第2話 邂逅・衝突
仄明かりが瞳を搾った。
他の生き物の声が聞こえないこの季節は朝になっても孤独に苛まれる。まだ人々が布団にくるまっているような時間帯、窓から微かに差し込む光に僕はこれからの人生を重ね合わせた。
きっと少しずつ強くなっていくその光に僕もなれたらとぼんやり思う。雲がかかっても、通り雨が降っても、明るさを保ち続ける光でありたい。そう願った。
「おはようございます」
「おはよ、朝早くからありがとね」
時計は六時少し前を指している。今日も結局定時ギリギリの出勤になってしまった。今にも目が閉じてしまいそうな店長の佐藤さんと挨拶を交わす。
「夜勤お疲れ様です」
「うん。もう眠くて仕方ないわよ」
「あとやっておきますので、もう上がって大丈夫です」
「助かるわ。ほんとに仕事覚えるの早いねえ」
「いえ、まだまだです」
んじゃ、よろしくね。と力の入っていない言葉を僕にかけて佐藤さんは事務所の中に消えていった。深夜から早朝にかけては一人でお店を回さなければいけないため負担が大きいのだろう。
佐藤さんは時々人手を補うために夜勤に入っている。本人はそれも店長の宿命だと言っているが、小さい子どもがいることを思うとあまり無理はして欲しくなかった。
「いらっしゃいませ」
最近よく来る二人のサラリーマンが入ってきた。距離感を見るにおそらく同じ会社の同僚なのだろう。こんなに早い時間でも二人の顔はキラキラ輝いていて身体の隅々まで洗練されているように見える。
「オリジナル二つ」
二人はいつも同じメニューを頼む。このカフェのモーニングで看板メニューとなっているモーニングオリジナルは使用する食材の価格帯を一段階上げている。その分かなり攻めた値段設定にしてあるが、意外にも幅広い層にニーズがあるらしい。
「お待たせ致しました。モーニングオリジナル二つになります。」
客からの期待度が高いこのメニューを作るのはまだ緊張するが、満足気な二人の顔を見てホッと息をついた。しばらくすると二人は席を立ち会計を済ませ、ごちそうさまでした。と言って店を出て行った。
「ありがとうございました」
そしてまたこの店は孤独な空間に戻った。
洗い物や店内の掃除はすぐに終わってしまい、僕はぼんやりと店内を見渡す。まだ一ヶ月と少ししか働いていないのにこの空間が自宅より安心できる場所に思えた。今は一人でも必ず誰かがここにやってくる。客かもしれないし、従業員かもしれない。でもその事実だけで孤独は薄れていくように感じた。
結局六時台は二人のサラリーマン以外誰も訪れず、入念に準備をすることができた。七時を過ぎた辺りで一気に客が押し寄せて、ようやく今日という一日が始まる気がした。腕まくりをして深呼吸をする。
「いらっしゃいませ」
僕は張り切ってオーダーを待ち受けた。
「お疲れ様です」
八時になってようやく一人の時間帯が終わった。出勤した先輩の早坂さんは山積みになっている洗い物を見てこれは災難だったな。と言った。客の列を捌き切るのに精一杯で洗い物にはとても手が回らなかったのだ。さっきの静かな六時台が嘘みたいに感じていた。
「調理と注文受けるのは俺がやるから、とりあえずそこ片付けよう」
「はい、ありがとうございます」
僕は無心で皿とカップの山をひたすら洗浄機にかけ続けた。それらが片付く頃には客足も落ち着き余裕を持てるようになっていた。
「新人。よくあの客数一人で捌いたな」
「準備する時間が沢山あったので、なんとか…」
「入って一ヶ月だろ?自信持っていいと思うよ」
「いえ、自分は本当にまだ未熟なので」
「謙虚だなぁ。あれ、名前何だっけ?」
「あ、辻本架と申します」
「カケルね。ここやっぱりキツイでしょ?皆すぐ辞めちゃうからさ」
この店も辞める人が多いという事実は意外に思えた。少なくともあの居酒屋なんかよりはよっぽど健全でやりがいのあるアルバイトではないだろうか。しかし言われてみるとこのカフェは一人一人の負担が大きいかもしれない。注文、調理、配膳、洗い物、会計。それら全てをさっきまで一人でこなしていたと思うと、自分でも信じられなかった。
