第38話 来訪者
「つっかれた……」
ぐったりと疲労がたまった身体を大きなベッドに横たえる。結婚式に出席しただけで特別何か仕事をしたわけでもないのだが、やたらと身体が強張っていたらしく節々が痛んだ。このまま目を閉じてしまえばベッドの底にずぶずぶと沈み込むように深く眠り込んでしまいそうだった。
結婚式の晩、エリーゼが用意してくれた王都のホテルで一泊することになった。
ただの友人知人としてエリーゼには通したこともあってカーライルとは勿論別室である。王都までの道中では同じ部屋で過ごすことが多かったので妙な感じがしなくもない。
いままで伯爵家の客室にいままでは泊めてもらっていたわけだが、今日泊まる高級ホテルの一室と比べても遜色がない立派な部屋だった――などと感慨にふけっているうちに、くたくたの身体は眠気を訴えてくる。
あたたかなふとんと毛布の魔力に負けて、エレナはひたすら重く感じる瞼を閉じるに任せていた。
はじめは何かが窓にぶつかったかのような、こつん、という物音だった。
それが間隔を短くして続いていく。こつん、こつんこつん、こつん。その最中にエレナは浅く浮上しかけた意識の中で寝返りを打ち、物音の正体に思考を巡らせた。この部屋はホテルの高層階にある。鳥でも窓辺にいるのだろうか――でもこんな夜更けに?
「エレナ」
窓越しにくぐもった声が聞こえた気がした。自分を呼ぶ甘い声。気付いてと訴えかけてくる切実な声音に心臓がどきりと波打った。この声をエレナは知っている。ずっと頭の中で思い浮かべ、再生してきた声だから――。
「入れて、エレナ」
エレナは身体を起こし、ベッドから下りるとつま先立ちで窓辺へと近づく。そして小さく息を吐いてから思い切ってカーテンを引いた。
「ルーヴェン……」
夜に浮かび上がる黄金色の髪がふわりと風に揺れている。ベランダに降り立った少年は、エレナの顔を見るとほっとしたように微笑んだ。
入れて、と訴える声音に絆されてエレナは窓を開けていた。吹き込んだ夜風がエレナの髪を揺らす。冴え冴えと輝く月光を背に立ったルーヴェンが一歩、部屋の中に足を踏み出した。
「……どうして此処に」
「どうして、って。おかしなエレナ! 会いに来たんだよ」
両手をひろげて勢いよく抱き着いてきたルーヴェンをエレナは受け止めた。ずっしりとした重み、久しぶりに触れたひんやりと冷たい夜を纏ったような身体が、心地好くもぞくりとした。
「ルーヴェン――すこし背が伸びた……?」
「そう? だったらいいのに――エレナよりも大きくなりたいからね」
やわらかな髪を撫でると、ふわりと甘い花の香がした。薔薇、という花のイメージが頭に浮かぶ。深紅の花弁がはらりと落ちるさままではっきりと。
彼は人間ではない。エレナとは違う、【薔薇】といういきもの――。
そんな思考がもしかすると態度に出てしまっていたのだろうか。
「何を聞いたの?」
エレナの心を見透かしたかのようにルーヴェンは囁いた。
「【薔薇】のことを、すこし……」
「……そう」
ルーヴェンはぴったりとくっついていた身体をわずかに離し、エレナを見上げた。青空を映した双眸がじっとエレナを見つめている。まるで人形のように美しい容姿は或る意味では人間離れしているのに、こうして懐かれているとそんな凶暴で恐ろしい存在だということを受け容れられない。
長い睫を瞬かせ、ルーヴェンはエレナの寝間着の裾をぎゅっと掴んだ。
「エレナ」
「……なあに」
覚悟していた言葉が少年の唇から紡がれる瞬間を、エレナは待った。
「血が飲みたいんだ」
ぼそりと低く呟いたその言葉はぽたりと水滴のようにエレナの胸に沁み込んだ。
「エレナがそばにいてくれるだけで、こうして会えただけですごく嬉しいのに。エレナといると喉が渇いてしょうがないんだ……」
「ルーヴェン」
欲望に濡れた眼差しに射貫かれ、頭の中からは冷ややかな声が聞こえた。
騙されるな、【薔薇】はひとを玩具のように扱うのだ、とはカーライルが何度も繰り返してきたことだった。レニという【薔薇】は死ぬ――枯れるまで、彼を苦しめたという。
ルーヴェンは違う。けれどカーライルは、いつか未来の「自分」ではないだろうか。
浮かんだ考えを振り払っても、ふたたび沸騰した鍋の泡のようにわき上がってくる。不信感としか言えないもやもやとした感情は、ルーヴェンを前にして口にすることは憚られた。
――わたしが、血を差し出せば。でも差し出したところで。
何かが変わるとは思えなかった。だけどかつて自分はルーヴェンを少しでも満たすことができるというのならこの身を差し出したって構わない、そう思っていたはずではなかったか。
それでも、ルーヴェンは結局のところ「血」しか欲しくないのではないかと迷ってしまう。いくら言葉で飾ろうとも、捕食者と被捕食者の関係は変わらない。
エレナが血も、愛も――すべてを与えたとして。
彼は、エレナが欲しいものをくれるとは限らないのに。
「……ごめん、なさい」
消え入りそうな声でつぶやくと、ルーヴェンは「そっか」と儚く微笑んだ。それを見ているだけで心臓をぎゅっと掴まれたように息苦しくなってしまう。
そっとエレナから距離を取ると、凍て風が吹き込むベランダへと足を向けた。
小さな背中が遠くなるにつれて目の奥がじんと熱くなった。
もし――このまま、ずっと会えなくなるのだとしたら自分は後悔しないでいられるだろうか。これでお別れだ、と気持ちの整理ができるだろうか。
追いすがるように爪先が動いていた。
それに気づいたルーヴェンが振り返り、此方に向かって手を差し出した。
「一緒に行こう、エレナ」
言葉の代わりに首を横に振ると、ルーヴェンはほんのすこしさみしそうに唇を引き結んだ。
そしてベランダの手すりを掴むなり、ひょいと軽々乗り越えて夜空の中へと飛び込んだ。
「ルーヴェン!」
慌てて駆け寄ったが、ルーヴェンの姿はどこにも見えなかった。
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