9『落とし物を追って3』
飛び交う羽虫を払い林の枝を掻き分けて、駈壟の背後から追い付いた附口が疲れた声を掛けた。
「あーもう、一人だけ幽霊化して……勝手に山に入るのも一応不法侵入だからね?」
彼が眼鏡に乗った葉っぱを取って服の裾でレンズを拭く間に、駈壟は幽霊化していた体を地面から出しながら忠告へ答える。
「後で警察に怒られとく。多分通報が要るだろうし」
「うわ何これ!?」
眼鏡をかけ直し、附口もそれを見た。
まだ人工物が無い山林の地面に置かれた、奇妙にゴミが集められ円盤形の構造を持った何か。直径一メートルには恐らく満たないだろうが、小型動物の死骸製の袋が盛り付けられたプラやアルミの噛み合わせの存在は、自然の中では不自然だった。
それを見下ろし駈壟は話す。
「俺には巣に見える。が、自然の摂理にしても死骸の傷口に光物詰めてるのは異常だ。何より問題はこれだろ」
半透明の手で駈壟は指を差した。
巣の中にたった一本だが、見紛う事の出来ない爪の付いた指が見える。腐敗分解の始まりかけた青い肌色の人の指は、噛み千切られたのか不揃いの傷口から血肉塗れの骨が見えていた。
流石の附口もそれを見ると顔色を変えた。
「指……!? っ、早く警察に!」
「あ、ちょっと待って。調べたいから」
平然と駈壟が制止すると、附口は目付きだけでギョッとした。
それをすぐ引っ込め、しかし慌ては殺さないままに附口は大した効果が無いと思いながらも言い返す。
「いや駄目だろ! 巣の家主が戻ったら僕らの手に余る、どう見ても素人が下手に手を出しちゃまずい奴でしょ。僕はちょっと通報してくるから!」
そして返事を待つ前にスマホを取り出しながら、林を戻って道の方へと離れていった。
明湖の直観は警告していた。
(どう見ても下手に手を出しちゃまずい奴な気がする……)
我が物顔で犬の死骸に足を掛け、喉元の傷口に拾ったゴミやら何やらを押し込む赤黒いドブ鼠、という存在の異常さたるや。何と言っても明湖の手の平を優に超えるサイズ感が、鼠という生物に対する印象を覆していた。
だが無視とも無心とも行かない。明湖が無視する性格かと言えば否だが、もし条件が付くならば、無心で首を突っ込みめでたく事件と遭遇達成、という話でもなくなる。
「ほんとにあれが禅条さんのロケットなの?」
明湖が念押しに訊くと、禅条は少し目を細めて答えた。
「形は同じっぽい感じかな。血が付いてない部分の色も大体」
「視力は?」
「一.六」
「高いなー。」
カメラ女子の観察力に信憑性があるかはともかく。禅条の見立てが正しかった場合、追いかけ逃げられ何も出来ず終わりという流れは明湖としても避けたい所であった。
もしも本当に鼠が犬の死骸を袋に使うなら、運ぶには引き摺る事になる。傷から血が、或いは詰めたゴミの汚れが痕跡を作っても不思議はない。故に注意深くゴミと死骸と鼠の周辺を観察していた明湖は、すぐに死骸から続く染みの流れを見つけ出せた。
(側溝に跡が……死骸ごとなら通れる入口は限られるとはいえ、下に潜られたら流石に追えない)
道の脇に引かれる側溝には基本的に金網かコンクリートの足場蓋が嵌められている。だが足場としての使用頻度が極めて低い曲がり角や車の通らない敷地境界付近の一部分などは蓋が無く、小動物は十分に潜り込める状態であった。
その足場の無い溝に死骸が尾を引いた血の跡らしき染みが続いており、鼠の移動経路、及び逃走経路は想像に難くない。そして当然明湖はその中を追えない。
(大声、それか禅条さんのカメラのフラッシュで脅かして……いや結局逃げられたら意味が無い)
故に、根本鼠を逃がさない方法論が必要と明湖は考える。
(不意を
鼠を捕まえるにあたって最大のハードルは、警戒心だ。これ以上は近づけない、と言う動物の思考を如何にすり抜けるかが肝だ。
幸い明湖は、その判断を封じる能力を持っている。
当然すぐに答えを見つけ、明湖の姿は空間に暈けて滲みあっという間に見えなくなった。
加えて当然、それを見た禅条は衝撃を受ける。
「え、消えっ!? 活疚さん!?」
という声はくぐもり、隠れている明湖には届かない。
また更にこれも至極当たり前だが、明湖が目の前で急に姿を消した事で鼠も姿勢を変え、姿が存在していた場所を驚きと警戒が混濁したような様子で見ていた。
その隙に明湖は一応抜き足で、じりじりと回り込みながら鼠との距離を詰めていく。明湖から見える景色は歪んでいるが、鼠との距離三メートル程度まで近付けていた。
曇天は午前を暗く照らす。灰色の町では影もまともに落ちる事が無く、アスファルトは均等に紺色だった。
悪魔が乗り移ったような悍ましいその鼠は、黒い鼻を動物的に震わせ、ふと頭の向きを変えた。
何も無い方……明湖が隠れている方向へ。
思わず明湖は足を止めていた。
(なんで!? 音立ててないのに……まさか『臭い』!?)