けれど不思議と辛いとは思わなかった。
「僕は多分、この仕事向いてる気がします」
早坂さんは意外そうな顔を浮かべたがすぐに口角を上げた。
「期待してるぜカケル」
同じ店でも時間帯によって全く店の表情が変わる。これは最近朝から夜までの長時間シフトに入り始めて気づいたことだった。朝はどことなく忙しない印象を受けるのに対して昼間はゆったりとした空間が創出されている。客の滞在時間も全く異なるのだ。夕方になるとまた一風変わって賑やかな雰囲気を醸し出し、夜が遅くなるに連れて静かで上品なカフェへと生まれ変わる。
どの時間帯もそれぞれ良さがあって、ずっと人で溢れている騒がしい居酒屋とは全く違った。入ってすぐなのにも拘わらずこの店に愛着が湧いてきて、やっぱり僕はこの仕事に向いているかもしれないと改めて思った。
時計は六時前を指している。既に一日の半分をこの店で過ごしていると知り、時間の流れの速さを身に染みて感じた。窓の外を見ると辺りはすっかり暗くなっている。外の世界と隔離されたこのカフェという空間は、まるで広い銀河系に放たれた宇宙船の中のようだった。
「お疲れ様です」
夕方の時間帯から入る従業員が出勤してきた。
あれ、この人誰だっけ。
一ヶ月前に働き始めたとはいえ、出勤頻度は相当高い方だった。それなのに店長の佐藤さんと先輩の早坂さんしか覚えていない。
チラッと見えた名札から苗字が"野上"という情報を得たもののピンと来る感覚は全く無かった。確かにそんな人いたかな。くらいに思っていた。
今日の勤務は朝六時から夜十時までの十六時間。野上さんが入ってからの四時間は全体のたった四分の一に過ぎず、ぼんやりと手を動かしているうちに定時が訪れた。毎回終わってみればあっという間に思える長時間労働、しかし身体には大きな負担がかかっているようだった。次の従業員に業務を引き継ぎふと気を抜いた瞬間、立っていられなくなり膝を床に思い切りついてしまった。
幸い誰にも見られていなかったため一人でゆっくりと立ち上がって事務所に入る。妙な緊張が抜けてまた足から力が抜けそうになった。
「お疲れ様でした」
同じ時間で上がった野上さんは先に退勤の打刻を済ませたようだった。
「うん、お疲れ様」
素っ気なく返事をして野上さんはそのまま更衣室に入っていった。更衣室は一つだけなので僕は野上さんが出てくるのを待つことしかできなかった。何も考えず自分の手を目の前に持ってくる。
ひどい荒れ方だ。飲食店で働くならある程度は覚悟していたが、全く"ある程度"に収まっていなかった。自ら見ても痛々しいと思うほどの赤切れ、ヒビ、皮剥けの数々。このカフェで働き始めてから居酒屋時代よりずっと悪化している気がする。この状態から治る気配が無ければ皮膚科に行くことも検討しなければいけないなと真面目に考えた。
「お待たせ」
「あ、ありがとうございます」
野上さんが出てきたので交代で僕が更衣室に入る。サッと着替えを終わらせてしまい開放感に任せて更衣室のドアを勢いよく開けた。するとまだ野上さんがそこにいた。慌てて丁寧にドアを開ける振りをする。
「電車の時間待ちですか?」
「ううん、私歩きだから」
「そうなんですね」
それなら何故ここに残っているのか。そう聞こうとした時野上さんは思いもよらぬ言葉を発した。
「最近大丈夫?」
「えっ?」
上手く反応できない。人に心配されるのは久しぶりだった。
「いや、シフト沢山入ってるから」
確かにここ数週間は新人とは思えないほどの頻度で働いている。勿論疲れが無い訳ではない。ただ僕はこの仕事がきっと好きだから。
「前のバ先はもっと酷かったんで大丈夫です」
「そっか、無理しないでね」
野上さんはその話に深入りすることはせず、俯いて黙った。その横顔はどこか憂いを感じさせる。
