極短小説・大切なバッグ

宝力黎

大事なノート

それは子供の頃から度々経験してきた感覚だ。自分のいる場所が、不意にどこだったか判らなくなっていく。

 そのうち、知っていたはずなのにと思っていることすら疑わしくなる。私は誰で、なぜここに居て、なにをしているのか。なぜ忘れてしまうのだろう。なぜこんなに悲しいのだろう。


「何やってるんだ?」

 見知らぬ男が眉間にシワを寄せ。小声で言った。

「みんなが変な顔してるぞ……早く!誓いのキスだってば、ジェイン」

 彼は私を《ジェイン》と呼び、抱き寄せた。白い衣装はウエディングドレス。これはなに?結婚式?

 彼の唇が私の唇に触れると会場に集まったほんの十数人から拍手が起きた。彼は、私の夫になるの?私が彼の妻になるの?いつ決まったの?なにも判らない。

「泣いているんだね?必ず幸せにするよ、約束する」

 優しいささやきだ。嘘では無いのだろう。でも、あなたは誰?あなたが大切にするといったこの私は、誰?

 忘れてしまった。


 家に戻り、彼は新婚旅行の支度だ。私は一人で腰掛けていた。

「疲れたんだろ?ゆっくりしてなよ」

 彼はそう言った。優しいのだ。それは理解出来ている。けれど、誰なのか判らない。

 私は自分の手のひらを見た。

《大切なバッグ》という小さなタトゥーが彫られている。なんのことだろう?私は彼に尋ねた。

「あ……あの、私の《大切なバッグ》は?」

 彼は振り返り、呆れた様子で笑った。

「おいおい、タトゥーを入れるほど大事なんだろ?日記とかが入ってるって言ってたけど」

 彼は指さした。そのバッグはクローゼットの棚に置かれている。それをとると私は彼から離れ、椅子に掛けて中を見た。数冊のノートが入っている。古めかしいものから割と新しいものまで揃っている。一番きれいなノートを開いてみた。

 読み進むうちに驚いた。それはどうやら自分が書いたものらしかった。そこには毎日のことが書かれている。誰と会い、何をしたかがひどく細かく。日記にしてはあまりにも細かい、まさに記録だ。

 日付が入っているが、毎日書いていたわけでも無いらしい。最後の日付から今日までは一週間ほど飛んでいる。だが少し理解出来た。自分が記憶を失ってしまう人間らしいということが。そのために記録をとっているようだと。

 驚きながら読みはしたが、懐かしさも何もない、知らない人の日記に見える。でも、これがあれば周囲と話を合わせることは出来そうだ。

「なら、続けなくちゃ」

 そう思い、ペンを取った。

《今日は結婚式。彼と誓いのキスをした》

 ノートを見返すと、男の名がキース・カイテルだと判った。私の名前はジェイン・リグビーだ。別姓を選ぶと書いてあった。式が楽しみだ――とも。可哀想な私の前のジェイン。そんなに楽しみだった式に《出られなかった》なんて。

 私はこれからあなたの代わりにあなたの続きを生きていくの。だからきっといつか現れる次のジェイン――あなたもしっかり生きるのよ?

 こうして私の人生は継ぎはぎで続く。愛する人と共有する本当に懐かしい《昔の想い出》を得られること無く。それが一番の不幸な気がしているけど、今は彼を――前のジェインが選んだキースを信じて一緒に歩いて行こう。せめて、そうしてあげよう。

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極短小説・大切なバッグ 宝力黎 @yamineko_kuro

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