第15話 消えた少年

「……馬鹿だなあエレナ」


 ――僕を守ることなんてないのに。


 地に伏したエレナの胸からあふれた血が真白の雪に沁み込んでいく。もったいない、と思うと同時にこの愛おしくも愚かな存在を傷つけた存在を憎らしいと思った。


「――くそ、どうしてお前だけぴんぴんしてやがる……っぐ、ぅ」


 情けなく吠える男の四肢には茨の蔓が絡みつき、身動きが取れないようになっている。雪原の上に倒れたカーライルの腹を踏みつけてやるとみっともない声で鳴いた。摘み取るもの、とか狩人ハンターとか。ルーヴェンには至極どうでもいいことだった。いまのルーヴェンには、よくも大事な玩具エレナを壊してくれたな、という苛立ちしかない。


 ルーヴェンの磁器のように白い頬には赤い血しぶきが飛び散って花を咲かせている。真っ白なシャツも、エレナの血でべっとりと濡れていた。

 エレナを優しく抱き上げていると、背後から苦悶の声があがる。【薔薇】の操る茨はルーヴェンと同じく血を好む習性がある。カーライルの流した血を喜んで吸い上げていることだろう。


「ぐっ……お前はどうやったら死ぬんだ、【薔薇】ぁ!」

「さあね――残念ながら銀の銃弾程度では死んだりしないみたいだよ。カーライル、だっけ? 大体あんたは僕を甘く見すぎじゃないかな」


 エレナを腕に抱いたまま、ぎりぎりと靴底でカーライルの手の甲を踏みつける。こんなことをしても何の意味もないのに、ひたすらに腹が立った。よくも。よくも、エレナを傷つけたな――頭に血が上って、こいつを痛めつけること以外考えられなくなってしまう。

 そのとき、ぎゅっとシャツが掴まれた。


「……ルー、ヴェン」


 切れ切れの声で、腕の中のエレナから名前を呼ばれてハッとした。

 瞼は閉じられたままだが、まだ息があることはわかっている。それでも早く処置しなければ――ルーヴェンは奥歯をぎり、とかみしめた。


「大丈夫だよエレナ、君を死なせはしないからね」

「ルーヴェン……」


 譫言のように自分を呼ぶエレナの頬に、そっと口づけを落とした。


「参ったな……利用しているだけのつもりだったけど、愛着を持ちすぎた」


 雪を踏みしめながら、少年は静かに森の奥へと向かう。男のうめき声がこだましたが、振り返ることはない。まっすぐに、まるで目当ての場所か何かがあるようにはっきりとした足取りだった。

 その姿は吹き荒れる雪風が覆い隠し、やがて見えなくなった。





『エレナ』


 何度か名前を呼ばれたような気がした。胸が焼けるように痛む。何が起きたのか自分でもよくわからなかった。ただひたすらに寒く、このまま凍てついてしまうんじゃないかと思った。

 氷のように冷たい手が、傷口に触れる。不思議と痛みは感じなかった。ただ大事に撫でられているような感覚が常にあったぐらいで。唇から何かが入り込んだときもおなじだった。生温かくて、とろりとしている。


『飲んで』


 優しく促されて、エレナは必死で喉を動かしていた。ごくりと飲み込むと喉が焼けるような感覚があった。思わず噎せると、蓋をするようになにか温かなものが唇に重ねられた。じん、と甘い痺れが唇に走って呼吸を一瞬忘れた。


『これでもう大丈夫だよ』


 自分はこの声の主を知っている。

 それなのに喉が張り付いてしまったかのように声が出なかった。遠ざかっていく気配に、待って、と呼び止めたかったのに。行かないで、と縋りたかったのに。身体がひどく重たかった。

 意識がそのまま昏い淵へと沈んでいくのが感じられる。いくら嫌だと拒んでも、甘い誘いに抗えない。


『さよなら、愛しいひと


 その柔らかな声音に包まれて、エレナは深い眠りに落ちていった。 





「……ふぁ」


 朝だ。

 小鳥の囀りが凍てついた窓向こうから聞こえてくる。痺れるような寒さが足元から這い上がって来る、いつもどおりの冬の朝。なんだか夢を見ていたような気がする――内容はあまり思い出せないが。

 と、同時にベッドには自分ひとりしかいないことにエレナは気が付いた。


 夜になると甘えるようにとなりに潜り込んでくる少年の姿がない。

 いるのが当然だったルーヴェンがいなかった。


 さあ、と血の気が引いていく音が聞こえた気がした。何故、どうして。頭をめぐった疑問に答える術はなく、ただひたすらに混乱していた。



「あら、エレナどうしたの――今日はお休みのはずじゃなかった?」


 ミセス・カーターが階段を駆け下りてきたエレナをぎょっとしたように見た。


「ルーヴェンがいないんです!」

「ルーヴェン?」

「どうしたのかしら、まさかいきなり出て行くなんてこと……」

「ねえ、エレナ――」


 ミセス・カーターは怪訝そうに眉を寄せてエレナを見た。


「ルーヴェンって、どなた?」

「え――」

「いやねえ、私ったら忘れっぽくなっちゃって」


 ミセス・カーターは困惑したように、エレナを見つめる。嘘や冗談を言っているようにはとてもじゃないが見えない。

 どくん、と胸が大きく鼓動した。


「ほら、ルーヴェンですよ。わたしの……弟のようなもので、金髪で青い目の子供を覚えていませんか?」


 必死で訴えたエレナを見てしばらく考え込んだミセス・カーターだったが、申し訳なさそうに「ごめんなさいね」と首を横に振ったのだった。

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