19『主人公の始め方4』
「多分俺はこの依頼で、安心したかったんだろうな」
何処か自嘲気味にも思える塚掘の声色に、心配そうな顔を浮かべて附口は相槌を打つ。
「安心って?」
塚掘は少し笑って、部屋の向かいに置かれたホワイトボードに目線を上げる。最初に書いた明湖と塚掘の鼠の目撃位置のメモが、探偵事務所の看板案の下で既に掠れてほぼ消えていた。
それを眺めて彼は語る。
「俺怖がりだから。鼠を調べる依頼も、生態を知ってビビらなくていいって安心出来ればそれで良かったというか」
会話の温度が下がっている事には気付いているが、駈壟は敢えて軽めの口調で訊いた。
「まあ捕まえたしそれも達成じゃないか?」
「そうだね。でも本当はこういう怖がり治したくて、それで立ち向かうつもりで皆と一緒に調べてたんだ」
「なるほど、それで」
ふとした所で駈壟は意外な納得を得ていた。ただその続きが芳しい内容でないのは、塚掘の声の調子が下がる事で分かる。
「けどいざ実際に捕まえるって話になったら俺ずっと辞めようって言うばっかりで……」
言わんとする事は分かるが、駈壟としてはそこまで重く捉えるのは考えすぎに思え、一言フォローを入れた。
「アレは正直怖いだろ」
「うん、怖い。だから俺は諦めてたんだ。自分には恐怖を克服出来ないって。でも活疚さんを見てたら……」
一旦言葉が止まり、塚掘は握り合っている手の力を強める。しかし形になっている思考から逃げないように、彼は小さく声を震わせながら続きを口にした。
「……そんな自分がなんだか情けなくて」
それから少しの間、時間は黙っていた。
混じり合う淡い感情に瞳を堕とし、駈壟は鋭さを落とした低い声で慰める。
「それでもいいだろ。強いと人は危機感を感じなくなる。そういう臆病さにしか守れないものもある」
彼らしからぬ優しい言い方だった。塚掘は天井の辺りまで目線を上げると、弱弱しく溜息を吐くように確かめた。
「……そうかな」
「そうさ」
駈壟はすぐに答えた。
外はもう完全に暗くなっていて、事務所の施錠をすると駈壟は鍵を郵便受けへ入れた。
玄関の前では未だに看板の文字に拘っている明湖が居て、それを見てからペンの存在を思い出し、面倒臭そうに郵便受けから鍵を取り出すと駈壟は傍に立って明湖の執筆を待った。
二人を置いて塚掘と附口は先に外階段を降りる。雑居ビルの前にある敷地外の歩道まで来ると、声の反響が収まって町の空気へ音が霧散し、明湖に降りかかる駈壟の小言が届かなくなった。
「すっかり遅くなったけど大丈夫かい?」
附口が彼の隣に立って訊いた。
「俺は平気」
塚掘がぱっと答えると、今度は少し顔を覗き込んで訊いた。
「なら気持ちは大丈夫かい?」
町では夜が光っていた。
彼らのすぐ前の車道で車が横切り、塚掘の様子を窺う附口の黒縁眼鏡にも点々とした明かりが反射していた。
「ああ。別に怖い事は悪い事ばかりじゃないって話を聞いて思ったら、なんか逆に怖くなくなった気がするよ」
塚掘はそう言いながら両手を組み握る。その手元を見ると、附口はポケットから灰色の眼鏡拭きを取り出し、眼鏡を外してレンズを拭きながら告げた。
「勘違いだよ。それは怖くなくなったんじゃなくて、怖さを受け入れる余裕が出来たんだ」
「なんだよ、折角前向きになってんだから、ちょっとは背中を押してくれてもいいんじゃないか?」
駈壟達相手よりも少し軽々な、同級生を相手にする男子高校生らしい口調で塚掘は話す。その距離感に附口は自然な笑顔を浮かべ答えた。
「強くなろうとする人を見てると皆応援したがるけどね、僕はそうしないように決めてる」