「そういえばいつからここで働いてるんですか?」
「一年前くらいかな」
「結構長いんですね」
まあね。と言ってまた彼女は俯いた。
「辻本くんはさ」
「はい」
「ここ続けるの?」
早坂さんと同じ質問をされた。それを聞きたくなるくらい今まで多くの人が辞めていったということなのだろう。それでも僕はこの店が。
「当たり前じゃないですか」
僕はわざとらしいくらい明るく言ってみた。すると野上さんは目を見開いて、こちらを見た。
「そうなんだ、なんかすごいね」
そして笑った。この人笑うんだと思った。早坂さんのような溢れ出る明るさではないが、確かに僕は野上さんの瞳の奥に温かみを感じた。
今思えば素顔を見たのは初めてかもしれない。勤務中は基本的にマスクを着用しなければならず、野上さんに限っては勤務中だけ眼鏡をかけていた。その両方が無くなった顔はどこか新鮮な印象を受けた。
その日から僕は人の名前をちゃんと覚えようと思った。
* *
聖樹が神輿を気取った。
街中の彩度が跳ね上がる十二月の中旬、僕の孤独はまた一段と募る。大学から店に向かう道中、数々のクリスマスオブジェが目に入った。周りには多くの人集り。僕はそれを見ないように地面を見つめながら歩くのだった。
初めて野上さんを認識したあの日から、偶然にも彼女と一緒の時間帯でシフトに入ることが多くなった。僕がほとんど毎日入っているからというのもあるのだろうが、野上さんもそれに劣らないほど入っている。少なくとも一般的な大学生とは思えない頻度だった。
「今日もお疲れ様」
「お疲れ様でした」
「じゃあ帰ろっか」
「はい」
あの日から二人で上がる時は一緒に帰るようになった。野上さんと別れる交差点までの五分弱でちょっとしたことを話すのがお決まりの流れになりつつあった。
「翠衣って呼んでくれたら嬉しいな」
ある日の帰り道、野上さんはそう言った。それまで下の名前を知らなかった僕は、何て美しい名前だろう。と思った。凛とした彼女の瞳は穢れなく透き通っていて、翠衣という名前の響きにぴったりだった。
「翠衣さん、素敵な名前ですね」
「辻本くんの下の名前は?」
「架です」
「じゃあ架くん。って呼ぶね、今度から」
不思議な感覚だった。中学に入ったあたりから人の名前を名字で呼ぶのが普通になり、自分の名前が架ということを時々忘れそうになるくらいだった。
「何か嬉しいです」
よかった。と言って翠衣さんは穏やかに微笑んだ。
全てが透き通っていた。数日前降り始めた雪のように、触れたらすぐ溶けてしまいそうな表情をしている。
この時僕は翠衣さんにもっと笑って欲しいと強く思った。
次の日も翠衣さんと一緒のシフトだった。もう何日連続だろうか。ここまで被るとお互いおかしくて笑ってしまう。
「また架くん入ってるの?」
「翠衣さんこそまたですか」
「そろそろ他の人がいいなぁ」
「僕で悪かったですね」
彼女がここまでバイトに時間を費やす理由は正直分からない。何か特別な事情があるのは確かだと思うが、それに踏み入ることはできなかった。
年末が近づくにつれ客足の伸びが顕著になっている。それもそのはず、この店は露骨にクリスマスを売り出しているのだ。十二月中旬からクリスマスメニューなるものが始まった。それに合わせてスタッフの制服は何故かクリスマス仕様に変わる。僕はあまり気に入っていないが、店長の佐藤さんが一生懸命考えたのだろうなと思うと嫌がる訳にもいかなかった。店内も華やかにライトアップされ天井に届くほど大きなクリスマスツリーも設置される。やけに気合いの入ったキャンペーンだが、実際に繁盛しているのだから佐藤さんはやっぱりすごい。
「今日も忙しかったね」
「はい、クリスマス需要がこんなにあるとは思いませんでした」
「ほんとね、皆大人になっても意外とこういうの求めちゃうんだなって」
