5『鈴の音事件4』

 すれ違う通行人は明湖あこの事を視認こそしていないが、何かの斥力せきりょくを感じ取っているかのように自然と体が彼女を避けて歩いていた。


 明湖が彼を尾行する理由はシンプルだった。

 それは彼が主人公だと思ったから。


(鈴の音事件にビルの壁の破壊、アイツが転校して来たこのタイミングで立て続けとか、普通有り得ないでしょ。どう考えても『主人公補正』としか言い表せない。駈壟かけるはそういう星の元に生まれ付いた人間なんだ)


 理屈にすらなっていない荒唐無稽な思考回路だが、明湖はこれを本気で確信していた。故に彼女の打算とは、実利とも言い難い酷く夢想的な期待でしかなかった。


(どうせああいう奴は一人で勝手に事件に巻き込まれていつの間にか重要人物になったりするのよ。だったら何週間ストーカーしてでも絶対に首突っ込んで、いっそ私がそうなりたい……!)


 歪んだ視界に映る彼の後ろ姿を追って、明湖は羨望と嫉妬の中間を歩いていた。


 大通りを抜け、閑静な住宅街を歩き、やがて路地の入り組んだ見通しの悪い道まで来た。


 微かに残っていた夕焼けもすぐ溶け落ちて、ものの十分弱程度ですっかり夜へと町は沈んだ。


 しばらくはそれだけだった。

 だが人目が如実に無くなった小さな通りまで来ると、明湖はその男に気付いた。


 その男は夜の暗さにも昼の明るさにも上手く溶け込むような灰色のマスクを付け、薄手のジャケットを着ている大学生くらいの人物だった。

 マスクがややオーバー気味ではあるが、怪し過ぎない程度に留めた上で、人相の特定し辛い服装をしている。そしてどことなく疲れ果てたような眼差しだった。


 男は能力で隠れている明湖には気付いておらず、彼女から見える位置を歩いていた。


(あれ、これってもしかしてマジで――)


 明湖がそう考えた直後に男は動き出し、一瞬の手際で、夜の影が満ちた狭い裏路地へ駈壟を引き摺り込んだ。


「あっ……は!?」


 頭の回転が遅れた二段階反応の後に明湖は走り出す。


 裏路地は住宅の窓が無い側面ばかりに囲まれていた。

 換気扇が薄暗い空気を吐き出す見通しの悪い死角で、追った先に男が駈壟の首を強烈に絞めているのが見えた。


「マジじゃん!?」


 明湖の声は隠れる能力に阻まれ響いていない。


 それを利用し助けに入ろうと明湖が踏み出すと同時に、駈壟は自分の肉体を揺蕩う炎のような状態へ変えて、男の腕を文字通りにすり抜け自力で拘束から逃れた。


 だが驚くべきは男の方の反応速度だった。


「ッ……!」


 舌打ちしながら男は幽霊化の状態になった駈壟に更に掴みかかろうと、すり抜ける腕を更に何度も鋭く振りまくった。

 男が腕を止めると、拳で弾け続けていた駈壟の肉体はあっという間に形を再生する。だが明湖の注目は駈壟の被害ではなく、男の加害にあった。


(何今の動き……腕に振り回されてるみたいな――)


 少し離れた位置から見ていた明湖は、独特の感想を抱いた。

 だがすぐ思考を切り替える。


「とか思ってる場合じゃないか! 駈壟が抜けられるなら私はバレない方が良くて、不意打ち? 次に備える、てか警察か!」


 焦りに任せて彼女はスマホを取り出すと、ロック画面から直接緊急用コールのボタンを押そうとした。


 一瞬、指が躊躇ちゅうちょする。


「…………っ、」


 だが二秒ほど経つと明湖は発信を押した。

 三コールもしない内に応答はあった。


『はい一一〇番ひゃくとおばん警察です。事件ですか? 事故ですか?』


「あっ、事件です。えっと……」


『貴方は当事者ですか?』


 応対のマニュアルにより、迅速かつ的確ではあるが何処かもどかしいような会話が始まる。

 その質疑に答えながら、明湖は頭で別の事を考えていた。


(――なんで私、隠れて警察に通報なんかしてるんだろ)