「なんで?」
拭き終えた眼鏡を掛け直し、附口は前を見つめて言う。
「僕らは
彼の横顔を塚掘はただ眺めていた。
通り過ぎる車のライトが二人の顔に出来る影を流していく。その透明な風が二人の傍を抜けて、服の裾と軽い髪を揺らす中で附口は続きを語っていた。
「怖いことも、嫌いなものも、弱いところも、全部なんとか出来るほど人って完璧じゃないさ。誰でもそういう所があるから僕らは複雑なんだ。きっとそういうのを個性って言うんだよ」
聴くほどに彼の瞳は光を映す。
「個性……」
その言葉を塚掘は口元に一度繰り返す。それから附口は彼の目を見て微笑んだ。
「ここで背中を押すと君の進む方向を僕が決めてしまう。けど実は君は何を選んでもいい。案外弱いとこが人には大切だ。だから僕は君の個性を肯定したいのさ。怖がりなとこもね」
暗いものほど溶け込む空の黒へ慣れると、塚掘の驚いたような顔が暗闇でもしっかり見えていた。
トントンと金属を踏む足音がして二人が振り向くと、駈壟と明湖が階段を降りてきて附口の隣へ来た。
「うし、じゃあ帰るか」
駈壟がそう声を掛けると塚掘は握っていた手を無意識に解いて、
「今日はありがとう」
と三人に少し向き直り言った。
翌日の都市伝説探偵は、附口の提案により休業日となった。
土日をほとんど使った連続調査による疲労もそれなりに残り、昼食時に提案された駈壟と明湖は、改名初日からと弄りながらもほぼ二つ返事で了承した。
だが明湖は放課後に屋上へ来るよう駈壟に呼び出されていた。
そしてその日の放課後。
教室や廊下やグラウンドでは学生達がそれぞれに帰ったり、部活動をしたり、或いは青春とも呼べるような時間を過ごしていた。
幽霊化の能力で扉を通り抜けて屋上に入ると明湖は、晴天の下で時期にしては涼しい風を浴びながら、屋上の真ん中に立つ。白い長袖のカッターシャツに衣替えして、ブレザーが無い分だけ体が軽くなっていた。
彼女の背中を眺めるように駈壟は、施錠されている扉の前の僅かな段差に座っていた。
「そんで、わざわざ事務所休みにした日にこんな場所まで呼んで、私に何の話?」
少し説明口調でそう尋ねて明湖は後ろを振り向く。目が合うと駈壟は端的に切り出した。
「昨日の件だ」
「あ、こっちの調査してない件か。ごめんね?」
(腹立つなコイツ……)
舐めたウィンクと仕草で飛ばされる明湖の謝罪に、駈壟の表情は硬く引き締まる。だがすぐに苛立ちは萎んで、いつもの不機嫌気味な声が戻って来た。
「それは貸し一つだ」
軽薄な謝罪だったが、内心ではかなり怒られるものだと明湖も身構えていた。その分この大人しい反応に拍子抜けしてしまい、また調子に乗って駈壟を煽った。
「じゃあ次の依頼は」
「ただし勝手に返すな」
「はいはい」
当然駈壟も彼女の余計なお世話は封殺し、それが分かった上でおちょくったかのように、明湖は意地悪い笑みを浮かべていた。
「つか呼んだのはその話じゃねえ」
一旦話題を片付けてから駈壟が再びそう切り出す。
「ならどの話?」
明湖は少し意外そうに続きを促した。
すると駈壟は黄色い瞳に今までで一番の真剣を宿し、彼女を真っ直ぐに見つめて質問する。
「明湖、お前なんであんなに自分で鼠を捕まえる事に固執してたんだ?」
相手の様子次第では糾弾と変わらない言葉だが、先に駈壟は責めたいわけではないと発言している。恐らく本当にただ純粋に疑問なのだろうとは明湖にも分かった。
とは言えそれの何処に疑問の余地があるのかとも考え、明湖は自分の考え方に駈壟が理解出来ていない事に思い至る。
それは動機面に
「……あー、なるほど。前に言ったでしょ」
