1『OSZの残り火』
その日。
グレイを許さない
街灯が水溜りに作る影と光の境界は、
低い雑居ビルだの民家だのが建ち並ぶ、田舎か都会か分からない中途半端に進化の止まったこの町は、豪雨に晒されていた。
沼の底のような深夜でも、雨粒が地面へぶつかる音は機関銃のように激しかった。もしその中で人が走っていたり、宙に浮いていたりしても、雨を嫌って屋内に居れば誰も気付く者は居なかった。
走っているのだ、人が。
二〇二一年だ。日本の小都会だ。
だというのに大雨の中で傘も差さず、暗闇の町中を一人の女が息を切らせて走っている。
黒い
そんな格好の鋭い目つきをした赤髪の女は、土砂降りの下を走りながら後ろを振り返る。
すると彼女の後ろ数メートルほどに、黒いレインコートを着た何者かが走って追って来るのが見えた。
通りに連なるのはせいぜい五階建てが最大の低いビル達だ。
女はその中の、ビルの隙間にある小道の一つへ入った。
「ッ」
その道の先の行き止まりを見ると、女は舌打ちを飛ばす。
だが閉じたその道を諦めて女が後ろを振り向くと、既に黒いレインコートの人間は小道の入口へ立ち塞がっていた。
そいつは左手をレインコートの中で腰の後ろに回し、背中側から三十センチほどの長さの棒を取り出す。
持ち出したのはスタンバトンだった。棒の先端が夜闇を裂くように眩く点滅するそれを持ったまま、レインコートはゆっくりと女に近付いてきた。
その電流に気付いた女は上着のポケットから、五センチ程度の銀色の球体を一つ手の中に持つ。
鈴だ。
それをレインコートへ向けてではなく、彼女から見てその右の壁へ向けて放り投げた。
雨粒に交じる銀色の鈴が空中を進む間に、彼女はさらに手を構える。
右手の人差し指と中指を伸ばし、左手で手首を支える。
しかし鈴は慣性を変える。
誰も触れないまま突如地面へ垂直に落下したのだ。
そのまま地面へぶつかっても全く跳ねず、それどころか砂山に落ちたようにアスファルトに食い込んで、そのまま鈴の半径と同じ深さの窪みを作り埋まってしまった。
だが鈴の運命とは関係なく、彼女の能力は発動する。
空気が雨粒を弾き、その鈴が当たるはずだった壁が震源地だと訴えるように、雨の作るおびただしい波紋を掻き消して水溜りに何層もの大きな波を立てた。
「っっアアああッ……!!?」
コンマ一秒遅れて黒いレインコートは両手で耳を塞ぎ、
黒いレインコートの男が怯んでいるその隙に、女はすぐさま男の脇に見えるこの袋小路の道唯一の出口へ駆け出す。だが速度がまだつかないうちに、二、三歩で足を止めてしまった。
そこへさらに、また別の人間が降りてきたのだ。
逃げ道の前に現れた赤みがかったレインコートを被る人間は、黒の方よりも
その赤いレインコートが一体何処から降りて来たのか、という事を彼女が疑問に思う暇も無く、次の瞬間か、前の瞬間だったのか。思考を体感で上書きした時にはもう既に女の体が重くなっていた。
赤髪の女は、
女は上着のポケットにまだ数個あるの鈴を、重い腕で取り出そうとした。
だが赤いレインコートは何かを手に持ち、赤髪の女の反撃を防ごうと即座に駆け出す。
そいつが突き出した手は黒い厚手のゴム手袋を付け、掌よりも少しだけ大きい直方体の装置を持っていた。
スタンバトンを見た直後だからか、細部がよく見えなくても赤髪の女はそれの正体を次第に理解する。しかし女がスタンガンだと気付いた時には、その放電の形さえ見える距離までそいつの手は迫っていた。
壁が砕ける。
小道を形成するビルの壁、女の右側の壁が爆発でも受けたかのように砕け、破片が飛び散る。人の頭ほどの大きさの破片も混じっていて、その一つが赤いレインコートの体に被弾し、向かいの壁まで吹っ飛ばした。
