第二十一話 「合居」

 結局、変なニオイがするトイレの小さな洗面台にて、妹の矛子に落書きされた顔を洗った。

 妹がお風呂から出るのを待っても良かったかもしれない。

 しかし、顔が変なふうになっていると思うと、それを落とさずにはいられなかったのだ。


 トイレから一旦自分の部屋に戻ってしばらくした頃、二階へ駆けあがる矛子の足音がした。

 お風呂から上がり、彼女も自分の部屋に戻っていったようだ。


 それならば、散々な目に遭った今日の心を落ち着かせるべく、自分もお風呂に入る。

 お風呂場に備え付けられた、全身を写す長方形の鏡を見る。

 疲労困憊した顔はそのままに、綺麗に落書きが落ちているのがわかった。

 おそらく水性マーカーで描かれていたのだろう。


 湯船にゆっくり浸かり、いつもの日課として今日のことを振り返る。

 どんなに辛いことがあっても、お湯のじんわりとした温かさがそれを癒し、向き合いやすくしてくれるのだ。

 悩んだ時は湯船に限る。


 さて、このように良い心地だからこそ、今日も向き合えることがある。

 赤の柄を青海さんのお父さんに返したことに対し、なぜ青海さんが「…意味わかんないんだけど。」と漏らし、さらに部屋から走り出たときに「逃げんなよ」と呟いたのか。

 あのとき僕が赤の柄を手放したことに、彼女は静かに怒っているようだった。

 なら逆に、手放さなければ彼女も怒ることがなかったのだろうか。

 仮にそうなら、怒らないということは、青海さんは赤の柄の持ち主として僕を認めている、とも捉えられる。

 では、僕のどんな行動が青海さんに認めてもらうことにつながったのか。


 昨日、青海さんに初めて会った時を振り返る。

 あの時の青海さんは、自分みたいなボッチな人間が嫌いなうえに、回収すべき赤の柄をそんな人間が持っていたから、暴力を振るったのだろう。

 しかし、暴力を振るううちにその目的が「柄を回収する」から「ボッチを倒す」に変わっていった。

 そうして彼女は、「ボッチがいる現実から逃げたくて」想像の力を使うようになってしまったのだ。

 それに対し僕は、「幸せを実感するために想像を使うべきだ」と説得しようとした。

 しかし手遅れだったのか、青の柄が暴走しだし、蛇の頭をしたスーパービュー踊り子のロボが襲ってきた。

 それでもなんとかロボの暴走を止めた後、彼女はこんなふうに言っていた。


「それに、あなたに出会ってなかったら、この先も柄の使い方を間違えていた」


「あなたが言うように、幸せを実感するために想像を使い、柄を使った方が、土地神様が喜ぶ。」


「あんたみたいに、想像を正しいことに使う人からは回収しないわ」


 確かに彼女は認めているようだった。

 あの後に起きた色生神社の裏の川にて。

 黒の柄を持った想像の暴走を止めるべく、今度は共闘した。戦い終わった後、彼女はこうも言っていた。


「ほんと、信念がある」


「うん、今日だけで何回も『想像は幸せを実感するため』って言ってる」


 僕の事のみならず、信念にも似た夢のことも認めている。

 青海さんにとって、僕は本当に赤の柄を使うべき人物なのだろう。

 だから、手放したことに対して怒りさえも感じた。

 それなら納得がいく。


 しかし、「逃げんなよ」とはどういうことなのか。

 何から逃げてはいけないのだろうか。

 赤の柄からなのか。

 それとも、あのとき話していた色生神社の起源の話から、この地を守るということからなのか。

 一度は認めたのに、赤の柄を使うことから逃げたことに、またはこの地を守ることから逃げたことに、青海さんは怒ったのかもしれない。

 もしそれでも納得がいく。


 しかし、自分の夢や「変わりたい」という自分勝手な希望を持った僕が、果たして赤の柄を使うべきなのか。この地を守るべきなのか。

 否、そうではないはずだ。


 青海さんの「赤の柄を使うべきだ」という気持ちに納得はできても、賛成はできない。


 そろそろのぼせてきそうなので、お風呂から上がることにした。


 翌朝。

 カーテンの隙間から、太陽の光が暗い部屋へ差し込んでくる。

 もう朝なのかと、これからベッドから起き上がろうとしたその時、違和感を感じた。

 変に頭が重い。かといって頭痛という訳ではない。

 とくに額が局所的に重いのだ。何かを載せられているような。

 その正体を探るべく頭を起こす。

 すると、直方体の影が上から倒れてきて、バラバラに崩れながら太ももや股部分に落下してゆく。

 特に、それが何度も股間にぶつかったのは男性である以上、相当痛いもので


「ッタァァァァァ!」


 思わず声を上げてしまった。心臓を何度もグシャグシャ揉まれる感覚なのだ。


「キャハハァ!」


 横から聞こえる笑い声で分かった。やっぱり妹の仕業だった。

 股間を抑えつつ、バラバラなそれのうち一つをつまみ、窓からの朝日に当ててよく見る。

 木製で、てのひらサイズの長方形の物体。

 ジェンガだ。

 どうやら寝てる間、先に起きた矛子が額の上にジェンガを積み上げていたようだ。


 せっかく昨日はいい湯に浸かり、深く悩み事を考えられたのに。


 股間の痛みをこらえつつ部屋でパジャマから制服に着替えると、重い足取りで同じく制服姿の妹と共に階段を下りる。居間に行くと、母が作った朝食が用意されていた。


 一方母はそこに居らず、キッチンの方で僕と妹の弁当を作っているみたいだ。

 

