翠煙
益城奏多
第1話 逃避・崩壊
木枯らしが瞳を搾った。
全身を小刻みに震わせながらこの季節に不相応な恰好で帰り道を急ぐ。握りしめた指先の感覚はほとんど無い。人々が逃げ込むように降りていく階段の先は僕にとって全く縁のない世界である。
大学から自宅まで歩いて一時間ほどの道のり。路面が凍りついて自転車が使えないこの時期は、日の入りの早さも相まって永遠に家に辿り着けないような気持ちになる。大学から離れるにつれ周りに歩く人も減っていき、気づけば自分だけになっていて。そんなことが毎日続いて、自分と対話してばかりの孤独な時間が増えていった。もう何往復もしているはずなのに一向にこの道に親しみが湧かない。
僕はこの道が嫌いだ。
* * *
「いらっしゃいませ」
店内に響く従業員の声。僕にこの声は出せないと思いながら、裏の事務所へ入った。
遠く離れた自宅と大学のちょうど中間点のような場所に僕のバイト先は位置している。この職場で働き始めて約一ヶ月、今更その中途半端な立地に煩わしさを感じていた。 授業の無い休日は家から出るのが億劫で仕方なく、なかなか重い腰が上がらない。まだかろうじて無断遅刻や欠勤は免れているが、このままではいつそうなってもおかしくない。
「辻本くん、お疲れ様」
店長の佐藤さんだった。
「お疲れ様です」
「珍しく早いのね」
やはり佐藤さんも僕の定刻直前の出勤を把握しているようだった。
「いつもすみません」
「別にギリギリでも間に合っていればいいのよ」
いつか間に合うことすら叶わなくなりそうで少し怖かった。何とかこのラインだけは維持し続けたいものである。
「そういえば年末年始は帰るの?地元」
「もうそんな時期ですか」
時間というのは実に恐ろしいもので、大学入学から八ヶ月近く経つというのに何も成し遂げたことが無かった。ただ日々の生活を溶かしていくだけでこんなにも早く人生が進んでいく。何かを探し求めていた入学当初の自分はもうどこにもいなかった。
「今年はまだ帰れないと思います」
「"まだ"?」
「あ、いえ、つまり地元には帰らないということです」
「そっか、それならさ」
この言葉の続きを僕はよく知っていた。噂には聞いていたが自分にいざこの番が回ってくるとなんだか複雑な気持ちだ。
「年末年始シフト入ってくれない?」
予想通りだった。しかし年末年始はこんなところにわざわざ来る客なんているのだろうか。もし謎の需要があって大混雑になったら僕の手に負えなくなる気がした。
「自分に務まりますかね」
「辻本くん最近一生懸命働いてくれてるし、まだ年末まで一ヶ月近くあるから大丈夫だと思うよ」
「じゃあ、はい。入れます。」
「ありがとう!助かったあ」
佐藤さんはやっと肩の荷が降りたと言わんばかりの安堵を顔に浮かべた。聞けばここ数年はずっと佐藤さんが入らないと従業員が足りず、子供と過ごす時間が無かったのだと言う。まだ娘さんは五歳になったばかりだそうで、年末年始を一緒に過ごせないのは酷な話に思えた。
「あの、自分で良ければいくらでも入りますよ」
「ほんと辻本くんは救世主だよ、来年も宜しくね〜」
「あ、はい」
流石に気が早すぎないかと思ったが、どうせ来年も実家には帰れないような気がしたのでやんわり頷いてしまった。
そうこうしているうちに勤務時間が近づいてきたため出勤の打刻をして急いで更衣室に入った。
勤務中は接客や調理で頭がいっぱいになるため、気づけば定時になっているということが多い。引き継ぎの従業員が出勤した後も僕はしばらく残りの仕事に追われていた。
二十四時間やっている。そんな馬鹿みたいなコンセプトを掲げた個人経営のカフェ。店長の佐藤さんを見ているといかにも彼女が考えそうなテーマだと納得してしまう。普通なら一年も経たずに破綻しそうなものだが、何よりその洒落た内装、手頃な値段設定に定評があり、今日も赤字の心配など一切必要ないほど席が埋まっている。観光客らしき人々も時々やってきて、このカフェは最早周辺地域の名物になっているのだなと思った。
そんな密度の濃い勤務が終わると一転して現実に戻される。今日も学びがあったとか、良い社会経験になったとか、そんなことは微塵も思えずただ時間を溶かした感覚が残るだけだった。
結局いつもそうだった。新しい環境に身を置いてもすぐに適応してしまうし、そうしたら時間に意味を見出すことなんてできなくなる。