飛び散る壁面のコンクリートを一体何が破壊したのか。その場から数メートル離れて、ようやく耳から手を放そうとしていた黒いレインコートの男の位置からは、はっきりとその正体が見えた。
左手だ。
それが壁を破壊したのだと一発で理解出来るほど、巨大で赤黒く太い血管を脈打たせる、悪魔のような左手だった。
赤髪の女をその手の平が完全に包み込み、掴んで、自らが空けた穴の中へ引き
成人女性を片手だけで完全に握る、三メートルはあろうかと言うその手の平は、手首より先しか現れなかったが、どう見ても明らかに既知の生物の限界を超えるサイズだった。
黒いレインコートの男は、破壊された瓦礫に被弾した赤の傍へ駆け寄る。さらにそこへまた屋上からか、上空からか、暗い緑色のレインコートに身を包んだ人間が降りてきた。
これも黒と比べると頭二つほど小柄で、ちょうど赤と同じく中学生くらいの体格をしていた。
瓦礫に吹き飛ばされ対面のビルの壁にぶつかった赤は、ふらつき頭を手で支えながらもなんとか起き上がる。まだ動けはしないが、一旦その様子でそれなりの無事を確認すると、緑と黒の二人はビルの壁に空いた穴の中へ先行した。
中は一層暗い。
ただし
そして足音だ。
豪雨の音に対比する静かな足音が空間の奥から聞こえた。空っぽの影に満たされ広くない筈なのに果てを見失う部屋の奥から、紺色の服の少女が歩いて現れた。
赤い線の混じるチェック柄のプリーツスカートと、高く履かれた黒いソックス、そしてローファーと順に視認した所で、レインコートの二人はそれが学生服なのだと気付いた。
それはよく
会話の余地も一切無く、構えすら省略し黒いレインコートの男は少女へスタンバトンを振ろうとすると、それは失敗する。
攻撃は失敗していた。
振り抜いた攻撃を防がれたのではなく、振り抜くのを防がれたのだ。
攻撃をしようとした瞬間に重ねられるように、制服の少女は黒と目を合わせ続けたまま、動きの起点が分からない滑らかな動きで距離を詰めていた。そして意識の隙間に滑り込むように、バトンを振ろうとした黒の左腕はほぼ棒立ち状態のまま、少女の右手で掴み抑えられていた。
更に黒は右足で少女の腹へ蹴りを入れようとする。だがそう思って力を込めた時には既に、地面に抑えつけられるように少女の左足が膝を踏んで、攻撃は塞がれていた。
その衝撃で黒の意識がのろまに弾けている隙に、制服の少女は左手を黒の肩にかけ踏んでいた男の膝を踏み台にして、器用に体を
緑は一旦黒を受け止めると、数歩分の距離をたった一度のステップで下がる。二人が建物と路地の境界付近へ立つと、緑の方が子供のような左手を前に突き出して、まるでその手から炎でも吹き出しそうな開いた形で制服の少女に向けた。
制服の少女は二歩右に動く。
緑から見て少女の二歩右は黒が被って隠れていた。そして制服の少女はその黒を使って死角を取るように近付きつつ、時折緑の手を避けるように不自然に左右へ動き回る。
その動きの巧みさに噛み合わないのか、制服の少女が一瞬前に居た場所の床ばかりが、枯れた土のように割れて行った。
何が当たったのか、何かが当たったわけですらないのか。ただ突然割れるタイルによって認識出来るその見えざる攻撃を、制服の少女は来るより先に避けている。
「クソッ!」
攻撃を外す緑のレインコートから聞こえるそれは、焦る少女の声だった。
全ての攻撃を発動より先に対処する少女は、その余裕の表情が一転して突然何かに驚く。
その直後に来た、二人の背後から突撃してきた赤の不意打ちのスタンガンだけは、スパークが目の前に来るまで気付けなかった。
だが電流は届かなかった。寸前でスタンガンは凹凸の無い綺麗な断面を作って、真っ二つに切断された。
「いっ!?」
つんのめるような短い少女の声が赤の口から漏れた。
