってるでしょ。夫とガキ置いて初詣来てどうするのよ」

 僕にわざわざ話しかけにきてくれたらしい。

「私、あの居酒屋辞めたの」

「えっ?」

 思いもよらぬ山崎さんの言葉に驚きを隠せなかった。山崎さんはそのまま続けているものだと思っていた。

 聞けば、僕があの店を辞めた時期は刑事告訴の準備期間だったらしい。もし裁判になれば店はしばらく閉めることになっていたかもしれなかった。面倒事に僕を巻き込まないための忠告でもあったと山崎さんは話した。

「私が今働いているのは驚くほどホワイトなところでね、よくあんな店で何年も働いたなって思うわ」

 辻本くんは今どこかで働いてるの?と続けて聞かれ、カフェに勤めていること、一緒に来た翠衣さんはバイト仲間であることを伝えた。

「そう、楽しそうで何より」

「あの時、山崎さんに言って貰えてよかったです。本当にありがとうございました」

 僕は深く頭を下げた。前から山崎さんのため息が聞こえてきた。

「人間大きな決断はなかなかできないけれど、どこかでしないとずっと引きずったままなのよね」

 ふと居酒屋で働いていた一つ上の先輩の笑顔を思い出した。僕に別れの手を振っていた彼女は今もまだあそこで働いているのだろうか。

「じゃあね。またどこかで」

「はい。ありがとうございました」


 山崎さんが離れていくと後ろで待っていたらしい翠衣さんが近づいてきた。

「さっきの人は?」

「前のバ先でお世話になった山崎さんっていう方です。僕にこんな場所辞めろって教えてくれた人で」

 ふーん、という目をして少しの間を空けて翠衣さんは口を開いた。

「じゃあ私も感謝しなきゃ、その人がいなかったら架くんと出会ってなかったかもしれない」

 彼女の声は至って真剣だった。心からそう思っているのだろう。僕だって山崎さんがいなかったらこの人に出会うことはなかった。感謝してもしきれない。

「じゃあ帰ろっか」

 その声はいつものバイト帰りと同じ色をしていた。耳に入った瞬間全身が穏やかな空気に包まれていく。今日も僕は一人じゃないと、そう思えるのだ。

「はい」


 * *


 後期の授業も終わり大学は春休みに入った。仄かに残る寒気も日を重ねるに連れて衰えていき、春の訪れが待ち遠しく感じられる。そんな中僕はずっと重かった一歩を踏み出そうとしていた。

「いってらっしゃい」

「うん、いってきます」

 駅のホームまでわざわざ来てくれた翠衣さんに見守られながら、僕は約一年ぶりに地元へ帰った。

 

 駅の改札から出たところに父親が待っていた。おかえりと言われて、確かに地元に帰ってきたのだと実感した。実家までの道のりは不思議な感覚だった。一年前までは馴染みのあった道。一年という月日がこの地域に与えた変化はほとんど無いように思う。だから決して懐かしさを抱いた訳では無かった。ただ、僕がいない間にもこの地域は穏やかに回っていてその歯車の中に僕はもういないのだと感じた。

 実家に帰ると母親がおかえりなさい、と言った。それは一年前と全く変わらないおかえりなさいだった。特に叱責されるでも泣きつかれるでもなく、学校が終わって息子が帰ってきただけという空気感であった。僕はその淡白さに半ば興ざめしつつも、どこか安心感を抱いていた。家族が元気に暮らせている。それだけでまだ生きていけると思えた。

 また近いうちに顔を出そう。


 * *

 

 新年度に入ると店長の佐藤さんから二十四時間営業ではなくなったことを伝えられた。驚き半分、納得半分だった。確かに僕や翠衣さんのような苦学生がいなければ成り立っていなかった営業だ。むしろよく五年も持ちこたえたと思う。それに伴って年末年始も休みになった。佐藤さんの子供たちは一番手のかかる時期に入っているらしい。

 

 もう翠衣さんと一緒に誰かの年末年始を支えることはこのカフェでは叶わない。

 だからこそ、この暖かい冬の思い出は一生のものになる。


 * *


 花見の名所として知られる地元の小さな城跡。満開のソメイヨシノが躊躇いもなく散っていく様子を眺めながら僕たちは展望台に向かう。

 初詣の時と同じように長い列だった。ようやく許されたその眺めを目に入れた瞬間、飛ばされそうなほどの強い風が僕たちを吹き付けた。咄嗟に僕と彼女は手を取り合う。

 はるか遠くの山を眺めると緑樹たちが霞んで見えた。合唱さながら固まって揺れている彼らは「僕たちは一人じゃない」と叫んでいるようだった。

 そうだ、僕たちは決して一人じゃない。


 翠煙が独りを看取った。

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翠煙 益城奏多 @canata_maskey

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