第32話 カーライルの実家
「ところでそちらの方は」
エリーゼに問われてエレナはぎくりとした。どう応えたものかと、ちらりとカーライルの表情をうかがう。
「知人だ。【薔薇】関係のな」
さすがに妹に対して婚約者だのを持ち出す気はなかったらしく、さらりとカーライルはエレナを紹介するにとどめたようだ。エレナは安堵の息を零した。
「そうでしたか……兄がお世話になっております」
「い、いえこちらこそ。エレナと申します」
びくびくしながらぎこちなく挨拶を交わすと、ふっと視線が外された。もう兄の同行者について興味を失ったらしい。
「それにしてもお兄さまがこの屋敷に戻るだなんて――もう何年ぶりになるかしら」
「さてな。忘れたよ」
「三年は確実に、お顔を見てはいませんわ。カーライル伯爵家の一員としての自覚が足りないのではないかしら」
「家督は放棄したんだから好きにさせてもらうさ。この家にはお前やリアムがいるから安心だろう」
エレナは居心地の悪さを感じながら供された茶に口をつけた。
兄妹仲がいいのか悪いのか判別がつかないが、緊張感のあるやりとりに此方まで肩が凝りそうだった。
「大体、訪問するにしても非常識ではなくて? わたくし、もう眠るところでしたのに」
「悪いとは思ってるよ。悪いが今日は泊まらせてくれ、俺の部屋は使えるか? あともう一室、客室は?」
「ええ、勿論ですわ。それに準備は既に整えています――案内させましょう」
ちりりん、とベルを鳴らして使用人を呼ぶと、カーライルの荷物を部屋まで運ばせた。
あわあわしているうちにエレナの使い古したトランクをメイドが持ち上げる。「自分で持つ」と申し出ようかと思ったのだが、足早に応接室を出て行ってしまったのでそれもかなわなかった。
薄暗い廊下を進んで通された客室は、大きなベッドとそのほか上品な調度品があつらえられており、エレナひとりには広すぎた。元メイドでしかない自分が過分な扱いを受けているという自覚はあったのだが、有無を言わさず部屋に押し込められてしまったのでいまさら変えてもらうわけにもいかない。
仕方ない、と言い聞かせながらベッドにもぐりこんで目を閉じると長距離移動の疲れがどっと押し寄せてくる。強張った身体が、目を閉じてシーツに包まれているうちにほぐれていくのを感じた。
そして、意識は途切れたのだった。
『黒き星よ。忘れないで』
少女の蕩けるように甘い声音が暗闇の中で響いている。繭の中にいるような肌触りの良い質感がすぐそこにある。これは夢なのだ、と自覚するまで時間を要した。
それにしてもこの子はいったい誰なのだろう。目を凝らしても顔がはっきりとは見えない。とっぷりと満ちた闇のなかで少女はくすくすと軽い笑い声を立てた。
顔は見えない。それなのに、彼女のことを知っている気がした。
ほっそりとした腕が伸ばされてエレナの手をぎゅっと掴む。
『あたしたちを……■■を真に殺したいと願うなら黒き星を手に入れなさい』
はっと起き上がり、周囲を見回すと室内がほの明るくなっていた。窓辺に立ってカーテンを引くと、まばゆい朝日が室内に射し込んで来た。目を細め、眼下に臨む庭園を見ていると、ノックの音が響いた。
「エレナ様、朝食の準備が出来ております。一階の食堂へお越しくださいませ」
「は……はいっ! すぐ参ります」
どうやら寝過ごしてしまったらしい。メイドの声に返事をしてから、慌てて身支度を整えるとエレナは階段を駆け下り食堂へと急いだ。
遅刻だ、と思って食堂に駆け込んだのだがそこには昨晩顔を合わせたばかりのエリーゼしかおらず、カーライルの姿はなかった。
「お、おはようございます」
気まずい、と思いながらも挨拶をしてから指定された席に着くとエリーゼはちら、と此方に視線を向けてきた。
「エレナさま、とおっしゃったかしら」
陽光を弾く亜麻色の髪のエリーゼには貴族然とした上品さがあり、人形のように精緻で端正な造作をしている。思わず見入ってしまい反応が遅れると、きょとんとした表情でエリーゼは首を傾げた。
「は、はいっ。エリーゼ様。なんでしょうか」
「あら、かしこまらなくて結構よ。ちなみにお兄さまとはどちらでお知り合いになったの?」
「……あ、ええとですね、偶然列車で顔を合わせまして」
薔薇、と遮るようにエリーゼが紡ぐと呼気そのものが甘く匂い立つような気がした。
「あの忌まわしい化物の関係者だとお兄さまは言っていらしたわね。あなたも【薔薇】に狂わされた方、ということかしら――ということはお兄さまは、まだあれを……」
「エリーゼ」
いつの間にか食堂に入ってきたカーライルが乱暴に、エレナの正面の椅子を引いて座った。
「朝から辛気臭い顔でどうした。せっかくの美人が台無しだぞ」
「いいえ何も。お連れの方と少しお話をしていただけです」
つんと顔を背けてエリーゼは目を瞑った。手を組み合わせ食前の祈りを唱える。それに倣うようにエレナも目を閉じた。お決まりの文言を唱え終えるとようやく朝食会が始まったのだった。
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