客層はてっきり子供連ればかりなのかと思っていたが、仕事終わりのサラリーマンや授業終わりの大学生も多かった。昼間にはお年寄りのグループも何組か来店していて、日本人にとってクリスマス文化がどれだけ大きな存在であるかを実感した。
「翠衣さんは興味無いんですか?」
「私はいいかなあ、今まであんまり意識したこと無かったから」
「そうなんですね」
意外だった。翠衣さんはクリスマスを楽しんできた側の人間だと思っていた。
「そういえば店長に聞いたんだけどさ、」
年末年始入るってほんとなの?翠衣さんは妙に口角を上げて聞いてきた。
「はい、予定も無いですし」
「そっか」
翠衣さんは勿論家族と過ごすのだろう。僕も去年までそうだったように。
「年末年始はねえ、なかなか面白いよ」
「はい?」
意外な言葉に僕は困惑する。
「意外と客はまばらにいるの。でもテレビとかラジオが無くてね、年が変わる瞬間もすごく静かなんだよ」
「……もしかして翠衣さん、去年入ったんですか?」
「うん、架くんと同じ。"予定が無かった"からね」
そう言って翠衣さんは薄ら笑いを浮かべた。まさかそんなはずはないと思っていた。彼女もクリスマスや年末年始を身近な人と楽しんで過ごす側の人間なのだろうと。
「だけど、やっぱり流石に寂しかったな」
彼女の顔から笑みはすぐに消えた。
「年越しの時間帯はワンオペだったし、引き継ぎの人は独身のおじさんで特に話すことも無かったし。まあその人はもう辞めちゃったけど」
僕は何も言えなかった。一週間と少ししたら自分もその立場につくのだなと、ふと考えたが全く実感は湧かない。でもそんなことより翠衣さんの言葉が、瞳が、孤独に堪える子供のように思えて仕方なかった。何か事情があるのだろうが、きっと僕が出会うそのずっと前から彼女は孤独の奥底で静かに泣いていたのだ。今の僕はまだ彼女の光になれない。それだけは確かだと思った。
「そろそろ行こっか」
翠衣さんの声が沈黙を割り、僕たちは店を出た。
いつもなら何気ないことを話しているだけの五分間。しかし今日はお互いに黙り込んだままで、あっという間に交差点に着いてしまう。その時翠衣さんが急に立ち止まった。
「ねえ、どうして地元に帰らないの?」
「え」
挨拶をして別れようと思っていた僕は急な問いかけに少し戸惑った。年末年始にシフトを入れていることを心配してくれたのだろうか。それとも翠衣さんにとって何か思うことがあったのだろうか。
「まだ帰れないんです」
「"まだ"?」
「その、今の自分に帰る資格がないというか」
「帰る資格、か」
翠衣さんは難しい顔をしていたが、実の所自分でもよく分かっていなかった。何がしたいのか、何に執着しているのか、ただ帰りたくないだけなのか。大学生活が進めば進むほど離れていく理想と現実。その差を身に染みて感じてただ打ちひしがるだけだった。そんな状態の僕にはやっぱり"帰る資格がない"。
「架くんは色々背負ってるのかな」
「いえ、全然そんな大したことではなくて。でも僕は……、いや僕にも正直よく分かっていないんです」
年末年始のシフトを受けたのは地元に帰れない口実を作りたかっただけなのかもしれない。家族に顔を合わせられる自分になるための猶予期間を延長したい、ただそれだけだったのか。
「その話もうちょっと聞きたい」
「え、いや、そんな聞かせるほどの話でも」
「私が聞きたくて。もし良かったら。お願い」
自分の人生の弱みは自分が一番分かっていた。それでもこの人なら耳を傾けてくれるのではないかと思ってしまう。それくらい翠衣さんの表情は真剣だった。自分のことを初めて話したいと思えたから。
「長くなりますよ」
だから僕は重い口を開いた。
近くにある公園のベンチに座る。今まで誰にも話してこなかった過去が驚くほどすんなりこぼれていった。
* * *
逆夢が祈りと濁った。
