最終話
「そう。生きている人と死んでしまった人は、同じ世界にはいられないの……パパ、あなたもよ」
悠人は美沙の最後の言葉が理解できず、眉間にしわを寄せた。
「紗那、覚えてる? パパを病院に迎えに行った日があったよね?」
紗那は少し考えて、こくりと頷く。
「そのあと、たくさんの人が集まって、パパを見て、泣いていた日があったよね?」
「……うん。みんなが泣いてるのに、パパ、全然起きてくれなかった。さなが呼んでも、ずっと寝てた」
「悠人。ずっと言えなくて、ごめんなさい。あなたは仕事帰りの道中で、倒れて、そのまま亡くなったの」
悠人は頭が真っ白になり、美沙を見つめたまま、口を開くこともできなかった。美沙は紗那に視線を移し、慎重に言葉を選んだ。
「パパは死んでしまったの。今まで視ていたパパも、今、目の前にいるパパもおばけなの」
「パパが、おばけ……?」
「そんな……俺が、死んでる?」
美沙は震える悠人の声に、グッと悲しみを堪えた。
「最近、人と話した? 今日、何をしたか、覚えてる?」
「もちろん、覚えて――」
悠人の表情が固まり、唇が震え始める。
思い出せない。美沙と紗那と話したこと以外、何も。仕事をしてきたはずなのに、何をしたか、わからない。記憶がすっぽりと抜けたように、頭の中は空白だった。
「私に触れる?」
そう言われ、悠人は美沙の頬を包むように触れようとした。
しかし、触れているはずの頬の感触はなく、体温を感じることも
「やだ! パパはおばけじゃない! ここにいるもん!」
「信じたくないよね。パパのことが大好きだもんね。でもね、パパと手を繋げるかな?」
「つなげるよ!」
紗那は涙を流しながら、悠人に手を伸ばした。悠人も恐る恐る、手を伸ばし、紗那の手を握ろうとした。
しかし、二人は互いの温もりを感じることはなく、触れた感触もなかった。
「紗那。おばけには触ることができないんだよ」
紗那は美沙に抱き着き、必死に突き付けられた現実と向き合おうとした。震える身体を、美沙は何度も
簡単に受け入れられるはずがない。大人である悠人でも、この現実を受け入れられないのだから。
「紗那、パパ。私のせいで、悲しませてごめんね。もっと早く話すべきだった。でもね、どうしてもできなかったの。死んでしまったあなたが帰ってきた時、このまま続けばいいと思った。幸せな生活を手放す勇気がなかった。二人が真実を知って、悲しむことが分かっているから、どうしても話せなかった。でも、そのせいで、悲しみが何倍にも大きくなっちゃった気がする」
美沙が大粒の涙を零し、両手で顔を覆った。悠人は咄嗟に手を伸ばした。これまで、美沙が泣いた時は抱き締めて、慰めてきたから。
しかし、肩に触れた手にはやはり感触がなく、美沙も気付く気配がない。
泣いているのに、慰めることもできないことが悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。もうこれ以上、自分にできることはない。愛する妻と娘を泣かせることしかできないのか。そう思うと、絶望しか感じなかった。
「……お別れしなくちゃ」
美沙が自分に言い聞かせるように呟いたのを聞き、悠人は考えた。最期に何かできることはないだろうか。二人のために、死んでしまった自分ができること。
紗那に『死』とは何かを、自分を通して教える。
死んだら、会えなくなる。
紗那はそんな当たり前のことを体験できておらず、そのせいで、理解もできないでいる。
それは何故か。
死んだはずの悠人と過ごせるし、話せるからだ。
だったら、自分が父親として最期にしてあげられることは、一つ。紗那と、お別れすることだ。
「紗那、ごめんな。パパ、紗那とママのことが大好きだから、死んでも一緒にいたかったみたい。でも、死んだ人とは一緒にいられない。パパは、紗那とママとお別れするよ」
「やだやだ! バイバイしない! おばけでもいいよ。触れなくてもいい」
悠人も美沙も、胸が苦しくなった。二人の宝物を傷付けている。悲しませている。
だけど、人生の中で避けては通れないもの。それが『死』であることは確かだ。
「パパは幸せだよ。ママと紗那がおばけを視ることができるから、死んでからも一緒に過ごすことができた。普通の人にはできないことだ。ありがとう。二人はパパの宝物だ。パパがいなくなっても、ずっと見守っていることを忘れないで」
紗那は言葉が出てこないのか、理解し始めているからか、複雑な表情で泣いている。美沙からは悲しみと罪悪感が滲み出ていた。
「美沙、今まで黙っていてくれて、ありがとう。普通はこうしてお別れなんてできないのに、俺は言葉を届けることができる。伝えたいことが伝えられる。だから、自分を責めないで」
「……悠人」
「美沙、紗那、愛してる。もっと一緒に居たかったけど、これでお別れしよう」
「私も愛してる」
「さなも、パパが大好き」
「紗那はいい子だ。かわいくて、優しい人になっていくだろうな。どんな人にも優しく、人の心に寄り添える人になってほしい。今はパパが言っていることは難しいかもしれない。でも、いつかわかるようになるから」
悠人は悲しみを隠して微笑んだ。
「美沙は優しくて、温かい人だ。これからも変わらないでいてほしい。もう、俺が抱き締めてあげることはできないけど、愛する気持ちだけは消えないよ」
美沙は何度も何度も、頷いた。
この夜もいつものように、三人は並んで眠りについた。
三人は同じ夢を見た。
きれいな景色を見ながら、三人で笑い合っている。
紗那を挟んで手を繋ぎ、幸せな時間を共にした。
いつまでもこの想い出が消えないように心に刻み、幸せを噛み締めた。
夢の中では、互いの温もりを感じられ、そんな当たり前だったことに有難みを抱く。
翌朝、目を覚ました美沙と紗那の前に、悠人の姿はなかった。
了
愛しているから 安里紬(小鳥遊絢香) @aya-takanashi
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