第28話 腕
――それが在ったのは、とある貴族の屋敷だった。
奇怪なものを蒐集するのが趣味であった伯爵が古道具屋から入手したのは、何かの動物の剥製と思われる干からびた腕だった。
夫人や子供たちは屋敷の主の趣味を薄気味悪いものとして扱っていたが、伯爵本人はご満悦で毎日のようにそれを眺めては愛でていた。思えばそのころから既に魅せられていたのだ。
「馨しい花の香りが、そう、薔薇の香りがするんだよ」
そんなことを口走りながら、枯れ枝のような腕(実際はそんな恐ろしいものではなく、腕のような枯れ枝なのかもしれないが)に頬ずりをする。そんな伯爵の姿は長男の眼にも奇怪に映り、早熟な彼は父親を早く引退させた方がいいのではと考える始末だった。
まるで恋人にするかのように愛を囁くその姿を、使用人たちは影で馬鹿にしていたし、家族たち同様に気味が悪いと思っていた。ただ主人に追従してばかりの執事だけがそのよさを理解しているとでもいうように笑顔で頷くものだから、喜んでしまった主はこの腕に触れさせてやってもいい、と考えたほどだった。
それが来たのは、月が綺麗な晩だった。
大きな満月で、末の娘などはあのお月さまをまるごと大きなパンケーキにして食べたいと言い出すほど。そんな他愛もない会話をしていたのが、まるで絵空事のようにさえ思えた。
あの瞬間まではすべてがいつもどおりで、平穏そのものだった。
「かえして」
幼い少女の声音が夜の静寂に響いたことに、おそらく屋敷の誰もが気づかなかっただろう。
子供たちは母の言いつけを守り、早々の内にベッドに入り込んで目を瞑っていた。妻は自室に戻り寝間着に着替えると――ドアに鍵をかけた。
伯爵はひとり寝室で、あの枯れ枝をいつものように愛でていた。
「ソレを、かえして」
囁くような声音が徐々に近づいてきて初めて、伯爵は顔をあげる。持っていた腕を思わず床に落としてしまった。
眼前に立っていたのは七、八歳ほどの少女だった。
闇の中にけぶる黒煙のような漆黒の髪に真っ黒なドレスを合わせてまとった姿はさながら夜の化身のようにも見えた。紫水晶の瞳でじっと床に落ちた腕を見つめている。
「お前は誰だ! それに、いったいどこから……⁉」
狼狽しながら叫ぶと、少女はくすくすと軽やかな笑い声を立てた。ただそれだけのことで、ぞっと背筋が寒くなる。にこりと笑うと彼女の唇の合間から鋭い牙が見えた。まるで獣のようなそれに思わず後退ってしまう。
ハッとしたときには、床に落とした腕を少女が拾い上げていた。
「こら、それを私に返しなさい! まったくいくらしたと思っているんだ……!」
「そんなの、あたしには知ったことじゃないわ」
幼い少女の声音だというのに不思議と艶めく女の色香を感じさせた。それに先ほどからずっと、くらりとするような甘い香りが室内に充満していた。そう、あの腕をそばに置いているときとまったくおなじ、馨しいにおいだった。
「これは、あたしのよ」
断言されて言葉に詰まった。
彼女がそういうのならその通りなのだろう、という妙な説得力がある。たじろいでしまうほどにきつく睨まれると、心臓をその手に握られているような感覚さえあった。年端も行かない子供にすっかり圧倒されている。けれど――此処で引きさがるわけにはいかなかった。
ぶるぶる震えながらも、伯爵は少女から愛しい「腕」を取り返そうと果敢にも掴みかかろうとした。
「あら、あたしに触れようというの?
指が彼女に届く直前で、男は後方に弾き飛ばされ壁で背中をしたたかに打ち付けた。
「あたしが望んで触れるのはいいけれど、勝手にべたべたされるのは気色悪いわ。いい迷惑」
くすくすと笑い声を上げながら、少女は壁際で崩れ落ちた男の頭を踏みつけた。ぐ、と体重をかけると足の下にある頭がぎしりと軋んだ。うめき声をあげた伯爵を、少女はしばらく観察していた。
「あたしの腕はそんなに良かった? ふふ――そう。あたしはいま気分がいいから許してあげなくもないの」
「あ……あぁ……」
甘い香りに包まれて喘ぐように呼吸する伯爵を、醒めた目で見下ろしていた少女はすん、と鼻を鳴らす。
「あら……?」
途端に廊下が騒がしくなった。寝室で大きな音がしたので、使用人たちが駆けつけて来たらしかった。「旦那様、ご無事ですか⁉」と執事が叫ぶ声が室内にまで響く。少女は煩わしそうに顔をしかめた。「父上! 何があったのですか⁉」と長男が忙しなくドアを叩いている。
内側から鍵がかかっているせいで、中に入ってこられないようだ。
「面倒だわ……まだ回復しきっていないのに」
うめき声をあげる伯爵を蹴り飛ばすと、軽く溜息を吐いた少女はドアが破られる瞬間をじっと待った。
「父上!」
ドアが開き、駆け込んで来た長男をまず少女は昏倒させた。
か細い腕で締め上げて人質にすることに成功すると、にっこりと微笑んだ。
「お初にお目にかかります。あたしはレニ」
使用人たちは目の前に広がる異様な光景に目を剝いているようだった。
突然現れた謎の少女、倒れたまま動かない屋敷の主人、そしてぐったりとしている
「本日より、このお屋敷はあたしのものとなりました。おとなしく死ぬかあたしに仕えるか、どちらかをお選びなさいな」
そう言って、長男の首筋にぎっと赤い爪痕を残した。
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