第16話 唯一の手掛かり
村のどこにもいなくなってしまったルーヴェンのことを、ミセス・カーターだけではなく村の誰もが覚えていなかった。ルーヴェンと親しかった子供たち――あのおさげ髪の少女にも尋ねたが、困惑したように首を傾げるばかりだった。
エレナは途方に暮れ、天を仰いだ。
分厚い雲が空を覆い隠し、降り続く雪が路面の足跡さえも消してしまう。この雪が確かに此処にいたはずの存在を、この村に暮らす人々の心から塗りつぶしてしまったのだろうか。
たったひとり、エレナを除いて。
まるですべてが一夜の夢だったかのように、エレナの目の前からあの美しい少年は姿を消してしまったのだった。
「……起きないと」
ぱちりと目が醒めたのは、起きるつもりだった時間より少し早かった。ひとりで休んだベッドの中が窮屈なことはなく、かつてすぐとなりにあったはずの温もりを無意識のうちに探していた。
夜明け前――窓の向こうはまだ漆黒の闇が広がっていた。
雇い主を起こさないようにゆっくりと階段を下りると居間の暖炉に火を入れて、エレナは朝食の準備を始めた。パンをオーブンに入れ、刻んだ野菜と塩漬け肉を入れた温かなスープを用意する。しばらくすると、ミセス・カーターが欠伸を堪えながら居間までやってきて、ダイニングテーブルの椅子を引いて座った。
「おはようエレナ」
「おはようございます、ミセス・カーター」
朝食は一緒に、と言われているのでミセス・カーターの分を給仕してから自分の分を器によそって席に着いた。椅子が三脚置かれた四人掛けのテーブル。
数日前まで埋まっていた席がひとつ空いていることに、エレナだけが違和感をおぼえていた。
「ねえ、エレナ。カーライルさんのお加減は大丈夫かしら」
「えっ」
食事を始めてしばらくしてから、ミセス・カーターはぽつりとそんなことを口にした。戸惑いを隠せずに聞き返したエレナに「やっぱり心配で」と、心優しい夫人は物憂げな表情を浮かべる。
「村はずれの森で血まみれの状態で見つかったそうじゃない? お医者様の話だと少々療養すれば、動けるようになるらしいけれど――やっぱり野生動物か何かの仕業でしょうね。怖い怖い、貴女もしばらく森には近づかない方がいいわ」
頭を金槌で殴られたような衝撃が走った。
向けられた銃口、発砲音。煙草の匂い。白銀の髪に深紅の瞳の、少しひねくれた口調の青年。頭の中でぶわりと混ざりながら記憶が浮かび上がる。
カーライル――あの男は、いまもこの村にいるのだ。
しかも生きている。それなら。
「カーライルさんはいまどこに?」
教えられたのは村で唯一ある酒場で、時々訪れる旅行客のために二階の一室を宿屋として貸し出すことがあるということだった。顔見知りの女将に声をかけて部屋の前に立つ。
「カーライルさん」
ノックをしたが反応がなかった。怯みそうになったが此処で引き返すわけにはいかなかった。
「カーライルさん、エレナです……入りますよ」
すう、と息を吸い込んで吐き出す。ドアノブに手を掛け中に入るとカーライルは新聞紙を顔にかけ、ソファで足を組んで眠っていた。病人ならベッドで休めばいいのに、と少し呆れながら声を掛ける。
「あの、カーライルさん」
呼びかけてはみても身じろぎひとつしない。よほど熟睡しているのだろうか。エレナはつかつかと歩み寄り、新聞紙を顔から剝ぎ取った。ついでにカーテンを開けて室内に光を採り込む。
う、と唸り声と共にカーライルが目覚めたようだった。目をこすりながら上体を起こし、じろりとエレナを睨むように見た。
「ん……なんだお嬢さんか。何の用だ?」
ふあ、と大きな欠伸をしながらカーライルは言った。
「お加減が悪いと聞いて……お見舞いに」
「そりゃどーも。見てのとおりぴんぴんしてるよ。丈夫なのが取り柄なんだ」
差し入れに持ってきたパンの入ったバスケットをテーブルの上に置く。カーライルはためらいなく手を突っ込んで、取り出した丸いパンを頬張った。美味いな、と意外そうにエレナを見遣る。
「どうしてソファで寝ていたんですか」
「どうもベッドってのが苦手でね――二度と起きられなくなってしまう気がするんだよ」
何を大げさな、と呆れてしまう。腰に手をあててカーライルを睨んでいたところではたとエレナは気が付いた。
「って、ちょっと! あなたなんて格好をしているのよ」
「はァ?」
「服をしっかり着なさいと言っているの! みっともないわ」
カーライルは素肌にシャツを羽織っただけで釦をひとつも留めていなかった。頬を真っ赤に染めてエレナが怒鳴るとカーライルはにやりと笑った。
「お? 若いねえ。この程度で恥ずかしがるとは」
「ふざけていないで早く着て!」
声を張り上げてもどこ吹く風で、カーライルはゆっくりと(おそらくわざとだ)釦を留めた。本当にいやなひと。エレナはむっとしながら腕を組んでソファでふたたび欠伸をしているカーライルを見下ろしていた。
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