しかし一人で生計を立てるようになって八ヶ月。そもそも時間に意味を見出す必要などないと否が応でも気付かされていた。生きるため、最低限人間としての生活を送るため、時間に意味はいらない。金を得るための時間、それに代わる時間の意味がどこにあるだろうか?理解したくないがせざるを得ない真実に今日も呆然としながら長い帰路を辿った。
家に着いてすぐ布団に転がる。この時間が人生で一番幸せかもしれないと枕を抱きしめながらしみじみ思った。
自分の他に誰もいない部屋、時々聞こえる近隣住民の生活音。五感が受け取る情報のすべてが僕を孤立させていくような気がした。それでも隙間を縫うように入っているシフトをこなし切るには睡眠が不可欠だと僕は嫌というほど知っている。いくら入眠に時間がかかろうとも布団から出ることはできない。
僕は顔いっぱい布団を被って外部の音を遮断した。
そして思う。僕は何のために生きているんだろう。
* * *
怒号が瞳を搾った。
「どうしてこんなこともできないの?」
「すみません」
「皆言わないから俺が言うけどさ、お前そろそろ仕事覚えたらどうなの?同じ給料もらってる他の従業員に失礼だと思わない?」
もうはち切れそうだった。でも絶対にそれを零してたまるかと歯を食いしばった。
分かっている。自分は仕事が出来ない側、コミュニケーションが下手な側の人間なのだと。居酒屋で働いていると特に強く実感する。それでもこの店を辞めたら自分の人生に失格の印を押されるような気がして必死に食らいついた。何度も帰り道で涙の味を噛み締めながら、ただ認められたい一心で。
ガラガラと音を立てて床に崩れ落ちていく色彩豊かな料理。周りの空気が一瞬で変わるのが分かった。
ああ、これはきっともう取り返しのつかないやつだ。
突き刺すような客の視線、店長の怒号。
立っていることすらできず気づけば膝を勢いよく地面に落としていた。それから何がどうなって事態が収拾したのかまるで覚えていない。
目を覚ますとそこは空いている座敷席で、背中には柔らかい座布団の感覚があった。慌てて立ち上がり襖を開けると電気は点いているものの客の姿は無かった。
「あ、辻本くん!大丈夫?」
社員のおばさんだった。
「大丈夫……です。あの、お客さんと他の従業員たちは」
「もうとっくに帰ってるわよ、私たちももうすぐ帰るところだったの」
気を失っていたらしい。ふと時計が目に入る。二十三時を指していた。きっと締め作業もほとんど終わったのだろう。
「そういえば店長のところに行った方がいいんじゃない。気にかけている様子だったわ」
「はい……」
今は話したくなかった。どんな顔を合わせればいいのか、どんな風に謝ればいいのか、どれだけ考えても怒号を浴びせられる未来は変わらない気がした。
しかし無言で帰る訳にはいかず、観念して厨房にいる店長に謝りに行った。
「あの、店長」
「辻本か、お前身体大丈夫なのか?」
「えっ?」
「いや、だからお前いきなり倒れたよな?病気とかあったら大変だろ」
「……そうですね」
思いもよらぬ展開に言葉が上手く出てこなかった。今までと同じ人物とは到底思えない言動の連続だった。ずっと罵声を浴びせ続けてきたくせに。今になって優しくしたってもう手遅れだ。もう僕は壊れてしまったんだ。
「……お、おい辻本」
「なんですか」
「泣かないでくれよ」
「いや、泣いて……」
直後涙が頬を伝う感覚が分かった。絶対に人前では泣かないと決めていたのに気づけば止まらなくなっていた。
「……お疲れ様でした」
僕は店長に一礼だけすると、すぐに更衣室へ逃げ込んだ。目を合わせることもできなかった。どうして自分が泣いているのかも分からないまま、その事実から目を背けるため必死に涙を拭う。次から次に溢れてくるそれが悔しくて、恥ずかしくて、どうしようもなく惨めに感じた。
更衣室を出ると社員のおばさんが待っていた。赤く染まった僕の目元を見て事態を察したようだった。
「やっぱり怒られちゃった?」
「いえ、怒られてはないんです」
「そう、じゃあどうして泣いてるの?」
「それが自分でも分からなくて」
おばさんは深刻そうな顔をした。そういえば僕はこの人の名前を覚えていない。
「きっと無理してたのね」
「そうですかね」
無理をする。その感覚が自分にはあまり理解できなかった。実際に動いているのだからそれは無理に値しないと考えていたのだ。しかし大学生になってからやけに多くの場面で言われるようになった"無理をしてはいけない"という言葉。もしかしたら今の僕の状態こそがいわゆる"無理"な状態なのかもしれないと思った。