高校三年生の冬、自分の妄想がやけに思い通りにいく夢ばかりを見ていた時期があった。勉強はそれなりにしていて地元の有名な大学に行けるくらいの成績は維持していた。でも将来のことは何一つ考えていなかった。とりあえず大学に入って、どこかに就職して、無理のない生活をしながら働き続ける。そんなことしか頭に無かったのだった。
しかし夢に出てくる自分はどれも所謂"何者か"になっている自分だった。それまで"何か"を成し遂げようとか、そういう野心じみたものを抱いたことがなかった僕が大きな人間になっている。その画があまりにも違和感で溢れていて最初は悪い夢を見た気分だった。しかしそんな日々が数週間続いて、夢で見た自分がなりたい自分の姿だということに少しずつ気づき始める。
このままではいけない。
唐突に芽生えた感情が制御できないものへと変わっていくのを感じ、もう身を任せるしかないと悟った。
幸か不幸か、その日は大学個別試験の願書提出締切の二日前だった。僕は親の反対を強引に遮って届け出先を全く知らない首都圏の大学に変えた。自分でもその時の激動はなかなか理解し難いものだった。今になってもいつかそれが爆発しないだろうかと恐れる時がある。僕は何かに駆られた時、突発的に三年間の積み重ねをも無にしてしまうような人間なのだと。
三月中旬、僕は同級生より一足先に上京した。強引に志願先を変えた後、両親とは満足に話せないまま出発してしまった。もともと勉強に積極的に関与してくる親では無かったが、大学受験の心配はある程度していたと思う。僕の決断に親は何を思っただろうか。
「どの大学に行くかを心配しているんじゃなくて、突然人生の大事な選択を変えるほど短絡的な性格であることを心配している」
進路に関して言われた言葉はそれだけだった。全く的を得ていて、それがあまりにも悔しくて、無言で家を出てしまった。何か背後から言われた気がしたが、聞こえないふりをして玄関の扉を閉めた。お金や手続きのことなど現実的な話し合いは一切しないまま、「いってきます」の一言も言えずに。
* * *
生きる意味、叶えたい夢、そんなものは全て地元を離れる時に置いてきてしまった。ネットを見れば自分と同い年の子が堂々と夢を追いかけ、そして叶えている。羨ましくて自分の闘志なり野心なりを燃やしてみるが一瞬にして燃え尽きて、諦めという灰となって散っていく。僕が地元から持ってきたものなんて逃げ出したことへの羞恥心、罪悪感くらいしか無かったのだ。
でも今のまま帰る訳にはいかなかった。何かしらを成し遂げて、何者かになってからしか帰れない。そういう強迫観念じみたものが僕の頭の中には取り憑いていて、いつになっても離れてくれなかった。
もう無理だって自分が一番分かっていたはずなのに。それなのに理性と感情はなかなか噛み合わなかった。
翠衣さんは口を挟まずまとまりのない僕の話をただ聞き続けていてくれた。
「奇跡みたいな話だね」
「えっ?」
「だってここ適当に選んだんでしょ?」
「……まあ」
奇跡。久しぶりに聞いた言葉だった。たしかに一年前の僕が今の自分の姿を想像するのは不可能に近かっただろう。これまでの選択の連続において膨大な数の分岐が生まれ、その中でたった一つのこのルートを通ったことが奇跡。そう考えるべきなのかもしれない。
「でもね」
翠衣さんは口を開いた。何を言い出すのだろうと僕はその唇の形を注意深く見た。しかし彼女から発せられた言葉は僕の思いもよらぬものだった。
「親御さんには早く会いに行った方がいいよ」
「え、」
こればかりは素直に肯定できなかった。僕の過去を全て聞いてその上で翠衣さんは早く会いに行った方がいいと言っているのだ。何か意味があるに決まっている。それでも僕には聞き入れたくない言葉だった。だって僕はまだ半人前の人間にすらなれていないのに、いつ認めてもらえる人間になれるか全然見当もついていないのに。やっぱり地元に帰ることはまだできない。
「すみません、それは無理です」
「どうして?」
「さっき言ったじゃないですか」
「知ってる」
「じゃあなんで」
「なんでも」