一人だけで納得し、悟ったように微笑むと明湖はそう言った。駈壟は言われたという何かを思い出そうとするが、何も出てこず素直に訊いた。
「俺なんか聞いたか?」
明湖は屋上の真ん中から移動して駈壟の正面に立つ。
青空の光を浴びてよく見える駈壟の顔とは対照的に、真西へ背中を向けた明湖の正面は少し陰り、しかしその見た目の暗さとは乖離した快活な表情で彼女は告げた。
「私、主人公になりたいの!」
爽やかな風が二人の間を横切った。
明湖の、僅かに赤味の混じる黒いミディアムヘアがサラサラと揺れて、疑いの無い笑顔は影付きでも眩しい。大きな深緑色の瞳は広い奥行きに彼女の感情をたっぷりと満たす。
そのあまりに自信満々な回答の内容が、それ以降全く続かないものだから駈壟は呆気に取られていた。それからつんのめるように重ねて訊いた。
「それだけ?」
「そう」
「そのためだけにあそこまで回りくどい事をしてたのか?」
「そうよ」
「どんだけだよ。なんか理由があるのか?」
「ただなりたいだけ」
明湖はテンポ良く淡白に答えた。しかしそれでは駈壟は納得しなかった。
「いやでもあれは異常だろ。なりたい理由がなんかあるんじゃないのか? 何か切っ掛けとか」
「切っ掛けかあ……」
この質問は即答とは行かず、明湖は目線を遊ばせて少し考える。
そして数秒ですぐにこう答えた。
「憧れたからかな」
「憧れた?」
疑問符を浮かべて駈壟は彼女の言葉を口にする。
明湖はグラウンドがある方向を見ると、手を腰で支え重心を傾けて立ちながら語り始めた。
「小一の時、生まれて初めて読んだ漫画に感動したの。ストーリーじゃなくキャラに対してね」
時折駈壟の顔の方を向いて反応を見たりしながら、明湖は記憶を手繰り寄せて原初の感情に思いを馳せる。
「冒険とか運命とか青春とかを踏みしめて、命を刻んでくみたいなその生き方が私には魅力的だった」
心の底を真っ直ぐ表すように彼女は明るく、雄弁に語っていた。駈壟は顔色を変えずにそれを黙って聴き続けた。
「それから色んな物語に触れた。いつも主人公は色んな人から影響を受けて与えて、他のどんなキャラクターにも出来ない事を成し遂げてた」
彼女が一度深く息継ぎをすると、絶え間なく吹いていた
「そういうのって凄く『生きてる』って感じがする。そんな主人公に憧れて、私もそう生きたいって思った。だから、」
彼女が言葉を区切ると、風が止まった。
「そうじゃない私は、生きてる気がしなかった」
情熱の滾らない、感情が含まれない、文章のような声だった。その言葉だけは感情が籠っていないようで、それこそが彼女の存在を最も大きく占める心だった。
それでも彼女の横顔は普通の大人しい微笑みを浮かべていて、そのまま彼女は口を開く。
「世界中で能力者が現れて私も能力者になって、物語みたいな世界に本当になっても、私の前にはただ現実があるだけだった」
彼女の話を聞きながら駈壟は少し俯き、表情を暗くする。それでも今は何も喋らず明湖の話だけが続けられる。
「結構色々したけど結果何も無し。私の人生はずっと平和」
彼女が事件を探して行動しても、変化を求めて行動しても、それが実を結ぶことはかつて無かった。
その徒労の時間、虚無の日々を思い出しながら、それが彼女の当たり前だと分かるほど、何食わぬ表情で語る。
「夢を見るのはもう終わりなのかなって思ったら、いつの間にかどんな楽しい事も嬉しい事も、味がしなくなったみたいにつまらなくなった」
それでも明湖の声だけは、少しずつトーンを落としていた。
人が八十年で関わりを持てる人数は、三万人と言われている。