「あのね、辻本くんの今後のためにも一つ言っておくことがあるわ」
「なんでしょうか」
「こんな場所さっさと辞めてしまいなさい」
「え……」
それは自分の中に全く無かった選択肢だった。だってこの店を辞めたら、自分はその程度の人間でしかなかったと認めるようなものじゃないか。僕が働いてきた半年間、何人ものバイトがこの店を辞めていった。僕はそれを見ながら自分はこうなってはいけない。そう必死に言い聞かせていた。辞めた後その人たちはどんな言われようをしているか、どんな風に思われるか、痛いほど分かっていたからだ。
僕はあの人たちと違って甘えた人間にはならない。一人前になるその日までここにしがみつかなければいけないんだ。
「納得いってないみたいね。私からの忠告はこの一回だけだよ。あなたはここにいるべきじゃないわ」
「でも、……そのあなたは」
「私?あら、名前覚えてくれてなかったのね」
「すみません」
「いいのよ別に。私はね、家庭があるから今辞める訳にはいかないのよ。明日から仕事辞めて収入ゼロになりますって妻に言われたらどう思う?この先うちのガキたちをどうやって育てればいいのって話でしょ?」
黙って聞くことしかできなかった。家庭を持つ責任の重さはきっと僕の想像を遥かに超えるものだろうから。僕はたった自分一人の人生を背負っているに過ぎない。自分の責任なら自分だけが持てばいい、そういうことをこの人は伝えたいのだろう。
「あと、私は山崎。もう呼ぶことないかもしれないけど、半年近く働いているんだから仕事仲間の名前くらい覚えておきなさい」
「はい、ごめんなさい」
「じゃあ今日はお疲れ様。辻本くんも早く帰るのよ」
「ありがとうございました」
頭を上げるともうそこに山崎さんの姿は無かった。店を出る時ふと厨房を見ると店長はまだ一人で考え事をしているようだった。
「お先します」
反応は無かったがもう時間も遅いのでそのまま店を出た。
"こんな場所さっさと辞めてしまいなさい"。
帰り道、自転車を漕ぎながらこの言葉を何度も反芻した。確かに辞めてしまえば楽になれるのかもしれない。辞めたところでしばらくは生活していけるかもしれない。ただ、ここを辞めたことへの烙印を押される恐怖が僕を強く引き留めた。
結局僕は山崎さんの忠告にすぐには従わず決断を先延ばしにした。
それから二週間程経った頃、ひょんなことがきっかけで僕は銀行口座の貯金額と睨み合っていた。ネットで話題になった同い年の起業大学生に影響されて気が大きくなっていた僕は、自分も何かを成し遂げなければならないと思っていた。そこでまずは半年の成果を見てみようと現在の軍資金を確認したのだった。
初めに抱いた違和感は思ったより貯まっていない、ということだった。自分は生活のすべてを切り詰めた上で人一倍労働に時間を費やしているはずなのに、目の前の金額はせいぜい一般的な大学生がもらえる仕送り二、三ヶ月分ほどにしか満たなかったのだ。
まさかとは思ったが、ここまで来て検証しない訳にはいかない。今まで適当に計算していた労働時間を全て確認することにした。
そして貰えるはずの給料の多くが削られていることに気づいた時はまさに血の気が引いていく感覚を覚えた。そんなこと信じたくなくて何度も何度も計算をやり直した。しかし結果は毎度変わらず大規模な給料カットの事実を示すだけだった。
十回目の確認算をしたところでふと電卓に向き合う自分が馬鹿らしく思えてきた。そこでやっと僕は手を止めて溜め息とともにその事実を受け入れた。
息が荒くなっていて、額から汗が垂れていて、無意識に歯を食いしばって手を強く握りしめていた。
自分がこんなことに巻き込まれるはずがない。そんな甘えた思い込みが僕をいっそう締め付けた。
次の瞬間、一人考えごとをする店長の顔が頭をよぎった。あの時店長は何を考えていたのだろう。散々搾り取ったお金をさらに搾り取るための方法だろうか。精神の限界が来ている都合のいい金蔓アルバイトを留まらせる接し方についてだろうか。