 彼女の瞳は夜闇に光を失い、鈍く淀んでいた。


 駈壟は襲って来た男と対峙し、互いの隙を窺うようにじっとし、時折短く破裂する格闘が散逸する。


 目の前で起きているそんな事態に関与せず、当たり前に、一般的な行動をしてしまった自分に対する失望が彼女の中にはあった。

 しかし彼女の脳は同時に論理性も持ち合わせていた。


(でもそれが最善。現実じゃ素人が手を出しても、人質にされたり被害者が増えたり、事態を悪化させる可能性の方がはるかに高いんだから)


 明湖には駈壟のように自力で拘束から逃れる能力も無い。成人男性に敵う格闘技術も無い。

 活疚かやま明湖あこという少女が今ここで取るべき行動の最善が『警察に全てを任せ関わらない事』なのは明白だった。


(……だったらなんで私は駈壟を追いかけたの?)


 だからこそ矛盾していた。


(最善は駈壟を止めて、最初から全部警察に任せる事だった。事件に関わらないのが正しい選択なのは理解してた。そうしなかった理由……決まってる)


 警察に通報する直前に何故自分は躊躇したのか。


 そもそも今までの行動全てが最善手とは乖離かいりしていた。明湖は理解した上で敢えてそうしていた。

 遅刻という校則違反、現場侵入という不法行為、それらを見逃し協力した時点で彼女の中の、正しさという基準は既に破綻していた。


 何故か。その答えは彼女の中に最初からあった。


(今朝、追わなかったのを後悔したんだ。『私はどうせ主人公じゃない』って諦めてたのを後悔したからだ)


 明湖には駈壟の役に立ちたいという献身性は無い。

 鈴の音事件の犯人が許せないという正義感があったわけでもない。


 彼女はただ、駈壟と一緒に居ればこういう事態が巡ってくるような予感がしていただけだった。


 最善のためではなく、むしろ事件に巻き込まれるという最悪こそ明湖が求めた展開だった。


『現在警官が付近に向かっていますので、安全な場所に隠れて、サイレンが聞こえたら正確な場所まで警官を案内してください』


 彼女のスマホからはそんな最後の指示が聞こえ、通話が保留状態となる。


(現実じゃそんなもの無いって分かってるけど、私じゃないって思い知ってるけど、でもやっぱり、諦めても諦められない!)


 明湖はスマホをブレザーの内ポケットにしまった。


 攻防はなおも続いている。

 駈壟の鳩尾みぞおちに迫る膝を掴もうと動くと、男は瞬時に足を引っ込めて頭上から拳を入れる。その直後に駈壟が能力を起動しても周辺の石が巻き込まれるだけで、男はその射程外である一、二メートル遠くへ既に移動していた。


 駈壟は痛みを堪えつつ油断無く相手を睨む。相手も同じく警戒心が緩まっている様子は無い。

 膠着こうちゃくでありながら、どちらかと言えば何度も攻撃を受け劣勢なのは駈壟と言えた。


 だがその均衡を崩す変化が生じる。


 男の背後の空間が揺らぎ始めていた。静かに、ゆっくりと、確かに。

 この時初めて駈壟はそこに彼女が居た事を知った。


 彼女の顔には迷いも恐れも無かった。


(――私は、主人公になりたい!)


 男は驚きながらも即座に反応し彼女の方へ振り向く。

 反射神経に


「いつの間に……ッ!?」


 荒いやすりで削ったようなザラ付いた声が男から初めて出た。明湖は男に組み付くように一直線に飛び掛かっていた。


 ほとんど特攻でしかないその動きに、しかし男の肉体は反応を示し彼女の腕を掴んで叩きかわす。

 地面に組み伏せられ、明湖が短く呻き声を出した。


 しかし男の顔色は対処とは真逆に、間に合う事の無い焦燥が滲んでいた。


 駈壟は既に、男の服の背中を掴んでいた。


「クソッ!?」


 男の拳が届くより先に駈壟は、男を含めて幽霊化を発動した。

 そのままあらゆる攻撃を受け付けなくなった駈壟は、同じ状態に巻き込んだ男の背中を持って急上昇する。


「喧嘩が強くても、落下死じゃあ対処もクソも無えよな!」


 そう言いながら駈壟は男を持って、僅か数秒で町の建物の屋上すら追い越し空へ出る。幽霊化させられているその男は抵抗しようと身体を捻り駈壟の腕を掴むが、更に忠告が入る。


