第35話 エリーゼ

 エリーゼの部屋は花柄の壁紙やタッセルが見事なカーテン、寝台にかけられたレースのクロスなど可愛らしい調度品がそろっていた。

 物がさほど多くないしごちゃついているようすもないので、モップがけがしやすそうだ。掃除に困りそうかどうかを真っ先に判断してしまうあたり職業病かもしれない。ただ当然ながらエレナの手を要することもなく、床は綺麗に磨かれていたし片付いてもいた。


 テーブルに向かい合っていると、メイドがティーセットとスタンドを鮮やかに彩る茶菓子を運んで来た。


「わあ……」


 それはもう、言葉を失ってしまうほどの代物だった。


 ピンクのマカロンに焼き立てのスコーンはクロテッドクリームを添えて。ハムとキュウリのサンドイッチに生クリームたっぷりのフルーツケーキ。

 用意したことこそあるが、自分で食べたことはない本格的なお茶会のメニューだ。エレナは思わずくらくらした。

 当然ながらエリーゼは動じたようすもなく湯気の立ちのぼるカップを持ち上げ、紅茶を飲んでいる。香りの強い茶葉を選んでいるらしく、香気がふわりと漂っていた。


「どうぞ、お好きなだけ召し上がって」

「ご厚意に感謝いたします……」


 どぎまぎしながらカップを手にしたが、小鳥が描かれた図案が可愛らしくて思わず見惚れてしまいそうになった。そんなことをしている場合ではない、と口に含めば芳醇な紅茶の香りがいっそう強くなる。水色すいしょくは見事な琥珀色だった。エレナはソーサーにカップを戻し、息を吸って吐いた。


「ご結婚、おめでとうございます」

「ありがとう。お兄さまのおかげで式は延期ですけれど」


 細い指が鮮やかなマカロンをそっとつまむ。


「式に向けて、甘いものを控えようと思っていたのに……つい、腹が立って山盛りのお菓子を持ってくるように頼んでしまったわ」


 端正な顔には物憂げな表情がよく似合う。ため息が紅茶の中に溶けて消えた。もとよりエリーゼはほっそりとしていて美しいのだろうが、式に最も美しい自分で臨みたいという乙女心はおなじ女性としてよくわかる。が、ひとつ気になっていることがあった。


「あの、カーライル……いえ、お兄さまががいらっしゃらなくても、式を挙げてしまえばいいのでは?」

「いいえ、それはダメよ。わたくしが幸せになるところは、必ず兄に見届けてほしいのです。一番近くで、ね」


 きっぱりとした口調でエリーゼは言い切った。


「なにしろ――お兄さまが、わたくしの代わりに【薔薇】の供物になったのですから」

「【薔薇】の……供物……?」


 ええ、とエリーゼは頷く。


「伯爵家をレニ、という【薔薇】が占拠したという話は聞いていらっしゃるかしら」

「はい、それは……いちおう」


 気まずさに目を伏せると、エリーゼは淡々とした口調で続けた。


「レニは嗜虐的なところがあったわ。わたくしの泣き声が心地好いといって、しょっちゅう部屋に呼ばれて――血を吸われた」


 そう口にしたエリーゼの顔は青ざめていた。

 まるで自分が噛まれたかのように思わずエレナは自分の首筋に手をあてがった。


「あの頃はレニの居室に近づくだけで錯乱して泣き叫んでしまうほどだったのに、両親は何もしてくれなかったわ。お兄さまだけなの……わたくしの代わりに、レニに悲鳴と血を捧げる役目を代わると申し出てくれたのは」

「そう、でしたか」


 どれほど恐ろしいことだっただろう。【薔薇】という得体の知れない存在に身を捧げねばならない状況だなんて。

 だってそれは――自ら望んで、ルーヴェンに血を差し出したエレナとは違う。身の内から「本当に?」と問う声がしたが耳を傾けることはなかった。代わりに膝の上でぎゅっと手を組んで握りしめる。


「お兄さまが――あのような銀髪に赤眼などという目立つ外見になったのも、わたくしのせいですわね。変質した当時は、恰好いいだろう、と冗談を言っていましたが」


 おかしいでしょう、とエリーゼは口元を緩ませる。


「もとはお兄さまもわたくしとおなじ金の髪だったのですよ。一目見て兄妹だとわかるくらいそっくりでしたの」

「……大切に想っているのですね、お兄さまのこと」


 エリーゼの緑の瞳がぱちぱちと瞬く。そのままこてんと首を傾げた。


「まあ、そうかしら?」

「えっ」


 予想外の返答にエレナは戸惑いの表情を浮かべた。


「わたくしはね、見せつけてやりたいんですの。あなたに守られたわたくしはこんなにも健やかに成長して、本当に好きな相手と幸せになるんだって。だから兄抜きの結婚式など考えられません――おわかりかしら」


 それはお兄さまが大好きだから結婚式に出席して見届けてほしい、そういう意味では――と言いかけた言葉をエレナは呑み込んだ。メイド歴が長い身としてはたとえ本当だとしても言ってはならないことがあることを理解している。

 いったん、テーブルの上のサンドイッチを食べることで気を紛らわせることにする。見た目どおりの美味しさで、ハムの塩味とパンの甘みのバランスがちょうどいい。

 

「結婚式、本来いつのご予定なのですか?」

「来週ですわ……お兄さまは出席したがらないでしょうが、なんとかエレナさまからも頼んでみてはいただけないかしら」

「わたしではあまりお役に立てないかと……」


 知人どころかただ目的のために行動を共にしているだけに過ぎないのだから。

 とはいえ、エリーゼの憂い顔を前にエレナはこれ以上何も言えなくなってしまった。

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