第二十話 「矛子、妹だからってこれはひどいよ。」
さっき、玄関の冷たい土間に頬をぶつけるようにして倒れていたはず。
なのに今、頭の後ろや背中が程よくやわらかい。
人をダメにするソファーのように柔らかすぎず、木でできたベンチのように硬すぎず。
ん。頭の前が温かいような。
いや、温かいんじゃない。生温かすぎる。
変に湿気た温風が、スースーと音を立てて目と目の間にぶつかっているのだ。
不快感の正体を探るべく目を開けてみる。
すると、妹の顔がまじまじと近づいていた。
そして寸分のずれもなく、綺麗に目が合ってしまった。
「うわっ!」
「うわっ!」
お互い似たように驚くと、妹は壁際の方まで素早く離れ、僕は上体を起こして後ろの壁に背中を寄せた。
妹の顔の後ろを見ると、見慣れた白いクローゼットの扉がある。
そうか、今ここは自分の部屋だ。
ということは、今自分が寝ていたところは…?
確認するべく頭を下に下げると、視界に入ったのは白いベッドのシーツだった。
どうやら倒れてから家族の誰かに運ばれ、先程まで自分のベッドで横になっていたようだ。
しかし目の前にいる、華奢で力もあまり強くない妹がたった一人で、細身とはいえ年上である自分の体を運べるとは思えない。
せいぜい妹と、母か父のどちらかの二人がかりで運んだのだろう。
なら、なぜ目覚めたときに妹が一人でここに居たのか。看病してただけといえばそれまでだが、無性に気になる。
彼女の服装や持ち物から考えてみることにした。
デニム生地のズボンに、スポーツメーカーのロゴがプリントされた綿製の赤Tシャツ。
それに自分と同じく、褐色がかった腕や首、顔。
黒髪で、ヘアスタイルはボブ。
ここまではいつも通りだ。
しかし、右手に黒ペン、左手に金色の持ち手がついた手鏡を持っているのはいつもと違う。
全体像を見てから再び彼女の顔をみると、目尻に皺を寄せたうえに限界まで口角を上げ、今にも吹き出しそうな顔をしている。
すると、彼女の笑いのダムは崩壊した。
「ッキャハハハ!ほんとバカみたい!」
腹をよじらせて笑いながら近づいてきたかと思うと、今度は鼻で一息吸って一旦笑いをこらえ、左手の手鏡で僕の顔面を映してきた。
黒ペンで眉毛が極太にされた上に、ほうれい線や眉間の皺を書かれ、先端が丸くねじれた二本の鼻毛を鼻の穴からつけ足されていた。
それに加え、仕上げと言わんばかりに額に第三の目が書き入れてある。
そんな顔の主は、寝起きで腑抜けたみっともない顔つき。
手鏡を見る僕に対し、彼女はもう一度吹き出し、
「キャハハハァ!」
盛大に腹を抱えて笑った。
またやられた。
赤山 矛子(あかやま ほこ)。中学二年生の妹だ。
かつては、たまに寝起きを狙ってイタズラを仕掛けてくる程度だった。
しかし、彼女が小学五年生の思春期になってからというものの、イタズラの過激さはそのままに、なぜなのかそれの頻度はドンドン増していった。
普通そういうのは性を意識し始めてあまりしなくなるはずなのに。
あるいは馬鹿馬鹿しく感じるはずなのに。
未だに小学生レベルなくだらないことを仕掛けてくる。
「盾マジで最高!」
そして仕掛けては、「兄ちゃん」などではなく、大声で「盾(じゅん)!」と呼び捨てする。
この呼び方や口調からひしひしと軽蔑の念を感じるため、いつも鼻につく。
そういえば今何時なのか、分からない。
それを意識しだした瞬間、自分は一体何時間倒れていたのか分からなくなり、だんだん怖くなってきた。
この部屋は時計がなく、自分以外でこの部屋にいるのは彼女のみのため、仕方なく彼女に聞いた。
「おい矛子、今何時だ?」
「夜の八時だけど?」
そうか。倒れてからもうそんな時間になっていたのか。
「じゃ、お風呂は先に入るから、その顔でしばらく我慢してて?」
あ、まずい。矛子はいつもお風呂場に鍵をかけてお風呂に入る。
そのため、その時だけはお風呂場の洗面台が使えない。
しかも、この家にある洗面台はお風呂場と台所の二つと、お手洗いの中にあるとても小さな物のみ。
台所で家族に顔面を見せながら洗うわけにはいかない。
羞恥心で耐えられないからだ。
前に同じようなことをされてしまい、台所で顔を洗ったところ、両親に変な目で見られてしまったのがトラウマだ。
そのときは矛子をちゃんと叱ってくれたのがせめてもの救いだが。
そしてトイレの洗面台は、こちらも顔を洗ったことがあるものの、単純に洗面台自体が酸っぱいニオイがするため、使いたくない。
それなら選択肢は一つ。
ドタバタ大きな足音を立てて、お互い二階から一階に下り、お風呂場へ廊下を駆けていく。
しかし、あと一歩のところで彼女に体を押され、先に入られてしまった。
ガチャン!とこれまた大きな施錠音が鳴る。
こうなってしまったら、矛子はお風呂から上がるまで二度とドアを開けないだろう。
こうして、トイレの洗面台を使うことになってしまった。
親に気づかれなかっただけよかった、と自分に言い聞かせつつトイレに入り、蛇口をひねる。
洗うために顔を近づけると、相変わらずお酢のような酸っぱいニオイがしてきた。
この矛で突き刺されるような臭い、なんとかならないのだろうか。
今夜はひどい眠りになりそうだ。
顔を洗い終わり、ぐったりとトイレから出ると、あまりのストレスにこうつぶやいた。
「矛子、妹だからってこれはひどいよ」
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