何故か翠衣さんは僕の言葉にすぐ被せるように言い返し、引く姿勢を見せなかった。こんなことは初めてで僕は困惑してしまう。ただこの点に関しては僕も引くことができなかった。
「だから僕には帰る資格がないって」
「資格って何?誰から与えられるの?」
「いや、それは…」
「自分が勝手に決めてるだけだよね?」
怒鳴ったり大声を出したりはしないが明らかに怒気を帯びた彼女の言葉に押されていった。僕の中で制御できない何かが爆発しかけているのを感じた。どうして自分はこんなにも感情に支配されているのかと嫌気が差す。
「違います」
「何が違うの?」
「何って」
「お願いだから親御さんには顔を見せてあげて。どこに引っかかってるの?」
もう翠衣さんの言葉を理解できる気がしなかった。
「翠衣さんも去年の年末年始帰ってなかったんですよね?そんなに言うなら翠衣さんこそ親御さんに会いに行ってあげればいいじゃないですか。自分がしなかったことなのにそれを僕に言われても無理なものは無理ですから」
その瞬間翠衣さんの言葉が詰まった。言葉の一文字目だけ発したところで止まる。ということを繰り返していた。言いたいことはあるのに紡ぐことができない様子だった。直前まで前のめりに顔を近づけてきていた彼女は気づけばベンチの背もたれに背中をつけて足元を見ている。
何を言っているんだ僕は。彼女に事情があることくらい分かっていた、はずなのに。
「言い過ぎました、すみません」
返事は無かった。もっと翠衣さんに笑って欲しいと願った自分が彼女の顔から笑みを消してしまう。あまりに情けなかった。
「あの、本当にごめんなさい。翠衣さんは僕に言えない事情があるんですよね。それなのに何も考えてなくて、僕は自分のことばかりで」
やはり返答は無い。これ以上言葉を重ねるのは無意味に思えた。
お互いの白い息がじんわり空気に溶けていく。翠衣さんはずっと足元を見つめていた。時々露出したくるぶしを覆うようにパンツの裾を伸ばしたり、手に息を吹きかけたりしたが、話し出す気配はなかった。
それから少しして二人同時にくしゃみをして微妙な空気が流れたことがあった。僕はこのタイミングを逃す訳にはいかないと思い、もう一度話しかけた。
「あの、」
「ごめん」
「あ、」
ちょうど言葉が重なった。
「私もね、まだ帰れないんだ」
僕は翠衣さんのことを見つめる。一瞬目が合って心臓が高鳴った。
「私のお父さんは三年前事故で死んじゃったの」
「そう、なんですか」
「高二のちょうどこのくらいの時期だったかな。それから私とお母さんの二人で生計立てなくちゃいけなくなって。」
遺産とかもあんまり無かったんだよね。と翠衣さんは続けた。
ところどころに感じる憂いの眼差しはこのことが原因なのかもしれない。
「高校まではお母さんと二人で頑張ってたの。当時お母さんはバリバリに働いてたし、所詮高校生なんて大したお金稼げないけどさ、私も一生懸命働くのが楽しかったから。」
その苦労もあって切り詰めながらも最低限の暮らしはできていたという。翠衣さんの母親は教育を重視しており、無理をしてでも娘に大学へ行かせることを選んだそうだ。
「でもね、お母さん、私が大学入ってからすぐうつ病を患っちゃったんだ。多分一人になって心が不安定になったんだと思う。お母さんに少しでも楽になって欲しい。今はその一心で働いたり、大学の勉強やったりしてるつもり。」
二十歳の彼女には背負うものがあまりにも大きすぎると思った。三年間ずっと苦しみながら、それでも僅かな光を目指してここまで生きてきたのだ。
「知ってた?この国は本当に容赦ないんだよ。こんな貧乏大学生からも平気で高い税金巻き上げていくんだから」
翠衣さんは苦笑いを浮かべた。絶望のずっと先には諦めに伴う笑いしか残らないのだとその時初めて実感した。可哀想とかそんな中途半端なことは思えなかった。僕の翠衣さんに対するこの気持ちはきっと言葉で表すことはできない。