筋細胞での化学反応を認識せずとも体を動かせるように、能力者も実態の認識が曖昧なまま能力を使う事は出来る。
明湖はこの時に初めて、自分の能力が臭いまでは消せていない可能性に気付いた。何故今まで気付かなかったのかと考えると、過去に野良猫相手で隠れてみた時は臭いもクソも無く即逃げられた事も思い出せた。
だが知覚されるならば明湖の思惑は成立しない。
(これだと不意打ち出来ない、何か別の策を――)
明湖の身体能力は普通の女子高生並みだ。知識も準備も道具も無い中で鼠を逃がさず捕らえる方法。それを今この場で即座に閃く事が出来たなら、彼女はとっくに思い付いていた事だろう。
だが先に、光が閃く。
零点数秒の間隔を空けた六連続の点滅は、明湖の後ろから鼠を含めた一帯を白くする。そして鼠は荷物を放り出し、自分一人で素早くその場を逃げ出した。
「え?」
そう声を漏らし明湖が振り向いて能力を解除すると、恐れを興奮で抑え付けてカメラを構えていた禅条の姿があった。
明湖は表情を動かせないまま零れる雫のような声を出す。
「なんで――」
「はあーっ、なんとか撃退成功ぉー!」
ほぼ同時に禅条の緊張の糸が切れた。そして手を空け、首にかけていたカメラ本体を支えるベルトに彼女はカメラを任せた。
「あぁ、うん、そうだね……」
明湖は
だが瞳の奥にしか表れないその変化に禅条が気付く事は無く、彼女は彼女で自分の目的をまず優先に、ゴミの山の傍へ残された犬の死骸へと駆け寄って血塗れのロケットをハンカチ越しで拾った。
「うえぇっ、弱肉強食ってやだなあ……やっぱり私のだ。ていうか活疚さんさっきのってもしかして能力!?」
「……うん」
起こった出来事を順番に処理する禅条の脳内でいよいよ明湖の能力の番が来ると、禅条はバッと振り向き目を輝かせる。反面、テンションのついて行かない明湖はずっと空返事ばかりだった。
「ホントなんだ!? 生で能力見たの初めてだよ私! 多分あれで捕まえようとしてたんだよね、ごめん私テンパって勝手に――」
「取り敢えずロケットが見つかったなら」
汚れたハンカチとロケットを片手に無邪気に近付く禅条に、明湖は笑顔を作りながら身を引いて告げる。その視線を見て禅条も自分の手元に意識が割かれ、
「あ、そっか! あっちに連絡しないとだね、ごめんテンション上がっちゃって」
一歩引いてスマホをポシェットから取り出すと、片手で器用に操作し附口へ連絡し始めた。アドレナリンが切れ疲労が堰を切ったのか彼女の顔色は少し赤らんでいた。
だが通話の声もロケットも、明湖の思考に残らなかった。明湖はすぐに表情から余裕を失っていた。
散乱するゴミ箱の中身と嫌悪感の湧く死骸、そして鼠の逃げ込んだ側溝の影を彼女は見やり、それから禅条の達成感のある横顔を見て眼の奥に痺れを感じた。
そして言葉が出ないように口を硬く噛み締める。
(……まだ考えてたとこなのに、なんで先に――)
そう思うと明湖は、景色と自分が分離したような気がした。
大通り沿いにある
天井でゆっくりと回る金色の羽根以外は、暗く重厚な焦げ茶色の印象を持った深みのある雰囲気の店内だ。
窓際の四人掛けテーブルに最後に座ったのは、手洗い場から出て来た禅条だった。彼女がテーブルのカップを見て、
「飲み物来てる~と思ったらココアだけか」
と言った丁度の所で、髭を綺麗に剃っている割に貫禄もある男性店員が白いカップを二つ持ってきた。
「お待たせ致しました。ブレンドコーヒーです」
奥窓側に座っていた附口と明湖がコーヒーを受け取り、禅条も明湖の隣に座ると、その向かいから駈壟が話し掛けた。
「んでロケットは無事見つかったんだよな?」
話しながらカップを持ち駈壟は返事より先にココアを一口飲む。店内は涼しい空調になっていて、明湖達も温かい飲み物が飲みやすかった。
「うん。無事というか、壊れてはなかったよ」
そう言って禅条は洗ったロケットを机に出す。
銀色で縁取られた深緑色の楕円が、幾つかの傷を受けながらも景色を反射する。ストラップの紐はもう付いていないが、それを付けるための小さい穴が唯一上下を区別する形状だった。しっかり水気は拭かれているが心なしか深緑のメッキ部分の艶がくっきりしていた。
「中には何入れてたの?」
明湖がそう尋ねると禅条は蓋を開きながら話す。
「昔はお母さんの写真が入ってたんだけど恥ずかしいから抜かせたらしくて、お父さんに貰ってからはずっと空なの」
コーヒーを飲みながら明湖が目線で彼女の手元を覗くと、言葉通り中には何の写真も無かった。
同じく空の中を眺めていた駈壟も視線を飲み物へ戻し、力が抜けた声で話す。
「とりま一旦良かった。附口とか交番の落とし物にも来てないって言われて謎に焦ってたからな」
珍しく僅かに口角を上げた駈壟の流し目に、附口は貼り付けたような笑みで対抗する。
「駈壟は平然過ぎだからね。依頼
眼鏡の奥の黒い目が視線で語ってくる追求に気付くと、駈壟は受け皿にカップを置いて何食わぬ顔で言った。
「まあそれは置いといて」
「はいはい」
要らぬ相槌を差し込む附口を無視し駈壟は、机に肘を付いて手を組み今度は真面目な声色で続ける。
「依頼はこれで完了だが犯人の件は話が別だ。二人の見た鼠について詳しく聞きたい」
それに被せる形で対角の席から明湖が頬杖を付いて、しかし気怠そうでもない真顔で、
「そっちもね」
と短く付け加えた。
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