第36話 兄と妹
永遠に降り続くかと思われた雨は翌朝、何事もなかったかのようにあがってしまった。カーテンを引いて見下ろした庭園は、常緑樹に溜まった雨粒が日差しを浴びて真珠のようにきらきらと輝いている。
昨日、カーライルと雨宿りかたがた話をした四阿が目に入り、エレナはそっと息を吐いた。エリーゼの頼みのこともあるが、今度こそ冷静に話をしなくてはならない。
エレナは意を決してカーライルの部屋を訪ねることにした――のだが。
「カーライル? 起きているの?」
ノックしても何も反応がない。しばらく待ってから再度同様にしてみてもおなじだった。
耳をドアにくっつけてみれば物音はするし、気配はするようだからいるのは間違いなさそうなのだけれど。おそるおそる細くドアを開けると、すっかり身支度を終えたカーライルがベッドのふちに腰かけているのが見えた。
なんだ、やっぱりいるんじゃないの――世話が焼けるうえに妹の気持ちをわかろうともしない無神経なやつなんだから。心の中でエレナは毒づいた。
ひとまず着替え中ではなかったことに安堵しながら「ちょっと」と声をかければ、磨き抜かれた紅玉を思わせる深紅の双眸がドアの方に向けられる。はっと息を呑むところだったが、落ち着け、と三回唱えたおかげでどぎまぎせずに済んだ。
「なんだお嬢さんか。男の着替えを覗く趣味でも? なんて――冗談だよ、冗談。だからそんなに睨まないでくれ」
まったく無駄に美形で嫌になる。やや着崩した服装に気だるげな表情も相俟って色気が滲み出ているようだった。あからさまにため息を吐いてやれば、やれやれとでも言いたげに肩をすくめる。
「こっちは気を遣ってノックはしたんだから……返事くらいしなさいよ」
「ああ悪いな。ぼーっとしていた。何の御用かな、お嬢さん」
ようやく絞り出した声で窘めると、さほど悪いとも思っていなさそうなようすで煙草をくゆらせている。室内に充満した紫煙にエレナは咳き込みそうになった。
カーライルが愛用している鞄に荷物がコンパクトにまとめられている。ということは――腰に手を当てて呆れ顔で言った。
「どうしてあなた
「何故って、君――俺は必要以上に互いのことに踏み込まないのが暗黙の了解だと思っていたんだが? 本物の恋人同士でもあるまいし」
わざとらしく天を仰ぎ「君は何もわかっちゃいないな」と嘆息する。そんなカーライルの芝居がかった仕草にエレナはむっとした。別にエレナだってカーライルの問題に立ち入りたいわけではない。エリーゼに頼まれたから水を向けただけであって、それをただのお節介か何かみたいに言われるのは癪に障った。むきになった、と言ってもいい。
「だって気の毒じゃない。エリーゼさまはこんなにもあなたを慕っていて、結婚式に立ち会ってほしいと願っているのに!」
「――おいおい、よく考えてもみろ。俺みたいな見た目も中身も怪しい、自称兄貴が親族としてお貴族様の結婚式に参列するのはまずいんじゃないか」
カーライルは自らの髪をつまんでエレナに見せつけてくる。わずかにたじろいだエレナを前に「ほら見たことか」と言いたげに鼻を鳴らした。煙草の火を灰皿に押し付けて消してしまうと鞄を掴み、ベッドから立ち上がった。
「ほら、さっさとこんな家を出て行こうじゃないか、相棒? 【薔薇】を殺す手段は手に入れた。あとは釣り餌の君に頑張ってもらうだけだ」
ここで引き下がるもんか、ときっと睨みつければ聞き分けのない子をなだめるような声で「エレナ」と甘ったるく呼ばれた。
「行くぞ。俺たちの契約はまだ有効だろう? 君は俺に同行することで、愛する【薔薇】に一目会えるかもしれない。ひょっとすると死に顔かもしれないがね」
「まだエリーゼさまの話が終わっていないわよ」
「蒸し返すなよ。聞き分けがないな」
「聞き分けがないのはどっちよ!」
カーライルの胸をエレナは両手で勢いよく押した。ほとんど動きはしなかったが驚いてはいるらしく目を瞠っていた。
「カーライルって……容姿とかを言い訳にして逃げているだけじゃないの? もしそんなことでしょうもない文句言ってくる輩がいたら蹴散らして何が悪いって顔していなさいよ。あなたはエリーゼさまの大事な『お兄さま』なんでしょ? 堂々としてればいいの」
「まったく……男前なことを言うじゃないか、お嬢さん」
はあ、と力が抜けたとばかりにカーライルは息を吐いた。
「そうだな、そこまで言うなら君も参列すると良い。参列者から奇異な視線を向けられる男の隣で笑っていられるくらいの胆力は持ち合わせていそうだからな」
「……ということは、つまり」
「――俺が妹の式に出席すれば君は満足するんだろう? まあいい、つまらない意地を張るのはやめにしようじゃないか。俺だってエリーゼの花嫁姿を見たくないわけじゃないからな」
カーライルは肩にかついでいた鞄を再び床におろすと「本当に君はお節介で、もの好きだな」と笑った。
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