辛うじて赤の指はその切断領域に食い込まなかったが、配線コードを若干撒きながら役立たずになった武器を、赤は即座に手放して腕を引いた。
更にその場から赤が急いで後ろに下がる瞬間、レインコートのフードからほんの僅かにナイロンの破片が落ちる。しかしフードは抜けず顔は見えなかった。
レインコートのフードの端を削いだのは、暗闇の室内で死角に潜んでいた、微笑みと刀を携える金髪の青年だ。
既に刀は抜いて、鞘は地面にある。
闇に紛れる事に特化した黒いローブを身に着けながら、フードを脱いで金髪を露にするその青年は、レインコート達と相対した今も何故か目を完全に閉じている。刀も色の嘘臭い光沢を放っており、よく出来た
彼の登場で場の緊張感は更に高まる。
レインコート達の意識が慣れる間もなく、次の瞬間には青年は赤の首へ横薙ぎに斬りかかる。赤は反射神経だけでその刀を、スタンガンの感電防止用だった手袋をしている左手と素の右手でなんとか掴み止めた。
赤いレインコートの少女の右手からは一滴も血が出ていない。
攻撃が確かに受け止められた感覚を手元に感じると、青年の顔から今まで薄ら寒く張り付いていた笑みが消えた。
この膠着状態の隙を逃さず、制服の少女はブレザーのポケットから手の平大の装置らしき物を取り出し構えた。
それは
制服の少女は口を開く。
「【ヒーティヴァル】」
言い終わるくらいと同時に少女の右手の親指が装置を擦って、ライターの点火時のような音が鳴る。瞬間、少女の手元の装置が鈍く光る。更に同時に、或いは少し速く、緑のレインコートは即座に両手を後ろへ向けていた。
ビル壁の穴からレインコートの三人が飛び出す。
直後、〇.三秒ほど遅れて、人間より大きく姿を広げた炎が噴き出した。
レインコートの三人は飛び出したその勢いのまま後方へ落ち、反対のビルの壁へ着地して、落ちない。
降り続く雨が彼らの周囲だけほんの僅かに曲がって落ちていた。
雨中にうねりを鎮める炎の奥で更に瞬く光へ反応して、緑のレインコートの少女は両手を上へ――彼女達から見て上、つまり向かいの壁の大穴の方へ手の平を向けて構える。
穴の中に居る制服の少女の手元でキラリと光を反射したのは、火炎放射を引き起こしたさっきの装置とはまた別の形の物だった。
制服の少女はまた口を開くが、声は雨音で掻き消えた。
そしてまた別の音が鳴る。
装置の詳しい形を見る間もなく、激しく歪んだ空気の振動を体現したような細く鋭い雷が、壁へ向かって一瞬で落ちた。それはレインコート三人を避けるように大きく逸れ、塗れた壁面を伝い地面へ通電した。
「今は無理ね、一旦退くしかない」
緑のレインコートの少女が歯を引き絞るような高い声で言うと、他の二人は頷いて壁に立ち上がった。
緑が空へ振り向き、一歩足を踏み出すとそれを合図に三人は浮き上がって、大雨を降らせる重力を否定して空へ落下した。
三人の様子を窺うように建物の中から金髪の男が顔を出すが、彼の肩が紺色のブレザー袖の手に捕まれる。すると男は少女の手に従うように足を止め、追跡の踵を返して少女と共に穴の中へ戻った。
それから数十秒後、路地の入口付近に赤いランプを回すパトカーが到着する。
警官が破壊された壁の穴を見る頃には、室内の床に空いていた大穴はすっかり土で塞がれていて、ビルの中には誰の姿も無い。
現場に残されたのは、破壊された壁と破片。
そしてアスファルトに埋もれる、銀色の鈴だけだった。
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この物語はフィクションであり、実在する地域、名称、人物、団体、事件とは一切関係ありません。
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