能力が確認されて十一年。
本来なら十万人に一人の能力者とは、出会う方が稀な世界だ。
もちろんメディアに触れれば、情報を発信する一部の能力者は観測出来る。決して能力を巡る問題が、全人類から余さず根絶されているわけでもない。
だが画面の向こうの彼らと、自分の人生が交わる感覚は無い。
そんな大多数の体感が、
能力者は一人の人間として法に尊重され、能力者もまた非能力者を
世界は、間違えなかったのだ。
故に、自分の望む世界は無い。
明湖がそう思った時から、彼女と世界は透明な膜で断絶されたようだった。自分だけが世界から取りこぼされたように感じた。
「でも今は、駈壟が全てを変えた」
「俺が?」
唐突にいつもの調子を取り戻した明湖の言葉に、駈壟は不意を
「そう。だってマジで主人公なんだもん」
「おい」
あまりに堂々と指を差され駈壟は僅かに眉を動かすが、明湖はすぐ指を取り下げた。
「比喩よ。でも正直羨ましいし、恨めしい。私は主人公じゃないって叩き付けられてる気分」
「……。」
駈壟は肯定も否定もしない。だが明るい顔はしていなかった。
あの日。自分は主人公ではなかったと明湖が思い知ったあの瞬間まで、彼女は希望的矛盾を抱え続けていた。
主人公というものは現実には存在しないのだから、駈壟の主人公さも錯覚なのだろう。だったら自分の方が主人公だと判明する事もあるかもしれない。
そんな理性と欲望をごちゃ混ぜにした矛盾が渦巻いていた。
禅条の言葉は、希望が打ち砕かれたその中にこそ活路があると、彼女に閃きを与えた。
明湖には今までしたくなかった事があった。
それは、自分ではなく駈壟が主人公だと受け入れること。
自分の価値観を騙さない。自分の中の絶望を認める。
だからこそ、主人公になる
それが明湖のそれ以外だった。
ただそれでも、羨ましく恨めしいと思うのは、明湖が全てを諦めてはいないからに他ならないのだが。
彼から特に反応が無いと分かると、明湖は当初の質問に答える形で話をまとめた。
「だからまあ、頑張ったのよ。この気持ちが自分で事件を解決したかった理由。ついでに駈壟の主人公補正に
少し張り詰めていた空気が解けるのを感じ、駈壟は溜息混じりに言う。
「俺が主人公とか知った風な口を……随分勝手な理由だな」
「他人の役に立ちたいとかの方が好き?」
返す言葉を既に見極めているかのように、明湖は意地悪く口角を上げて尋ねる。その予想通りの返事をするのが心底癪という苦い顔になり、それでも駈壟はそっぽを向きながらも正直に答える。
「自分が正しいと思ってそうで、俺はどっちも嫌いだ」
拗ねる子供のようなその仕草に、明湖はクククと喉の奥で浅い笑いを堪えた。駈壟はすぐにそれを止めると今度は頷いた。
「ただまあ納得した」
一旦満足した明湖は、別の話題を話しながら駈壟の隣に座る。
「おけおけ。あ、じゃあついでに私も一個訊いてみたい事があったの思い出したんだけどさ」
「ん?」
スマホを取り出すと明湖はブックマークを開き、ネットニュースの記事を画面に表示して駈壟へ見せた。
「今朝ネットで記事見つけたんだけどさ、鈴の音事件って実は解決してない?」
質問に駈壟は驚かずシームレスに様子を変えて話し始める。
「それか。俺も色々調べた。結論から言うと……」
そして駈壟もまたスマホを取り出し、メモ帳アプリを開いて情報と考察をまとめているデータを見ながら告げた。
「俺を襲った男は鈴の音事件の模倣犯だ」
二人の傍を駆ける春風がまた戻り始めていた。
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