赤の柄を手放す者
第十九話 「逃げんなよ」
「あの、赤の柄、お返します」
こたつ机を介して反対側に座る、青海さんのお父さんに対してそう言った。
一瞬静けさが走り、机上のお茶は湯気を出さなくなっていた。
湯気に邪魔されずはっきり見えるお父さんの顔は、驚きで目が開いている。
なぜ赤の柄を返したのか。
色の柄にも関わる土地神様の誕生経緯を聞いたことで、自らが使用する理由が自分勝手なように感じ、使うべきでないと感じたからだ。
弥生時代、元はこの地で人間として、変わらない日常を過ごしたかった女性。
しかし、大切な人の命を奪われたと思い込んだ故に、憎しみのために想像を使い、結果的に彼女は自身の肉体を滅ぼしてしまう。
彼女は滅びる寸前、大切な人は奇跡的に生きていたことを確認すると、彼に
「君と一緒に居て楽しかったこの地を、」
「守って」
と、託したのだ。
そんな思いで後の色生神社は建てられたうえに、神主である青海さんのお父さんは色の柄の管理もしているのだろう。
しかし、「自分が変わりたいから」という希望のために使うのは、
そして「想像を、幸せを実感するために使う」という自分の夢のために使うのは、
例え誰かのためであるとしても
この地を守っている訳ではないため、間違っている。
「…意味わかんないんだけど」
向かって左側に座る青海さんから、怒りやじれったさに近い感情をひしひしと感じる。
視線をお父さんから青海さんに移すと、無表情な口元で机にうつむく彼女がいた。
ストレートな黒髪が滝のごとく下に流れて目元を隠しており、口より上の表情や視線が読めない。
それでもあの口調から、確実に嫌悪感を感じているのは確かだ。
なにが青海さんをイライラさせるのかよく分からず、何とか理由を探す。
なぜだ。
この地を守るはずの柄を自分勝手に使うのは許されない気がするのに。
家に連れてきたとはいえ、もともと僕のようなボッチが嫌いな人で、彼女には好都合なはずなのに。
頭の中で思考を回転させるが、やっぱり分からず、緊張や焦りで摩擦熱のような不快な熱さが頭中に広がる。
全く分からない以上、質問するべきだろうか。
かといってあの感じ、本人に質問すると、最初に遭ったときのように手を上げられそうなのが怖い。
いや、今は親の前だからそんなことはしないだろうが、それでもなにか理不尽なことを言われそうな気がしてならない。
「つるぎ、それは言葉が強いんじゃないのか」
先程のびっくりした表情から若干冷静さを取り戻し、彼女を諭すお父さん。
お父さんも、この緊迫としてしまった空気が苦しいのだろう。
しかし、彼の優しさでも中和しきれない、彼女の冷淡な恐ろしさ。
本当に、なぜ怒っているのだろうか。
疑問を解決すべく、見る角度を少しずらして髪に隠れた目線を伺うと、今度はかすかに彼女の目が見えた。
細い目尻の隙間から、僕を覗いていたのだ。
鋭い目線に睨まれて命の危険を感じたあまり、耳をビクっとさせてしまった。
生存本能がそうさせるのか、座っていた座布団から少し、また少しと臀部を放し、中腰くらいに立ってしまう。
そして全速力で青海宅の二階の居間から飛び出した。
その最中、
「逃げんなよ」
彼女はこう言っていた、気がした。
そのまま階段へ駆けてしまい、急いで自分の靴を履くと、青海宅から逃げた。
後ろを何度見ても、青海さんは追っていないのに。
あの言葉のせいで、追っているような気がした。
もしや彼女は今、青の柄の技である「
そう思い込んでしまうと、普段通らない路地裏や、細い住宅街の道を通って彼女を撒こうとした。
顔や手が橙色に燃える夕日で焼かれるうえ、着ているブレザーで体中が蒸され、体力が尽きかける。
しかし彼女に捕まったら、また何されるか分からない。
脚が止まってでも絶対に動かした。
よくある一軒家の家の前に着くと、
急いでスラックスのポケットから鍵を取り出し、
必要以上に速いスピードで開錠して中に入り、
力任せに扉を閉めてシリンダー錠二個とドアバーをかけた。
鍵三つがしっかりかかっていることを確認すると、安堵のあまりドアに背中でもたれ、深呼吸した。
上を向くと、真っ白の天井。そして点灯せず、ここを薄暗くしたままのシーリングライト。
いつもの玄関だ。
目線を戻すと、あるものが視界に入ってしまった。
下駄箱の上にたたずむ青い猫の置物。
うっすらホコリを被っており、特徴的な細い目つきに猫らしく冷たい表情をしている。
そのとき、青海さんの目線と、あの言葉を思い出してしまった。
「逃げんなよ」
深呼吸の息が上がり、過呼吸になっていった。
だんだん胸の肺から酸素がなくなるのを感じ、意識が薄く、ほわほわしてくる。
瞼が、落ちてきた。
あれ、右の頬が冷たい。
ああ、この滑らかな感じ。
玄関の土間に倒れちゃったのか。
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