僕は最近ずっと精神的に追い詰められていた。それは勿論自分の至らなさを憂いていたからでもあるが何より店長の度重なる拷問じみた説教が原因の大半であった。そんな状態だったのに、あの夜僕は店長に優しくされて不覚にも涙を零してしまった。いつも怒ってばかりだった店長がようやく僕のことを認めてくれたんじゃないかと一瞬本当にそう思い込んだ。僕は一人前になれたんだと。ここで半年間耐えながら働いてきてよかったと。辛いことばかりだったけどそれも全て今の自分に繋がっているんだと。認められたかった僕の奥底にある欲求が声を上げて泣きながら喜んでいたのだ。
僕はあの時山崎さんの忠告を無視した。でも今ならはっきり分かる。
"こんな場所さっさと辞めてしまおう"。
それからは本当に早かった。次の日には店長に辞める連絡を入れその三日後にはクリーニングに出した制服を返却した。店に行くとそこはいつも通り客と従業員がいて、いつも通り居酒屋が営まれていた。
「こんにちは。辻本です。制服の返却に参りました」
「あ、辻本くん。辞めちゃうなんて残念ね」
新人時代色々なことを優しく教えてくれた一つ上の先輩。彼女ももしかしたら搾取されているのかもしれない。そう思うと胸が痛くなったが、僕に干渉する資格は無かった。
「ほんとにお世話になりました」
「うん、またどこかでね」
そう言って手を振る先輩の笑顔に翳りが見えた気がしたのは気の所為だっただろうか。
「おい辻本。お前どうしたんだよ。最近仕事覚えてきていい感じだったじゃねえか」
「いえ、僕にはもう出来ませんから」
店長は今まで通り騙せていると思っているのだろうか、あの夜と同じように優しく振る舞ってきた。まだ引き留められると思われているのが癪だった。
「新しいとこ見つけるまでもうちょっと働いてけば?」
「結構です。もう次は決まってますので」
「なんかお前今日態度悪くない?どういうつもりなの?」
明らかに機嫌が悪くなっていく店長を見て僕は良くない予感がした。これ以上時間をかけるのは危険だと思った。
「すみません、こちらクリーニング済みの制服です。今までお世話になりました」
急いで制服の入った紙袋を押し付けて別れを告げた。後ろから何か言われているのが聞こえた気がするが、決して振り返ることはしなかった。あの夜と同じように僕は店の外へ逃げ出した。
「あれ、辻本くんじゃん」
外に出たところで聞き覚えのある声に呼び止められた。声の方を向く。
「山崎さん」
「ついに辞めたんだ」
「はい……」
山崎さんを前にすると途端に自分の決断が恥ずかしく感じてしまった。
「もうちょっと引きずると思ってたけど、何かあった?」
「給料のことで色々あって」
「ああやっぱりね」
山崎さんはそれを知っていてあの忠告をしたというのか。
「知っていたんですか?」
「まさか。給与明細は本人と店長しか見れないし。」
また山崎さんは深刻そうな顔をした。
「でもね、そういう子が今まで何人もいたのよ。ここの店、給料の算出方法が不透明なの。皆が皆抜かれている訳ではないかもしれないけど、そういうクズみたいな男なのよ、あの人は。」
「じゃあ他の皆にも教えてあげれば……」
「それはできないわ。私にとってもこの店は潰れて欲しくないし、皆一気に辞めちゃったら私の働き先が無くなるでしょ?」
「そんなこと考えてたんですか」
「前も言ったでしょ、まずは自分の家庭が最優先なの。それに私の立場で他人の給料に口出すのはちょっと問題があってね。だから少なくともその子が自分で気づくまでは私から核心をつくようなことを言うつもりは無いわ」
「そう……なんですね」
僕は勝手に山崎さんを味方だと思っていたのだろう。でもそこにいるのは想像よりずっと打算的な人物で、これがいわゆる大人ってやつなのかなと思ったりした。
「まあ社会経験にはなったんじゃないの。早く良い所見つけなさいよ」
「はい、あの、お世話になりました」
山崎さんは何も言わず店の中に入っていった。
僕は店の前で一人取り残された。
しかし周りを見渡せばそこにはいつも通りの世界が広がっていた。歩行者は疲れた顔で荷物を引きずって、自転車は身勝手にスピードを出して歩道を駆け抜けていた。そこらじゅうでクラクションが鳴って、どの車もピリピリした空気を纏っていた。全部いつも通り。僕がこの居酒屋を辞めたことで変わった社会のピースは一つも無い。
しかしそれは気持ちが楽になる一方でとても虚しい事実でもあった。自分ごときに社会を変える力は到底無いのだと思い知らされる。そんな不甲斐ない現実。
やっぱりまだ地元には戻れないと思った。
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