第10話 森の死体

 今日はミセス・カーターの友人が集まる茶会の日だった。


 燦燦と日差しが降り注ぐサンルームのテーブルに白いクロスを掛け、前日から仕込んでおいた焼き菓子を提供し、薫り高い紅茶を振る舞うのが恒例だ。エレナの用意した菓子はご友人のご婦人方にも好評のようで、お菓子を食べながら話に花を咲かせていた。焼き立てのスコーンからはバターの香りがふわりと漂い、半分に割ったところにたっぷりのクロテッドクリームをつけて食べると、もうたまらないと評判だった。

 王都に住んでいる息子夫婦から届いた手紙について語るミセス・カーターはいつになく嬉しそうで、そばで聞いていたエレナもつい笑顔になってしまうほどだった。エレナ自身は彼らに会ったことはないが、ミセス・カーターと同様に心根の優しい素敵な人たちなのだろう。


「……ねえ、ミセス・カーター、もうこの話は聞いた?」

「あらどうしたの、あなたがそんなふうにそわそわしているなんて。何か事件でもあったかしら」


 ミセス・カーターがこてんと首を傾げると友人の一人――確か、ミセス・ライカンだったか――が「そう、事件なの」と勢い込んで口にした。ソーサーに置いたカップがかちゃりと派手に音を立てる。


「村の外れにあるあの森でね、大きな熊が出たそうなのよ! それでね、しばらく森の中を徘徊していたみたい。今年って、木の実が不作なんですって。それで近頃、森の奥深くでは餌が足りないからって動物たちが村の近くまで来ているそうなの」


 ミセス・ライカンの言葉に気のいいご婦人方は震えあがった。


「まあ怖い」

「確かに動物はよく見かけるけれど」

「村の中にまでは来ないわよね」


 友人たちは心配そうにぼそぼそと話し始めた。


「大きな熊ってどれくらい? 私達よりもきっと大きいのよね」


 すると、ミセス・ライカンは声をひそめながらもきっぱりと断言した。


「来るわけないわよ! だってその熊、死んでいたんだから」


 友人たちは一斉に顔を見合わせた。そして張り詰めていた空気が一気に弛緩する。


「村の猟師の誰かが撃ち殺したってこと? なあんだ、じゃあ安心ね」

「何よ、驚かさないでちょうだいよ。ミセス・ライカン」

「ちょっとみんな、待って! まだ話は終わりじゃないのよ……なんでもその熊、誰かが撃ち殺したわけじゃないようなの」


 話があっさり終わってしまいそうになったところでミセス・ライカンが慌てて声を上げた。我が身に危険が迫っていたわけではない、と終わらせてしまいたかったご婦人たちは訝し気に、いつも話を若干誇張しがちな友を見遣った。

 ミセス・ライカンはこほんと咳払いをすると例によって少しためてから、重い口を開いた。


「猟師のトニーが言うにはね、その熊、全身から血が抜き取られていたんですって! 骨と皮しか残っていなくてとても肉を食べられる状態じゃなかったみたい。久々に熊肉が食べられるかと思ったのに、ってがっかりしていたわ」


 エレナは運んでいた皿をうっかり取り落としそうになった。ざわめく胸を押さえ、深呼吸してからキッチンに戻る。サンルームからは小鳥の囀りのようなご婦人たちの話し声が聞こえてくる。


「近くで、おなじように干からびたシカも見つかったそうよ。ねえ、おかしいと思わない?」

「何よ、ミセス・ライカン。何が言いたいの?」

「――あの森に得体の知れない何かがいるんじゃないかっていうことよ」

「もう、不気味なこと言わないでよね……そんな怪物じみたものがこの平和な村の近くにいるとでもいうの? おかしなひとね!」


 漏れ聞こえてくる会話を耳にしながらエレナは眩暈を堪え、調理台に片手をついた。嫌な予感がする。エレナもミセス・カーターと一緒になって馬鹿げた空想だ、と笑ってしまうことができればどれほど楽だろうか。


『エレナ、だって喉が渇いちゃったんだ』


 物憂げな表情を浮かべたルーヴェンが申し訳なさそうに微笑む。その口の周りは鮮血で濡れ、いままさに獲物から生き血を奪ったと言わんばかりで――。

 目を閉じ頭を振って、浮かんだ想像を掻き消す。美しい少年が森の野生動物を狩り、血を啜る。そんなものはただの妄想に過ぎないというのに。自分に言い聞かせるとエレナは紅茶のお代わりを持って、ご婦人方のもとに戻った。


「あら、ありがとうエレナ……あら」


 すん、とミセス・カーターは鼻を鳴らした。


「香水でもつけている? なんだか最近……貴女からすごく甘くて芳しい香りがするわ」

「いえ。きっと紅茶の匂いが移っただけですよ、ミセス・カーター」


 そうかしら、と首をかしげた女主人に微笑みながらエレナはティーポットから紅茶を注ぎいれた。

 途端、芳しい香りがサンルームに広がった。わあ、と茶会の参加者たちから歓声が上がる。

 茶葉をブレンドするのはエレナの主人であるミセス・カーターの趣味のひとつだ。特製の紅茶を友人たちに振る舞うのが、この会の目的だった。


「まあ、いい匂い! ミセス・カーターは本当にいい趣味をしているわね。今回は何をブレンドしたの?」

「ふふ、香りづけに薔薇の花びらを入れているのよ。それから……」


 ご婦人方は注がれた紅茶の香りや味わいについて批評し合うことに夢中になり、いつの間にか森の死体についての話題には触れられることは無くなった。


 それでもエレナの胸の中に、血に濡れた少年の幻影はしこりのように残っていた。

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