第29話 支配された屋敷

 レニ、と名乗る少女が現れてからこの屋敷の生活は一変した。


「死にたくなければあたしのいう通りにすること。いいわね?」


 少女は不思議な力を使ってこの伯爵家を制圧した。

 どんなに屈強な使用人が飛びかかろうとしてもなすすべなく、一瞬で地に伏すことになる。紫水晶の瞳を見ていると不思議と力が抜け、考えることさえ億劫になるのだ。へなへなと力が抜け、床にのびてしまった人々を足蹴にして、レニはあどけない少女には似つかわしくない嫣然とした微笑を唇に刻んだ。


 家族も使用人も屋敷の誰もがびくびくと怯え、新たな屋敷の主となったレニの顔色をうかがうようになった。どれほど理不尽に思われても従ったのは圧倒的な力を彼女が有していたからだ。


 わけがわからないままに伯爵家にかかわる人間――伯爵夫妻、子供たち、それから使用人たちには目に見えない首輪のようなものが嵌められた。レニに歯向かったり、この屋敷から逃げ出そうとしたりすると、ぽとりと首が落ちる仕組みになっている。抗おうと、または恐怖のあまり逃げ出そうとした何人かで実証されたので確かだった。


「日々の糧が得られることをレニ様に……感謝いたします」


 食前の祈りを捧げながら、ちら、と伯爵はこの食卓の主人の席に座る少女を見た。満足そうに微笑んだレニが葡萄酒の入ったグラスを掲げた。

 

「どうぞ、召し上がれ?」


 給仕する使用人たちも、家族のあいだにもろくな会話はなく黙々と食事が続けられる。グレイビーソースがかかったローストビーフでさえ厚紙を噛んでいるような心地がした。その食事のようすを値踏みするようにレニは観察している。


「ふふ、決めたわ――今日はエリーゼにする」


 がしゃん、と大きな音を立てて銀器のフォークが床に落ちた。伯爵家の末娘エリーゼのふくふくとした腕がけいれんしていた。


 レニは毎晩、子供たちの中からひとりを選ぶ。

 選ばれた子供はレニのために血を捧げるのだ。


「やめろ」


 長男のロイが恐怖のあまり泣き出してしまったエリーゼの背を撫でながらレニを睨みつけた。子供たちの首筋には痛々しい包帯が巻かれている。レニは大人より子供を好んだ。曰く――子供の方が牙を立てて噛んだときの肉が柔らかく心地が良い、のだそうだ。


「俺が……代わりになる。だからエリーゼはやめてくれ」


 ロイの悲痛な訴えに、レニは「どうしようかしら」とグラスの中の紅い液体を転がしながらくすくす笑った。


「あらロイ。でもあなた、痛いの慣れちゃったでしょう? ――つまらないのよねえ、泣いてわめいて叫んでくれないと」


 意地悪で言っているわけではないのよ、と優しく宥めるようにレニは声をかけた。


「あたしのような【薔薇】にとって、人間の感情は美酒にも勝る快楽を与えるものなのよ。とりわけあたしは恐怖や憎悪、そう言った負の感情から得られる苦みやえぐみが大好だぁいすき」

「……っ、この悪魔が!」

「そう、そのよ――美味しそう。いいわ、ロイ。あなたの望みを叶えてあげましょう」


 ついてきなさい、と促されるままにロイは食堂を出た。振り返り、エリーゼの大きな目から涙が零れそうになっているのをロイは目にした。

 悲壮な決意を眸に宿したロイを見て、レニは舌なめずりをする。伯爵家はこの【薔薇】と名乗る怪物を屋敷の中でもてなさざるを得なかった。さもなければ、この屋敷に住むすべての人間はこの少女の手にかかり死に絶えていたことだろう。


 ぎい、と扉を軋ませて薄暗い部屋の中にレニはロイを導いた。

 見た目だけで言えばレニはロイよりも五、六歳は年下に見えるのだが、その所作や物言い、態度は明らかに大人の女のものだった。

 猫脚のソファに座ると「疲れたわ」とレニは足を組んで言った。


「脱がせて」


 屈辱に顔を歪ませて膝を折り、爪先に手を伸ばすロイをレニは満足げに見下ろしていた。鬱屈や憤怒の感情を吸い上げることは、レニにとっては糧となる。


「ねえ、ロイ。あなただけに教えてあげる」


 うっとりしたような顔つきでロイの頬を足先で撫でながらレニは話した。


「あたしたち【薔薇】はね、身体を切り刻まれたところで死なないのよ――時間をかけさえすればふたたび再生することが出来る。切っても切ってもまた生えてくる。不滅の存在なの」

「それを俺に言ってどうなる」

「だって、あなたがあたしを殺したそうに見てくるからよ」


 おかしそうに口元に手を添えてレニは言った。


「無駄だって教えてあげたくて」

「……そいつはどうも」


 目を伏せ息を吐いたロイをレニはじっと見つめる。それはまるで愛玩動物に向けるようなまなざしだった。


「あたし、あなたのこと気に入ってるのよ。エリーゼを選べばロイ、あなたが代わると言い出すこともわかっていた……そう、その表情よ、素敵ね、怒りと悔しさが綯交ぜになったそれ。たまらないわ」


 恍惚としたようすのレニがソファの上にロイを引きずり上げた。少女とは思えないほどに強い力で掴まれた腕には朱いあとが残される。性急な手つきでロイの首元を寛げる。そして丁寧に巻かれた包帯をプレゼントの包みを剥がす無邪気さで解いてしまうと、レニはぺろりと真っ赤な舌でどくどくと熱いものが流れる血管の位置を探った。


「見つけた、ここね?」


 鋭い牙を突き立て、破れた皮膚からあふれ出た鮮血をじゅるりと啜った。苦悶の表情を浮かべ、必死で羞恥と痛みに耐えているロイを眺めながらレニは笑みを深くして、深い快楽を味わった。

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