「もうお母さんは無理できない身体でね。でも未来に対する不安が無くなればきっと心も回復していくと思うんだ。だから私は自分でしっかり稼げるようになるまでお母さんには会わないの。」
僕とは"まだ帰れない"理由が全く異なっていた。僕はただ自己満足のためでしかなかった。きっかけが受験期の逆夢だなんて翠衣さんはどう思っただろう。ふざけていると思われても仕方がない話だった。
「架くんはさ、早く親御さんに会いに行った方がいいよ」
翠衣さんは僕の方をじっと見てそう言った。いつにも増して力強いその瞳に合わせる目が無かった。
「絶対架くんのこと心配してると思う。親だって永遠に生きていられる訳じゃない。会える時に顔見せてあげな」
結局家族とはあの日以来一切やり取りしていなかった。確かに自分の息子が生きているかも分からない状況は想像したくない。
でもやっぱりまだ帰れないという気持ちが強かった。僕のことなんて放って置いてくれと伝えられたらどんなに良かったか。
「あんまり納得いってないみたいだね。私からの忠告はこの一回だけ。架くん、早く帰るべきだよ」
翠衣さんは僕の手を握ってそう言った。その瞬間に胸がざわめく。何処からか心を撃ち抜かれたような感覚に思わず目を見開いた。似たような言葉を過去に言われたことがある気がしたのだ。確かその時は結局忠告に従って正解だった。
「……分かりました。近いうちに連絡します」
完全に納得した訳ではないが、翠衣さんの安堵する表情を見てこの決断は多分間違っていないと思い込めたからそれで十分だった。
ふと時計を見ると午前二時を回っていた。気づかないうちに雪も深くなっている。
「もうこんな時間なっちゃったね」
そう呟く翠衣さんの顔を見て一人で帰らせる訳にはいかないと思った。もしこの笑顔が奪われてしまったらなんて考えたくなかった。
「危ないので家まで送っていきますよ」
「え?別に大丈夫だよ。すぐそこだし」
「いや、一緒に行かせてください。何かあったら怖いので」
そう伝えると翠衣さんは声を出して笑った。何がおかしいのかさっぱり分からなかった。
「心配してくれてありがとう。そこまで言ってくれるならお願いしようかな」
翠衣さんは寒いねえと言いながら手のひらを擦り合わせていた。僕も手を揉みほぐして冷えた手を温める。雪はさらに大粒になってきて、朝には積もりそうな勢いだ。街灯の数が減り、車もほとんど通らなくなり、勿論歩く人も僕たちの他にいなくなった。こんな時いつも僕は世界に自分だけしか存在していないような感覚に陥る。それが帰り道を好きになれない理由だった。
でも、今は隣で歩く人がいる。
「ねえ架くん、手冷たいんだけど」
翠衣さんがいたずらをする子供のような顔でこちらを見上げてきた。そんな表情をするのかと驚いてしばらく固まってしまった。翠衣さんは僕が思っていたよりずっと人と関わるのが好きなのかもしれない。普段はそれを押し殺して生きていると思うと心が痛かった。
今度は僕の方から翠衣さんの手を握る。
「もうちょっと甘えてくれてもいいんですよ」
彼女が少しでも楽になればいいと思った。その結果今以上に笑ってくれればもっと幸せだろうと思った。
翠衣さんは返事をするように繋いだ手の指を絡ませて、それを強く握った。
十分程歩くと彼女の住むアパートに到着した。玄関先まで送り届けると繋いでいた手をそっと解いた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ遅くまでありがとね。じゃあまた明日」
翠衣さんは明るい笑顔で手を振って僕を見送った。扉が閉まった途端さっきまでの幸せな時間の余韻が一気に襲ってくる。
しかしその日の帰り道は不思議と孤独を感じなかった。もしかしたらこの道を好きになれるかもしれないとさえ思った。
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