「一応言っとくが、俺の解除以外で能力の射程外に出た場合は元の状態に戻らない。成仏して即死だ」


「テメェ、降ろせゴラッ!?」


「分かった」


 男の怒号に軽い声で返し駈壟は能力を解除し、二人とも元の肉体になった。


 上空百メートル程度まで上がっていたか。


 それはマンション三十階からの自由落下に匹敵した。加えて駈壟が男の背中を掴んでいるという重心の不安定さから、図らずも体勢がねじれ天地は残像を残して視界を乱回転する。


 付近のビルの屋上へ墜落する寸前で、駈壟が能力を再発動しピタリと停止した時には既に、男は気絶していた。


「気絶したか。ったくアイツ、余計な事を……」


 そう呟きながら駈壟は、気絶した男ごと幽霊化して抱え、丁度警察が到着していた明湖の元へ飛んだ。



 それからは、先に状況を説明していた明湖が駈壟の方を指差していたり、その後駈壟が素直に男を警察へ引き渡したり、警察署に同行してから手短と言いつつ長い事情聴取の時間があったりした。

 事実上ストーキング行為だった明湖と、過剰防衛気味だった駈壟の能力の行使方法の正当性の確認は特に詳細にされ、二人が解放されたのは午後九時を回った頃となった。


 二人は真っ暗な警察署を、駈壟は女性と、明湖は男性と、互いの保護者と共に同時に出た。

 駐車スペースが離れているのか、足の向く方向が分かれたのを感じ取ると、明湖は迎えに来た自分の父親の顔をチラと見てから、駈壟の背中に一言だけ声を掛けた。


「また明日」


 駈壟はしかめっ面で振り返ったが、明湖の父親も同じく自分を見ているのを暗がりに捉えると、恨めしそうに返事をした。


「……ああ。明日」


 明湖は、してやったりという笑みを浮かべていた。






 翌日の授業中、明湖はノートの端に書いたものを駈壟へ見せようと肩をつついた。

 授業をしている教師はそれに気付く事無く「一問目は、今日は五月の二十七だから三十二番の……」と席順表を見ている。

 駈壟は明湖の席を振り向き、彼女が指差す方向へ目を向けた。


『昨日の話は?』


 シャーペン文字でそう書かれている。駈壟も自分のノートの隅に返事を書き、明湖から見えるようにノートの位置を移動させた。


『放課後に話す。誰にも聞かれない場所がいい』


 明湖はそれを見て、自分のノートへ消しゴムを擦りまた別の言葉を書く。


『なら屋上はどう? カケルの能力でカギあけといてよ』


 無警戒に書かれた『能力』の二文字を見ると駈壟は眉間にしわを作る。明湖はしたり顔で駈壟の顔を見ていた。






 屋上へ出るための五階は踊り場しか室内スペースが無く、消火栓と扉のみがある。階段の手すりがそのまま踊り場の柵になって、転落を防ぐ構造でもあった。


 放課後に明湖はそこへ訪れた。

 扉のノブを捻ると鍵の感触があったが、数秒すると駈壟が外から扉ごと幽霊化し、明湖も通り抜ける事が出来た。


「便利ねホント」


 明湖が呟くと、駈壟は沈んだ顔で短く言い返す。


「隣の芝生だ」


「あっそ」


 屋上には転落防止用の背の高いフェンスと無骨な給水塔以外には何も設置されておらず、日光を遮るものはほとんど無い。ただ高所特有の強い風が、程良い涼しさを保っていた。


 能力を解除して日が当たっている扉の前に駈壟が座ると、少し前まで歩いていた明湖は入口に振り向き、駈壟を見下ろして言った。


「じゃ、駈壟の視点から見た意見を聞かせてよ。昨日のは結局なんだったのか」


 彼女のミディアムヘアが風に揺れると、髪色の黒にはほんの僅かに赤い色が混じっているのが光の加減で見える

 その髪先に透かすように、雲の多い青空を背景にする明湖の顔を見上げながら、駈壟は口を開いた。


「あの男は、鈴の音事件の犯人だ」

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