 ちなみに父は既に出勤しており、この時間にはもう家にいない。


「おはよう、盾と矛子。さっき変な声がしたけど何?」


 若干低い声で落ち着いた様子。いつもと変わらない。


「また矛子がイタズラして、今度は股間潰された」


 本当に、今日も散々な目覚めだ。


「言ってるでしょ矛子。寝起きのイタズラはダメって」


 もう妹の悪行に呆れたのか、母のその𠮟り方からは諦めを感じる。

 最後に大声上げて彼女を叱ってくれたのは、僕が台所で顔の落書きを落とすのを、母が父と一緒に見かけたときだろうか。

 僕の顔を見るあの神妙な父と母のリアクションは、忘れたくても忘れられない。


「べつにいいじゃん兄だし!そうでしょ盾!」


「その兄がダメって言ってんじゃん……」


 朝からこんなにハツラツと、ある意味明るい会話をする妹にはもうついていけない。故に、彼女に反応してあげるときはどうも疲れてしまう。


 そんなこんなで、四人掛けダイニングテーブルの席に座る僕と矛子。

 納豆とキムチに目玉焼きをのせたトーストと、納豆とキムチの上から生卵を割ったご飯。

 これが今日の赤山家の朝食だ。

 パン派か米派かを選べない母の影響で、こんなふうにトーストとご飯をセットで食べるのが常である。


 うまい。


 ごはんやパンは何にでも合うと聞くが、僕が思うにそれは逆だ。

 納豆とキムチに卵こそが、何にでも合う。

 こんな悪魔的で健康的なおいしさ、ほかに何で代替できるのだろうか。


 なんて考えつつ夢中になって食べるうちに、いつの間にか股間の痛みが引いていた。


 やはり納豆キムチ卵は、悪魔的で健康的なおいしさだ。


「ごちそうさま」


 妹よりも一足早く平らげると、コップに入った豆乳を飲み、食事を終わらせる。

 豆乳を飲むのもこれまた母の影響である。母曰く、牛乳よりも豆乳の方が味がすっきりしていて好きだという。


 そうして歯を磨き、バックを手に取ると、


「いってきます」


 憂鬱な気分とともに玄関のドアを開けた。


 また、牢屋のような学校へ行くのだから。


 家を出たら、まずは徒歩で駅へ向かう。そこから電車で色生市駅に行き、降りたら徒歩で学校に行く、というのがいつもの通学ルートだ。


 さて、一軒家である赤山家から足を踏み出し、目の前の道路を歩き始めたその時。


「逃げんなよ」


 青海さんの声がした。


 しかし、やけに血の気が多い感じだ。


 住所を教えていないため、彼女がいるはずないと思いつつ、後ろを振り返ると、


 そこにいたのは青海さんではなく、


 青海さんのシルエットをした赤い怪物だった。


 気づいたときには宙へ飛び上がり、僕に襲い掛かろうとしていた。


 赤いオーラに包まれつつ、服に肌の色、髪の色まで同じ鮮やかな赤色。

 目は赤黒く光り、トゲトゲした口をあんぐり開けている。


 この怪物、捕食したいのか。


 ああ。僕は死ぬのか。


 なぜなのか、諦めている自分がいた。


 生き延びる方法を想像できても、赤の柄を持ってない故に現実にできないからなのか。


 それとも赤の柄を手放したことで、もう変わることができない、と知らず知らずのうちに絶望していたからなのか。



 ブォンヴォンビュンッ!



 そのとき、僕の前を素早い何かが横切った。


 影だ。


 影は、青緑色に光る線を空中に描きながら高速で進み、赤い怪物に体当たりをくらわした。


 この音と、この光。


「あの人」だ。


 僕の視線の前方へ、遠ざかるようにして吹っ飛んだ怪物。


 しかしタフなのか、すぐに起き上がり、また僕の方を見る。


 一方で、怪物の周りを走る影。


 青緑色の軌跡を描くにとどまらず、影全体が藍色に輝き始める


 すると、真正面から怪物に突進して藍色の火花を散らす。


 さらに、こう叫んでいた。




「合居(あい)!」




 次の瞬間、影は怪物の後ろに回り、低い姿勢でぴたりと動きを止める。


 影の正体だった人物は日本刀を両手で持ち、体に対し藍色の刀身を斜めに構えていた。


 一方、怪物もまったく動かない。


 直後、藍色の刀身はボロボロと、剥がれるように細かく地面へ落ちてゆく。



 ボロボロ…ボロボロ…



 すべてが剥がれ落ちて刀身がなくなったとき、怪物はピックっと動くと、



 ドサッ



 地面に倒れ、モクモクした赤い煙で覆われてしまった。


 しばらく経ち、煙が晴れたころ、怪物が倒れたはずのところには赤の柄が落ちていた。


「あんた、大丈夫?」


 怪物を切った人物が振り返り、顔を見せてくれた。


 さわやかな雰囲気を醸し出す、外はねロングでセーラー服姿の女子高生。


 この人を知っている。


 しかも、その人に命を助けてもらった。


 ならばこう言うのみ。


 僕は、こんな言葉を口にした。


「青海さん、助けてくれてありがとう」

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