第30話 転機

「……っう」


 つぷり、と牙が肌に食い込む。痛みに堪えて顔を顰めるロイをレニは醒めた目で見つめていた。

 ロイの首筋に闇の中でけぶるような黒髪がさらりとかかる。


「うーん、飽きちゃったわ」


 そう言ってレニは口元をロイの首筋から離した。口元をぬぐった真っ白なハンカチを床に放って溜息を吐く。

 物憂げな表情を浮かべた少女は、この屋敷を支配し始めた五年前から成長していた。相も変わらずほっそりとした華奢な体つきだが、少女から大人の女へ羽化を始めたレニはいっそう儚げな美しさを増していた。それを称えるような者はあいにく伯爵家にはおらず、畏れている者ばかりではあったが。

 そんな彼女が「飽きた」と唐突に言い出せば戸惑うのは必至だろう。


「は……?」

「言葉どおりの意味よ。ロイ、あなたで遊ぶのも飽きてきた、と言っているの」

「っ、心にもないことを」


 ロイは険しい顔で舌打ちすると、つんと顔を背けたレニを睨みつけた。


 五年の月日が流れる間にロイの髪は白銀に、眸は深紅に変質していた。

 吸血されたものは【薔薇】の所有物モノとなるため、そんな反応が出るのだとレニは言っていた。幸いにも妹のエリーゼにはこうした外見の変化はなかった。おそらくは頻度の差なのだろう。ロイは家族を守るため、夜毎レニに捧げられる贄となったのだ。そしてこの異形の髪と目の色は、その証でもあった。


「あら、心にもないだなんて。あたしは本気なのに――ロイってば可愛げがないのだもの。あたしに歯向かう気力さえ失くしてしまったでしょう? 最近はあの頃の憎悪に滾ったまなざしを向けてくれなくなったじゃない」


 唇を尖らせ、拗ねたように言う。相手をするのも億劫になり、ロイは嘆息した。


 レニはロイに執着していた。

 まるで恋人か何かのように接することを望み、事あるごとに口づけや抱擁をねだった。

 だからこそ、口では「もうロイなんて要らないわ」と言ってみたり、素っ気なく突き放したりしても、哀れな贄が「見捨てないで」とすがってくることを望んでいるだけなのだとロイは知っていた。

 つまりは恋人ごっこをしたいだけなのだ。


「はあ、つまらない! つまらないわあ、ロイ。もっと悲しんだり、悦んだりしないの? そうすればあたしがあなたを鬱陶しがって解放してあげるかもしれないのに」

「俺はもうあんたの嘘に踊らされるのはうんざりなんだ」


 吐き捨てるように言ってロイは、はだけさせられたシャツの釦を留める。レニに付き合っているとひたすら堕落していくだけだ。

 五年の歳月の間にレニの支配は当然のように伯爵家の者たちに受け入れられ、それと同時に拘束も緩められた。レニの言いつけを破りさえしなければ外出もできる。


「ねえ、ロイ?」


 いち早く、部屋を出て行こうとしたロイを引き留めるようにレニは砂糖に蜂蜜を振りかけたような甘ったるい声で呼びかけた。


「あなたが一番知りたいことを教えてあげましょうか」


 ねっとりとしたレニの呼びかけはゆっくりと頭の中に浸透していく。無視をしろ、と頭ではわかっているのに振り向いてしまうのは培われた習性のようなものかもしれない。

 突き放したいのに、突き放せない。【薔薇】に血を与えるという依存関係を受け容れ続けた結果、ロイは抗うことさえ面倒になっている自覚があった。

 するりと猫のような優雅な足取りで近づいてきたレニが背中から前へと腕を回し、つま先立ちをして抱き着いて来る。耳朶にそっと唇を寄せて熱い吐息を注ぎ込んだ。


「【薔薇】を殺す方法。知りたいんじゃない?」


 後悔するのをわかっていながら。






「カーライル」


 がたたん、と列車の揺れに身を委ねているところから肩をゆすられ、ハッと浅い眠りから醒めた。


「……お嬢さんか」


 額に滲んだ汗を手の甲でぬぐいながら息を吐くと、心配そうにのぞき込んでいたエレナが安堵したように「魘されていたから」と呟いた。向かいの座席に座り直したエレナを見てようやく此処がどこであるのか実感する。

 目的地である王都には間もなく到着するだろう。車窓は薄闇に沈み、夜に向かって急速に世界が目まぐるしく色を変え始めていた。薄青から淡い紫へ、そして濃紺へと染め上げていく空と大地を眺めながら吐いた息で窓を曇らせた。


「……もし【薔薇】を殺せるのだとしたら、君ならどうする?」


 ぼそりと呟いたカーライルをエレナは怪訝そうな目で見遣った。


「どうするも何も。あなた、【薔薇】は不死だって言っていたじゃない――たとえ四肢を引きちぎられても生きているって」


 確かにそうだ、言いながら苦笑する。人間には自分に都合がいいように堂々と事実を曲げて話す癖がある。あのときも、重要なことをカーライルは敢えて言わなかった。言いたくなかったのだ。


「そうだ。四肢を引き裂く、というのは【薔薇】を弱らせることは出来ても致命傷にはならない」


 一昔前は怪物退治の手法として身体をバラバラにする、というのはよく使われていたらしいがそれだけでは足りない。身体を再生させる能力を持つ【薔薇】は復活する余地が十分にあるのだ――カーライルが話したことをエレナはよく憶えているらしい。


「だけど俺は、かつて【薔薇】を殺したことがあるんだよ」


 エレナの瞳が大きく見開かれる。

 

「そりゃあ、そうでもなければ刈り取るものハンターだなんて名乗ったりしない」

「……その、あなたが殺した【薔薇】というのは」


 どんなひとだったの。

 そう尋ねられて一瞬、答えに詰まった。どう言えばいいのかわからなかった。いびつな関係の中で、過ごした五年の月日の中で、彼女を定義するとするならば。


「厄介な女だったよ」


 かつてロイと呼ばれていた少年だった男は、それ以外の言葉をひねり出すことは出来なかった。

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