第39話 朝のひととき
「お嬢さん、どうした。ぼうっとして」
フォークを握りしめたまま、朝食のオムレツを眺めていたエレナにむかってカーライルは訝しげに問うた。ぎこちなく笑みを浮かべ、エレナはとろとろの半熟オムレツをひとくちぶん切り分ける。
焼き立てのパンに、卵料理とベーコンを添えて。高級ホテルなだけあって、シンプルな朝食メニューであっても上質な素材を使っているとひと目でわかる。常であればどれから口にしようか迷うことこそあれど、呆けた結果、温かな料理が冷めるのを待つなんてもったいないことはしない。
「な、なんでもないわよ」
「いやなんでもないことないだろ……胡椒かけすぎだし」
「あ」
知らないうちに握りしめていた胡椒入れをそっとテーブルに戻す。ふうと息を吐いたエレナの挙動はどう考えてもおかしい、ように見えるのは理解できる。ただ昨夜のことをカーライルに説明するのは憚られた。
――ルーヴェン。
儚げに微笑んだ少年の姿を思い出すと胸が苦しくなる。ならばどうすればよかったのか、と自問自答しては食べるのを忘れてしまう、先ほどからエレナはその繰り返しなのだった。
でもそんなことをしてはいられないわね、とオムレツに心の中でごめんなさいと謝った。こんなに美味しそうなのに食べないでいることは罪悪でしかない。
「んっ! おいしーい」
ぷるぷるの卵の食感が口の中でじゅわりととろける。胡椒が効きすぎていることなんて気にならないくらいの絶品だ。 若干わざとらしくはあったかもしれないが、思わず声を上げたくなるほどのお味である。バターの風味が濃厚でそれがまたいい。
勿論、伯爵邸滞在時の食事も当然のように美味しかったのだが、兄妹間がひりついていたこともあり味なんて気にしていられないほどの緊張感があった。いまはカーライルとふたりだけなので気楽にもほどがある。
以降、パンにスープ、サラダなどを、それぞれ感銘を受けながらちょっとずつ食べ進めているとカーライルがごほんと咳払いをした。
「そういえば……ちゃんと礼を言っていなかったな」
「礼って何の?」
ぷすりとミニトマトにフォークを突き立て、エレナが聞き返す。
「あれだよ」
「あれ……? だからあれって何」
「だからあれだよ――ああもう、察しが悪いな! わざとか」
何か悪いことでもしただろうか。きょとんとしていると、カーライルはいまにも舌打ちしそうな表情になる。苛立ってはいるようだが、今度は拗ねたように黙りこくってしまった。
「カーライル?」
「……だから、おまえのおかげで俺は妹の、花嫁姿を見ることが出来た」
感謝している、と。
ぽつりとこぼしたのはそんな言葉で。ああ、と気の抜けた声で応じてしまった。
「くそ……なんだよその反応は」
「ごめんなさい、やけに素直だなと思って。でもよかった、余計なおせっかいをしてしまったかなと気になってはいたから」
慌てて釈明すると「まあいいさ」と頬を掻きながらカーライルは息を吐いた。
「――エリーゼがあんなふうに笑っているのを久しぶりに見たよ。昔は感情を表に出さないように、俯いていることが多かったからな」
「そう……」
カーライルの家族を壊したレニは、ルーヴェンとおなじ【薔薇】だ。考えていると胸をよぎるのは何度も頭の中をめぐり続けたある考えだった。
「【薔薇】と共存、ってできないのかしら」
「……無理に決まっているだろう」
コーヒーに口をつけながらカーライルは吐き捨てるように言った。
「やってみなきゃわからないじゃない。ルーヴェンなら、話せばわかってくれるはず。人間を傷つけないで、人間と一緒に生きる道を一緒に探しましょう、ってわたしから頼んでみるわ!」
「あいつは既にひとを何人も殺している――それには目を瞑るつもりか?」
「それは……」
ずしりと重いものが胸にのしかかる。
時間を巻き戻せない以上、何もかもなかったことになんて出来ない。【薔薇】が人間にとって脅威であることと同様にそれは変わらない事実だった。
「昨夜」
ぼそりとカーライルが口を開いた。
「さては――あの【薔薇】がお嬢さんのところに来たな?」
「っ、違、そんなわけないでしょう」
慌てて否定したが、カーライルの疑念を強めただけだったようだ。かちゃんとナイフとフォークをぞんざいに皿に置いて席を立ってしまう。慌てて追いかけたエレナがホテルの食堂を出ると、カーライルは階段の踊り場にいた。部屋に戻る途中だったのだろう。
「カーライル!」
「まさか君に嘘を吐かれるとはな」
「それは……ごめんなさい、わたしもまだ昨夜のことを整理できていなくて」
一段ずつ階段を上って、カーライルとおなじ場所に立った。底冷えがするような視線で見下ろされてぞくりと背が寒くなる。
一歩、カーライルが此方に向かって踏み出すと思わず後退してしまう。狭い踊り場の壁にすぐ踵が当たってエレナは逃げ場を失った。
「カーライル……ごめんなさい、あの」
「お嬢さん。君は何もわかっちゃいない。【薔薇】の脅威も、俺の――も」
声がかすれてあまり聞き取れなかった。カーライルは何を言おうとしたのだろう。それより眼前に迫った端正な顔に、視線を注ぎ続ける深紅の眸に心臓は高鳴りっぱなしだった。
思わずぎゅっと目を瞑り数拍の間を置いたのち、頭のうえでくつくつと低く笑う気配がした。
「なんだ……まさか、キスされるとでも思ったのか?」
「は――⁉ ち、違います、あなたが急に顔を近づけるからびっくりしただけ!」
どん、とカーライルの胸を突き飛ばして距離を取る。
「どうしたお嬢さん、怯えた仔猫みたいだな。毛が逆立っている」
「誰のせいだと思っているのよ」
そうして足早に自室に戻ると、出発の時刻になるまでカーライルとは口もきかなかった。
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